大切なものは一つだけ
姫──姫とは、ラシャーナのことだろうか。
それ以外には考えられない。
侍女頭が大急ぎで外にでいき、それからばたばたと戻ってくる。
「ヴァールハイト様、ラシャーナ様がいらしていて、あなたに会いたいと……!」
「……俺に」
俺の存在がラシャーナに知られていたのか。
聖痕の力を人前で使用したのは一度だけで、それ以外は大人しい旅路だったと思うのに。
だとしたら──見張られていたか。
俺を見張っていたわけではなく、おそらくは、エルフィを。
胸を支配している嫌な予感がさらに膨らんでいく。
「ヴァルト!」
屋敷の入り口の扉を勝手に開いて、姿を現したのはラシャーナだった。
最後に見た日からかなりの年月が経っているが、変わらない姿で俺の前に立っている。
俺の姿を見ると、瞳に涙を浮かべて駆け寄ってくる。
抱きついてくるラシャーナの肩を掴んで、俺はその体を引き剥がした。
俺たちの様子見て、侍女頭や警備兵が困惑した表情を浮かべている。
「俺はそのような名前の男ではありません。ロングラード邸に姫君ともあろう方が、一人で何の用でしょうか」
「ヴァルト、残酷なことを言うのはやめてください。あなたはヴァルト。ヴァルト・ハイゼン。私はあなたのことを、忘れた日など一度もありませんでした……!」
「お戯を。あなたはグレン・エジールの奥方ではありませんか。そのようなことを言ってはいけません」
何を言っているのか、ラシャーナは。
俺が咎めると、ラシャーナは目尻に貯めた涙をぽろぽろとこぼした。
「あなたが骸竜の討伐で命を落としたと聞いて、私はグレンと婚姻を結びました。けれどグレンは私を愛してなどいないのです。グレンは家に滅多に帰ってはこない。子も、いません。私は不幸です……あなたを失ってから、ずっと不幸でした」
「……エルフィならば、そんなことは言わない」
心が、冷えていく。
ラシャーナの事情など、俺は知らない。
グレンと結婚したのはラシャーナの選択だろう。
ラシャーナはあの頃と変わらない。着るものもその姿も、美しく整えられている。
少なくとも不自由しているような様子はない。
グレンは、ラシャーナが欲しくて俺を殺そうとしたのだろう。そこに愛が全くなかったとは思えない。
いや、そんなことはどうでも良い。
二人の問題に、俺は関係がない。
そして──エルフィならば、己の不幸を嘆いて、結婚をした相手ではなく別の男に縋るような真似はしないだろう。
なぜ、ラシャーナがここにいる。
グレンは妻の不貞を許すような迂闊な男ではない。ラシャーナが俺を知っているのならばグレンも同様だ。
俺が一人になった頃合いを見計らってラシャーナをここに送り込んだ。
何か、意味があるはずだ。
「エルフィがなんだというの!? あなたにとって、何なの……!? ヴァルト、あなたは私と結ばれる。約束をしたじゃない。どうか、私を連れてこの街から逃げて……! どこか、遠くに!」
金切り声をあげながら、ラシャーナが俺に縋り付いてこようとする。
哀れだ。
俺がラシャーナと結ばれていれば、ラシャーナは己の不幸を嘆くことなどなかったのかもしれない。
だが、過去は変えられない。
失った時間は戻ったりもしない。
俺が愛しているのは、欲しいのは、エルフィだけだ。
「……俺はヴァルトではない。俺は、ヴァールハイト。過去を持たない、エルフィの護衛だ」
「あんな女……! アレクから聞いたわ。我儘で自分勝手で、生意気で、男のように聖銃を持ち歩く田舎者の野蛮人だと。王家を……アレクを愚弄した、立場をわきまえない愚か者だわ!」
「血筋がそんなに大切なのか。俺は何も持たない孤児だ。英雄でもなんでもないただのヴァールハイトを、エルフィは受け入れてくれた。帰れ、ラシャーナ。あんたに構っている暇はねぇんだよ」
エルフィの元に行かなければ。
頭の中で何かが鳴り響いている。
エルフィが、危険だ。
迂闊だった。やはり行かせるべきではなかった。
「ヴァールハイト様、エルフィ様が!」
顔を真っ青にしながら、ウォレスが屋敷へと駆け込んでくる。
説明を聞いている時間はない。
嫌な予感が的中をした。
「剣を」
「ここに!」
侍女たちが、俺の剣を手にして恭しく捧げた。
「皆、荷物を纏めてロングラード領へ向かえ。大切な者たちを連れて。ここにいてはいけない。嫌な予感がする」
確証はないが、王都に留まるのは危険だと、警鐘が響き続けている。
俺は剣を掴み、それでも縋りつこうとしてくるラシャーナをウォレスや警備兵たちに任せると、外に出る。
ロングラードの侍従たちは成り行きを見守っていたのだろう。
俺の意図を察したのか、すでに屋敷の前には黒炎が厩から連れてこられていた。
「黒炎、いくぞ!」
黒炎に飛び乗り、ソファラ大神殿へと駆ける。
エルフィの無事を、祈りながら。
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