いらない過去なら捨てたら良い
私がベッドから起きられない間に、ヴァールハイトは服を洗濯して部屋に干したり、食事を運んだりと甲斐甲斐しく動き回っていた。
ずっと晴れていたのに、天候が急に崩れたせいで外に干すことができずに、部屋に張り巡らされた紐にかけられた洗濯物から石鹸の良い香りがする。
荷物を極力持たずに一人旅を続けていたヴァールハイトは手慣れていて、私が横になっている間に必要なことは全て終わらせてくれた。
窓の外には暗雲が立ち込めていて、窓硝子についた水滴が、一つ二つと重さを増して流れていく。
さあさあと雨音だけが響くのが子守唄のようで、ヴァールハイトに全て行ってもらうのが申し訳ないと思いながらも、さらりとしたシーツとふわりと体に柔らかい毛布に包まれて、私はうとうとしたり起きたりを繰り返していた。
昼間からベッドに寝転んでいるなんて──はじめてかもしれない。
部屋に準備されていたガウン式のルームウェアを羽織って下着もつけずに。
夜でもないのに。
とても怠惰だけれど、妙に愛しい。洗濯物を、ばさりと広げて干す音とか。
上半身に何も着ていないヴァールハイトが動くたびに、隆起する筋肉とか。
その背中にある引っ掻き傷に気づいて、私は慌てて視線を逸らした。
「辛かったら、背中に爪を立てて良い」
「……大丈夫か、エルフィ」
「悪ぃな、もう、我慢できない」
耳元で囁かれた甘く、どことなく野生味のある声音を思い出して、頬が染まってしまう。
毛布をすっぽりとかぶって隠れた私のそばに、一通りやるべきことを終えたらしいヴァールハイトが近づいてくる。
「どうした、エルフィ。寝てるのか? ……それじゃ苦しいだろ」
「……ん」
声をかけられてどうしようかと悩んだ私は、寝たふりをすることにする。
顔を出すのは恥ずかしい。
ギシ、とベッドが軋んだ。
ヴァールハイトの重みの分だけ、マットレスが沈んだ。
質の良いベッドの分厚いマットレスも、大柄で筋肉質なヴァールハイトが座ると軋む。
軋む音が雨が降り出す前までの記憶を想起させて、さらに頬が染まった。
「エルフィ……」
毛布の上からそっと撫でられる。
大きな掌が背中を辿る感覚に、私はびくりと震えた。
「起きてるだろ」
「わ……っ」
ばさりと毛布が剥ぎ取られて、真っ赤に染まった顔が露わになる。
大慌てで毛布を引っ張ったけれどヴァールハイトの方が力があるので、毛布を奪い返すことはできそうになかった。
諦めた私は、両手で顔を隠して丸くなった。
「どうしたんだ、エルフィ。急に俺の顔を見たくなくなった?」
丸くなっていると、ヴァールハイトが少し、寂しげにそんなことを言った。
私ははっとして、顔をあげる。
ヴァールハイトは、生まれ育った村で不吉な子供として虐げられて育って──実の両親や人々を、幼い時に、害してしまった。彼らは瘴気──禍ツによってヒュームリゲイラになってしまったから、仕方のないことだった。
でも、ヴァールハイトは大きな傷を負っているはずだ。
それから、ようやく見つけた居場所も奪われて、裏切られて、一人。
拒絶されるのは苦しいわよね。
私の態度は、良くないものだ。
「ヴァールハイト……! ごめんなさい、私、……は、恥ずかしかった、だけで……!」
「ふ、はは……っ、可愛いなぁ、エルフィ。顔を見せてくれて嬉しいよ」
「だ、騙したの……!? 私、あなたを傷つけてしまったのかと思って……!」
私の横に寝そべるヴァールハイトが愉快そうに笑っているのを目にした私は、頭を抱えた。
恥ずかしい。恥ずかしい。
慣れていないのよ、こういうの。慣れていなくて居た堪れなくて、恥ずかしい。
でも──。
「寂しかったのは本当だ。あんたの顔が見たい。声が聞きたい。抱きしめたい」
「……うん」
私は寝そべるヴァールハイトの横で小さくなりながら、頷いた。
「ほら。おいで。エルフィ……洗濯を頑張った俺を癒してくれ。ロングラード侯爵領は良いな、水が豊富で。好きなだけ水を使える」
両手を広げるヴァールハイトの広い胸に、私はぽすりと顔を埋める。
どくんどくんと、規則正しい心臓の音が聞こえる。
優しく髪を撫でられたり、指先に絡められたりしながら、私は目を細めた。
恥ずかしいけれど、安心できる。
心音と雨音が混じり合って、眠気がじわりと忍び寄ってくる。
体にはまだ、倦怠感が纏わりついていた。嫌なものではなくて。甘く、気怠いものだ。
「……王国でも、いろいろな場所があるものね。……ロングラード領は恵まれているわ。だから……両親が亡くなった時、この土地を奪おうとするものが多かったの。遠く離れた、親戚を騙るものや、父の浮気相手を名乗るものとか、名前も知らなかった親戚とか……」
「欲深い奴は、どこにでもいるもんだな」
「……うん。でも。……私も、同じかもしれない。ロングラード領を奪われないようにと、躍起になっているものね。……そういう意味では、……ロングラード領を欲しがる人たちと私は、同じなのではないかなって……」
「そりゃ違うだろ。あんたが守ってるのは両親の形見ってやつだろ。それに……サンタナの街は居心地が良くてな。今まで色々な場所を点々としていたが、一番長くいた。……街にいりゃ、自然と噂は耳に入ってくる。あんたがロングラード侯爵でいるから、街の連中は平穏に暮らせてるんだろうよ」
「うん……ありがとう。……優しい、のね」
「惚れた女に優しくするのは当たり前だろ? ……まぁ、でも、……惚れてるから優しくしてるわけじゃねぇよ。今のは、ただの事実だ。……あんたの街は居心地が良かった。だから、長くいた。……それであんたをこうして抱けるんだから、長く滞在してた甲斐があったってもんだ」
ヴァールハイトの癖のある長い黒髪が、シーツに広がっている。
形の良い額が剥き出しになっていて、漆黒の瞳が良く見えた。
光がない、暗い瞳だと思った。けれど、まるで星の見えない、雨の日の夜空のようで。その深い色の底には、静かに光る月があるのだと今は思う。
「……ね、……ずっと、こうしていたいって、思ってしまうの。……駄目よね。……ここに、いたい。二人きりで、ここに。……帰りたい。優しい人たちのいる、私の家に。……あなたと二人で」
「そうすりゃ良いだろ。駄目なのか?」
「……駄目なのよ。……アレク様に嫌がらせするとか、……堂々と、挙式に参加する、とか。色々言っていたけれどね。……本当は行きたくない。でも、相手は……王家だもの。本来なら私が逆らうことだって許されない相手だったのに、私は意見をして、嫌われて……婚約破棄で済んだから、良かったのよ」
「そういうもんか」
「……招待状をわざわざ送ってきたのには、何か意味があるはずなのよ。……黙殺して、王都に顔を出さずにだんまりを決め込めば、……何か、良くないことが起こる気がするの」
「王都に行くってのも、嫌な予感がするけどな」
「……それでも少しでも、不安の芽は摘み取りたい。私の参加が求められているのなら、行かないと。……参加したら、文句は言えないでしょう? 王家の招待を拒絶した……なんて、言われなくて済むから」
私は私にできることをしないといけない。
それがロングラード領を守るためなら、何を言われてもどんな目で見られても我慢することができる。
でも。まるで足止めをするように降る雨に──行くなと、帰れと、言われているような気がした。
「俺があんたを守る。……何があっても、俺は、あんたを離したりしない。それがあんたの望みなら、俺はあんたに従う」
「……本当はあなただって王都に行きたくないと思うのに。ありがとう」
「あんたとこうしていると、過去なんてどうでも良いものだって思えるよ。……全部、忘れた。俺はあんたの護衛、ヴァールハイト……そうだな、そのうちヴァールハイト・ロングラードになる男だ。あんたに出会ってからの俺が、今の俺だよ」
「うん……過去は、捨てられるわよね。……あなたも、私も」
「あんたも過去を捨てるのか?」
「私……馬に乗れるようになりたいな、って、思って」
馬車も馬も、怖いと思ってずっと拒絶してきたけれど。
本当は、馬に乗ることができれば、もっと早く旅を終わらせることができる。
危険だって、減ることはわかっている。
ヴァールハイトは私の決意を聞いて「そりゃ良いな。移動が減れば、あんたとこうしてゆっくりできる時間が増える」と言って笑った。
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