ラシャーナの来訪
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嫌な予感が、消えてくれない。
予感というのは野生の感のようなものだ。
それは単純な感覚というわけではない。
全ての状況を脳内で無意識のうちにかみ砕き分析してあらゆる可能性を考えた結果――なんともいえない嫌な予感というものが湧き上がってくるのである。
いわゆる、危険察知能力というようなものだ。
幼い頃――訳も分からないまま物置小屋に押し込められて生かされていた俺は、恐らくその能力が高い。
夜目がきくのも、耳が良いのも、小さな明り取りの窓さえない物置小屋の真っ暗闇の中で育ったからだろう。
気配には人一倍敏感で、殺意や敵意にも敏感だった。
だがいつしか、シャルムリッターという居場所を得て働くうちに、部下や仲間を得たという安心感からかそれが薄れてしまったのだろう。
いや、そうではないか。
人に対し、気を配らなくなった。
かつては、自分以外は皆敵だと思っていた。けれど、保護され騎士団に入ってからは、そうではなくなった。
俺は俺なりに、周りの人間を信頼していたのだろう。
その信頼が裏切られ死にかけて再び一人になり――いろいろなことがどうでもよくなった。
死にたいとも思わないが、積極的に生きたいとも思っていなかった。
守りたいものも、守らなくてはいけないものもなくなった。
エルフィに、出会うまでは。
だから――この嫌な予感は、杞憂ではないのかもしれない。
一人でアレクの結婚式になど、行かせるべきではなかったのか。
しかし俺がついていって余計な揉め事を起こすことが得策だとは思えない。
エルフィの言う通り密やかに恙なく時間を過ごし、出席したという事実だけ残してさっさと領地に帰るのが賢明なのだろう。
俺がヴァルト・ハイゼンでなければ。
ただのヴァールハイトだったのなら。いっそ、死にかけたときに顔の形が変わるような、酷い怪我を負っていたら。
堂々と、エルフィの隣にいられたのに。
王都には俺を知る人間が多い。グレンやラシャーナ、騎士団の関係者や王家の関係者は――俺の顔を見ればすぐに俺がヴァルトだと気づくだろう。
嫌な予感は、ただの気のせいであって欲しい。
きっと、数刻後には何事もなかったようにエルフィが帰ってくる。
いつものように抱きしめさせて欲しい。
それから、大人しく待っていた俺を可憐な声で「良い子ね」と言って、撫でて欲しい。
「ヴァールハイト様、落ち着きませんか」
エルフィを見送った後、玄関のエントランスを行ったり来たりしている俺に、侍女頭が話しかけてくる。
「あぁ。……あんたたち、俺に様なんてつけなくて良い。俺はエルフィの恋人だが、ただの雇われた護衛だ。孤児で、貧乏人の」
「そういうわけにはいきません。ヴァールハイト様は英雄です。それを差し引いても、エルフィ様の大切な方であり、ロングラードに戻れば正式に婚姻を結ぶのでしょう?」
侍女頭はエルフィの護衛についていったウォレスの奥方だ。
恰幅の良い体型をした人のよさそうな女で、俺とエルフィの関係を伝えたときに瞳を潤ませて喜んでいた。
エルフィの夫になれるような身分の人間ではないことは自分が一番良く分かっている。
けれど、エルフィを手放す気はない。もしエルフィが立場を理由に俺を拒絶するのなら、攫って逃げようと考えるぐらいには、俺はエルフィを愛している。
何もかもがどうでも良かった俺が、唯一欲しいと思ったものだ。
エルフィはそれを、俺に許した。
野生の獣を手なずけようとするのなら、そこには相応の責任が発生する。
エルフィには俺を受け入れた責任を取ってもらわなくてはいけない。
俺の言葉をエルフィは冗談だと思っているようだが、俺は本気だ。
孤独から救いあげて愛を教えた責任を。
だから俺は、どんなことがあってもエルフィと結ばれる――家族になる、つもりだ。
「あぁ、そのつもりだが」
結婚するのかという問いに、頷いた。
侍女頭は満面の笑顔を浮かべる。丸い顔に笑みを浮かべると、妙に愛嬌がある。
「ならばあなたは私たちの主です。主を敬うのは当然です。それに、私たちは嬉しいのですよ。エルフィ様は、子供のころからずっと必死に頑張っていました。一人でなんでもできるみたいな顔をして。辛いことなどなにもない、みたいな顔をして」
「なんとなく想像はつくな」
「はい。弱音や泣き言は、エルフィ様の立場でははいてはいけないのだと。一番偉い自分が頼りない姿をみせては、私たちを不安にさせると思っていたのでしょう」
「エルフィらしい」
「ですから……エルフィ様があなたに頼っている姿を見られるのは、嬉しいのです。小高い丘の上に一人で立って、吹きすさぶ強風を一身に受けていたようなエルフィ様が、休むこともなく空を羽ばたき続けていたエルフィ様が、宿り木を見つけることができたようで」
「それは俺も同じだ。エルフィは俺の宿り木であり、風雨から守ってくれる大樹でもある」
「エルフィ様を愛してくださって、感謝します。……エルフィ様はあと数刻もすればお帰りになりますよ。ヴァールハイト様、お茶でも淹れましょう。どうぞ中に――」
侍女頭に促されるままに奥に戻ろうとした。
ちょうどその時、客人の来訪を知らせる警備兵の焦ったような「お客様です! 姫君がいらっしゃいました!」という声が、エントランスに響いた。
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