魔骸と剣士
血相を変えて私の方へと走ってきたのは、先ほどすれ違った子供のうちの一人だった。
確か、南の水路にいる主を釣りに行くと言っていた子供たちだ。
「どうしたの、何かあったの!?」
私は真っ青になって震えている子供の前にしゃがみ込んで、その肩を両手で掴んだ。
「え、エル、ふ、ぃ、さ……っ」
「落ち着いて、ゆっくり深呼吸をして。大丈夫、私がいる。何があったか、教えて」
「……っ、エルフィ、さん……っ、南の水路に化け物が出て、マリクが、捕まって……っ、助けを呼んだんだけど、大人の人たちも、みんな、捕まって、死んじゃう、みんな、死んじゃうよ……!」
がたがた震えながら、少年が悲鳴のような声で私に訴えた。
南の水路に、化け物──。
魔骸は街の中には入れないはずだ。それなのに。
私の腕にぎゅっとしがみついて震える少年の手に、私は自分の手をそっと重ねて、その手を優しく退けた。
「あなたは来てはいけない。ここで待っていなさい」
「で、でも、エルフィさん、マリクが、友達が……っ」
「大丈夫、必ず助け出すわ!」
私は日傘を少年に渡すと、南の水路に向かって走り出した。
ここは、私の街。
この街を守るのは、私の責務だ。
化け物の好き勝手になんてさせない。
「……馬鹿か、お嬢さん。一人で行ってどうするんだ。お前は戦えるのか?」
「戦えるわけないでしょう、私は騎士ではないのだから! 私はあなたの雇い主よ。雇い主の望みを叶えるのが、傭兵の仕事。来なさい、ヴァールハイト!」
「どこまでも偉そうなお嬢さんだな」
「偉そうなのではないわ。私は偉いのよ。けれど、私の偉さには責任が伴う。街の人々を守るという責任がね」
「一人じゃ何もできねぇくせにな」
「だから人を雇うのじゃない。私が一人では何もできないことぐらい、百も承知よ」
南の水路まで息を切らせながら走る私の隣を、呼吸を乱すこともなく、ヴァールハイトがついてくる。
走っている最中に話しかけないで欲しいわね。しかも、当たり前のことを聞くのではないわよ。
私の側には、強いと評判の傭兵がいて、私はその傭兵を雇っている。
だから真っ直ぐに、化け物の居場所まで向かうことができる。
そうじゃなければ、兵を呼ぶわよ。一人で化け物に勝てると思っているほど、私はお気楽な愚か者じゃない。
「遅ぇな、お嬢さん。あんたも連れていかなきゃいけねぇのか?」
「南の水路の場所がわかるの?」
「さぁ」
「じゃあ、連れて行きなさい。あなたが迷っている間に、誰かの命が失われるなんて、冗談にもならないわよ」
「しょうがねぇな」
ヴァールハイトは、私を軽々と肩に担ぎ上げた。
不愉快な持ち方だわ。もっと、紳士的な行動は取れないのかしら。口調も乱暴だし、粗野。
でも、今はそんなことを注意している場合じゃないわね。
「ヴァールハイト、そこの角を右、まっすぐいって、左、階段を降りて右です!」
「大体わかった、道を間違えそうになったら指示をしろ」
「ええ、わかったわ」
「お嬢さん、口を閉じていろ」
ヴァールハイトは、私を抱えたまま石畳を蹴った。
まるで、一陣の風が吹いたように、軽々と跳躍するようにして、私の指示した曲がり角まで走る。
速度が速いせいで、曲がる時にかかる遠心力を利用するようにして、体が傾いた反動を利用して、跳躍を行う。
角を曲がり、石段を全段一気に飛び降りた。
「ひっ……」
「声を出すな、お嬢さん。舌を噛む」
浮遊感に思わず悲鳴を上げると、小馬鹿にしたように注意をされる。
私は唇をきゅっと結んだ。本当はちょっとだけ舌を噛んでしまって、じわじわ血が滲んで痛かったけれど、気づかれないように気をつけた。
階段を降りると、水路がある。
石畳をくり抜くようにして流れている大きな水路だ。いつもは透明度の高い美しい水が流れているのに、水路の水が紫色に濁っている。
「ここを真っ直ぐです、ヴァールハイト!」
「ここから先は言われなくてもわかる。降ろして良いか、お嬢さん」
「連れて行きなさい、このまま行くのです!」
「はいはい」
紫色が濃くなっていく、街の外から川の水が注ぎ込んでいる水路の最南へと、ヴァールハイトは駆ける。
体の重さを全く感じさせない速度で飛ぶように、南の水路奥へと駆け込んだ。
街中に流れる水路は、東と西と南から街に注いで北に流れていく造りになっている。
東と西と南の水路奥は、滝壺のように大きめの入り口になっていて、川の水を、三つ並んだトンネル状の水門で調節する形になっている。
水路の点検用に設けられた通路には、先に助けに駆けつけたのだろう、兵士の方が数人倒れている。
真紫に染まった水路の水の中に、異形の巨躯がある。
それはまるで軟体動物のように動くたびに体の形を変えた。
青紫色の体には斑点模様があり、頭にはカタツムリのような触覚がある。ぬらぬらと光る胴体からは触腕のようなものが何本も生えていて、そのうちの一つに、マリクと思われる子供が巻き付けられている。
目のない顔にぽっかりと空いたような真っ赤な口には、ぎざぎざの牙が何連にも連なって生えている。
触腕が持ち上げられて、マリクを口の中に放り込もうとしている。
「魔骸……」
予想通りだけれど、街に魔骸が出現するのはこれが初めてだ。
地を這うものの一種だろう。
口から赤い大きく長い舌が伸びて、マリクの体を舌で絡めとろうとしている。
「動くなよ、お嬢さん!」
ヴァールハイトは私を投げ捨てるようにしてじめじめと湿った石畳に降ろすと、腰に下げた剣を抜いて、マリクが捕らえられている空高く持ち上げられている触腕に向かって、躊躇いなく跳躍した。
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