酒をそそぐは縁の切れ目
酒をそそぐときに「注ぎ口」を使うなという嘘マナーがありました。
酔っぱらった時にこぼすぞと思っていたら、注ぎ口が3つ付いたとっくりが出てきて笑ったのもいい思い出です。
「おいゴラ中田ぁ!」
また朝からまた田中部長が怒ってる。そろそろ血管キレるんじゃないのか? 逆に心配になってくる。
「お前、昨日の飲み会での酒の注ぎ方は何だっ!!」
「酒の注ぎ方ですか? ビールのラベルはきちんと上に向けましたよ」
ぶっちゃけそれすらも馬鹿臭いと思ってはいるが、個人的にはやっても面白いと思ってやっている。
ちなみにほかの飲み会で見ている限り、やっている奴は一人もいない。
むしろ、社長に「中田君、早く注いでよ。喉乾いたぁ!」って言われたし……。
「ビールは正しいからいい。日本酒そそぐときに、なんで注ぎ口からそそいだ!」
「……? 注ぎ口から酒をそそぐのは普通じゃないんですか?」
例えば社員食堂のレードルという汁物をすくうお玉の一種に注ぎ口がついている(なお、左利きの岸部君からは大不評)し、取引先に納めている一斗缶にも注ぎ口がついている。
メーカーがわざわざそそぎ口をつけているんだから、素直に使えばいいだろう。
「お前が新入社員の時に教えただろ。『注ぎ口が円になっているから、縁を切るの意味になるからやめろ』って」
「……その後に開かれた新入社員歓迎会を見たら誰もやっていませんでした。なので、それ以来やってません」
「……はっ? 誰もやってなかった? なら、お前が率先してやればいいだろうがぁ!」
田中部長は言い出すと聞かない。
適当に思ってもいない謝罪をして切り抜けるのが、一番簡単に終わる。
「すみませんでした。次からは気を付けます」
「わかればいい」
そして、田中部長は岸部君とお客さんまわりをするので出かけて行った。
そういえば俺、忘年会の幹事を任されてたな。
そろそろ予約し解かないとなぁ……。
「あぁ、中田君ここにいたか。ちょっといいかな」
「あれ、経理部長じゃないですか。どうしたんですか?」
「……ちょっとね」
なんか怖いが、俺みたいな下っ端は上に従うしかない。
せめて、田中部長の嘘報告でクビじゃないことを祈ろう……。
――
「田中部長。いえ、田中先輩。お疲れさまでした」
田中部長は田舎で家族が経営している農業を継ぐことになって、会社を辞めることになった。
一応、俺の社員教育担当だったので酒をそそぎに行く。
「中田かぁ。日本酒をそそいでくれないか?」
お猪口を俺に差し出す田中部長。いや、元部長か。
「注ぎ口からそそがない方がいいですか?」
「ばーか、注ぎ口からそそぐのが当然だろ」
田中先輩はいたずらっ子みたいにウインクしてくる。メタボのおっさんでなければ、絵になるのかもしれない……。
「実は、4月くらいから辞める話をしていた。で、社長親族たちから『お前の後任』を選べって言われていた。で、お前を挙げた。ただし、社長一族は『若造でストレスに耐えられないだろう』といっていた。悪かったな。この一年無駄なパワハラして」
田中先輩は社長一族しか役職者になれないといわれていたこの会社で、部長という役職者になった男だ。
尊敬できない部分も多々あるが、仕事の手腕それ自体は俺自身評価している。じゃなければ、「辞めたい」と思った時点で俺は会社を辞めていただろう。
「わざとネットで調べた嘘マナーをお前に教えて、お前がそれをきちんと論破できるかを見ていた。この俺様の後任になるんだ。社長一族のプレッシャーは今までの比じゃないぞ」
「……ビビらせないでくださいよ、田中部長。いえ、あえて田中先輩と言わせてもらいます」
「……はははっ! あのなよなよしていた新人が営業部部長だものな! そうだ、最後に先輩として本当に正しいマナーを一つだけ教えてやる」
そういうと田中先輩はまじめな顔をして、俺に一言だけ言う。
「いいか、最大のマナー違反はその場でマナー違反を指摘することだ。これからお前も飲み会に参加することが増えると思う。ヘンテコマナーをするアホアホ社会人もいると思う。ジジイになると、若者にマウントを取りたくなると思う。だが、今言ったことだけは絶対に忘れるな」
マナー違反をその場で指摘するのはダメです。
実際、田中部長も後日呼び出してたのがその証拠です。
終わりっぽい雰囲気ですが、もうちょっとだけ続きます。