骸竜ファルドロギア
──その日までの私は、当たり前の日々が、当たり前に続くと思っていた。
水の都サンタナを見下ろす高台にあるロングラード侯爵家の美しい花々が咲き乱れる中庭で、私は執事のセルヴァンに、お勉強を教えてもらっていた。
春の日差しがぽかぽかとあたたかいよく晴れた日で、中庭の庭園には黄色とオレンジ色のチューリップが細い茎の先端に長細い花をつけていた。
チューリップの周りには紋白蝶が飛び回り、忙しなく小さな白い羽を羽ばたかせていた。
お勉強はいつもお部屋で行うけれど、よく晴れた気候の良い日は、中庭にお茶とお菓子を用意して貰って、教科書と紙とペンを持ってきて、日除けの傘のささったテーブルで行うのが、何よりも楽しみだった。
そういう日は特別で、難しくて苦手な語学の勉強も、スペルミスをしてセルヴァンに怒られることも、さほど苦にならなかった。
「セルヴァン様……!」
蟻、鳥、花、水、風、空。
見えるものを全部、文字にして書き出せとセルヴァンに言われた。
私が蟻という言葉の綴りを間違えて、何度もノートに、覚えるまで、蟻、と書き続けている時のことだった。
侍女のマルグリットが、青ざめた顔で私たちに向かい走ってきて、セルヴァンを呼んだ。
「どうした、マルグリット」
「セルヴァン様、お話が……」
どうやら、私には聞かせられないことらしかった。
セルヴァンとマルグリットが私から離れて、何かこそこそ話しているのを横目に、私は、ノートに蟻と書き続けていた。
蟻。蟻。蟻。蟻。
だんだん文字が、蟻そのものに見えてくる気がして、私はため息をついた。
マルグリットはどうしたのかしら。
私にいつも、走ってはいけないと怒るのに。今日は、マルグリットが走ってきた。
何か、困ったことが起こったのかしら。
大人たちはいつも私に隠しごとをする。こそこそ何かを話している時、私が教えてとお願いしても、大抵の場合教えてくれない。
「エルフィ様……お話があります」
けれど、今日は違うみたいだ。
マルグリットと話を終えたセルヴァンが、私がスペル間違いをした時みたいな怖い顔をして、私の方に近づいてきて口を開いた。
セルヴァンの背後で、マルグリットが両手に顔を伏せて、泣いている。
マルグリットが泣いているところを初めて見た私は驚いて、セルヴァンを見上げた。
「セルヴァン、マルグリットが泣いているわ。喧嘩はいけないのよ」
「違います、お嬢様、違うのです……っ、お嬢様はまだ、五歳なのに……なんてこと……っ」
「マルグリット、静かに。……エルフィ様、心して、聞いてください」
「……はい」
セルヴァンの声が今までにないぐらいに真剣で、私は生真面目な顔で頷いた。
「旦那様と奥様の馬車が、王都に向かう途中にあるミルケ山脈の下の森の中で見つかったそうです。ミルケ山脈に昨日骸竜ファルドロギアが出現したという報告があり……どうやら、馬車は骸竜に襲われたようだと」
お父様とお母様が王都に向かわれたのは、一週間前のことだ。
国王陛下のお誕生日のお祝いがあるとかで、貴族の方々は皆、参加しないといけないのだという。
王都への旅路は安全ではないから、私はお留守番だった。
一年のうちに数回、お父様たちは王都とロングラード領にある、ロングラードのお屋敷を行き来している。
必ず護衛をたくさん連れていくし、いつも特に問題なく到着して、何事もなく帰ってくる。
少しは寂しかったけれど、王都でお土産をたくさん買って帰ってきてくださるから、お帰りを楽しみに待っていた。
「……むくろ、りゅう……?」
セルヴァンの言っている意味がわからなくて、私は辿々しく、セルヴァンの言葉を繰り返した。
「馬車が……? お父様と、お母様は……」
「馬車は無残な状態で、馬も、人も、残っていなかったと。骸竜は、動くものは全て、食らう。……おそらく、旦那様も奥様も……」
「どういうことなの、セルヴァン……っ、わからない、わからないわ……!」
「お亡くなりになったということです。骸竜に襲われて、死んでしまわれた」
「どうしてそんな酷いことを言うの!? そんなのわからないじゃない……っ」
私は手にしていたペンやノートを、セルヴァンに向かって投げつけた。
頭がぐちゃぐちゃで、言葉が、まるで理解できないみたいだ。
何か、悪い冗談を言われている気がした。
マルグリットが、「わぁあ……っ」と、大きな声をあげて泣き崩れる。
私の瞳からも、わけがわからないまま、大粒の涙がぼろぼろと頬を伝って溢れた。
死んだとは、何?
蝶々は、蜘蛛に食べられて死んでしまう。
蟻は、私が踏むと死んでしまう。
お父様と、お母様は──。
「エルフィ様。しっかりなさい。あなたは……この家を、継がなければいけません。あなたが、領民たちを守るのです」
セルヴァンは私の両肩を掴んだ。
いつも汚れひとつない執事服なのに、片膝を土につけていた。
セルヴァンの深い青い瞳も、水気を含んだように潤み、揺れていた。
「骸竜なんてものが、現れたせいで……っ、どうして、あんな化け物が……どうして誰も、討伐できないの……!」
マルグリットの嗚咽が、悲鳴じみた声が耳に響く。
私は泣きじゃくりながら、セルヴァンに抱きついた。
いつも私に厳しいセルヴァンが、その日だけはずっと私を抱きしめていてくれた。
だから、お父様とお母様はもう帰ってこないのだと、幼い私は、思い知った。
──体が、重い。
苦しい。
喉が、乾いた。
「……ん」
冷たい水が口の中を潤して、私はこくんとそれを飲み込んだ。
もっと欲しいとねだるように手を伸ばすと、口にもう一度お水が入ってくる。
薄く目を開くと、先が細い水飲みを持っているヴァールハイトと目があった。
「お嬢さん、起きたか」
「……ヴァ、ル」
「ここは、あんたの屋敷だ。子供や兵士は、治療院に運んだ。お嬢さんも治療院にいたんだが、爺さんが迎えにきたから、ここに」
「爺さんではない、セルヴァンさんと呼びなさい」
夢の中で見た記憶よりもずっと老けたけれど、変わらない生真面目な厳しい声で、セルヴァンは言った。
ヴァールハイトは「爺さんを爺さんと呼んで何が悪い」と、肩をすくめた。
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