少年は、空の浮島で夢を見る(三十と一夜の短篇第45回)
―――ああ、これでようやく……。
こみあげる思いに、知らず目を閉じていたらしい。
肩を叩かれて顔をあげると、腹心の少女が眉を寄せてわたしを見下ろしていた。
「どうされました。お疲れですか?」
「ああ、疲れはしたが」
少女の声ににじむ心配の色を払おうとくちにしかけた否定の言葉を止めて、思いなおす。
「いや、それよりも、ようやく今日を迎えられたのだと、うれしくてね。柄にもなく昔を思い出していたんだ」
「昔、ですか」
「ああ。まだ、作戦開始までいくらかあるな。ひとつ、思い出話に付き合ってもらおうかな」
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雨が降っていた。浮島を覆う半透明の有害物質遮断幕に当たった雨が、有害物質遮断幕を伝っては落ちていく。
それは、偶然だった。
雨粒を眺めていた少年は、ふと、雨粒の行方が気になった。
「ねえ、案内人。落ちた雨粒はどこへいくの?」
なにげない質問だった。いつだって問いかけにはよどみなく答えてくれる個人の専用人工知能に、少年は問いかけた。
一瞬、間があいた。
『雨粒は、地上に落ちます。地上に落ちた雨粒は、河川などを通って湖や海にたどりつき、蒸発して再び雲になります』
頭部装着用操作機のなかのスピーカーから、合成機械音声が機械なりのよどみなさで答えた。少年が学習していない単語がたくさんあったけれど、なかでも気になったものを再び問いかける。
「地上ってなに? ぼくらが住んでいる浮島の表面とはちがうの?」
『その問いへの回答は、許可されていません」
案内人が回答しないときは、質問のしかたが悪い。そう学習していた少年は、すこし考えて聞き直した。
「雨が通る河川は、浮島にある水路のこと?」
『いいえ。河川は地表を流れ湖や海にたどりつく水の流れです。水路は人工的に作られた構造物です』
「河川は浮島にもある?」
『いいえ。河川は地上にあります」
「地上はどこにあるの」
答えを得るたび矢継ぎ早に質問を重ねていく少年に、案内人はよどみなく答えた。
けれど地上について問うと、またすこしの空白をはさんで声がする。
『その問いへの回答は、許可されていません」
「……そう」
案内人に問うことをやめた少年は、有害物質遮断幕の端まで移動した。移動先を案内人に伝えて地面にある軌道敷のうえに立てば、自動で目的地まで運ばれる。
流れるような速度で視界が変わっていくけれど、全身を覆う人体保護材と頭部装着用操作機のおかげで、風圧を感じることもない。
ほどなくして、軌道敷の稼働が停止した。
浮島の端は、有害物質遮断幕で区切られており、島より下を見ることは叶わない。
少年の目に映るのは、曇った空と有害物質遮断幕を伝い落ちる雨、それから空に浮かぶ浮島だ。
雨にかすむ視界のなか、ぽつりぽつりと浮かぶ浮島が近く、遠く、いくつも見える。あれらの浮島にも全世界総括人工知能が選出した百人が、住んでいるのだろう。
ふと、すこし離れたところにある浮島から、ぼろぼろとこぼれる物が見えた。
島に不要な物を廃棄しているのだろう。雨の日によく見られる光景だ。
浮島には重量制限があるため、必要分の雨水を補給したあとにはああして調整のために不要物を捨てる。そうして、重量オーバーにならないようにいるのだと、学習していた。
有害物質遮断幕にはじかれた雨粒といっしょに、落ちていく物たち。
当たり前の、いつもの光景。
それなのに、少年は思ったのだ。
あの雨粒が、廃棄物が、落ちていく先には何があるのだろう。
「ねえ、案内人……」
気になった少年はいつもどおりに問いかけようとして、ことばを止めた。
尋ねたところで、返ってくるのは『その問いへの回答は、許可されていません」という返答だろう、と思ったのだ。
そのため、少年は求めている答えを得るための質問をやめて、案内人に声をかけた。
「ねえ、案内人、家に帰りたい」
本心を隠して、平静を装った。案内人に相談せず何かを企てるのは、はじめての経験だった。
『軌道敷を確保します。……確保、完了。三番の軌道敷敷に移動してください』
言われるままに足を進めた少年は、割り振られた区画に入った。窓はないが、常に一定の光量を保たれた室内のなか、唯一置かれている寝床のシーツがほの白く浮かびあがる。
少年は寝床に腰掛けて頭部装着用操作機を操作すると、図書目録に目を通す。
前部硝子体に表示された文字からいくつかを選べば、案内人の声が問いかけてきた。
『選択された文書を読み上げますか?』
「うーん、いいや。今日は自分で読みたい気分なんだ」
それきり案内人は沈黙し、少年も黙々と文字を追った。
しばらくして。
「案内人、すこし身体を鍛えようと思う」
『筋力維持のための電気刺激を強めますか?』
「ううん、この古典娯楽誌がさ……」
少年が文書を視線で示すと、案内人は数秒の間をおいて応える。
『米国消防士歴』
「うん、こんな身体にしてみたくて」
そう言う少年の前部硝子体に表示されているのは、筋骨隆々の裸の上半身をさらした男たちの写真。
添えられた文章には、はるかな昔にひとびとを危機から救うため、力を尽くした男たちの写真を集めたカレンダーだと記されている。
「彼らは『筋トレ』をしてこんな身体を作っていたらしいんだ。だからこれから毎日、区画にいるときは人体保護材を脱いで身体を鍛えるよ」
『……効果的な筋肉増強法に関する情報を集積します。目標筋量、確認。必要栄養素、確認。運動法、確認。これより、計画を実行します』
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はじめて人体保護材を脱いだ日は、ひどかった。
最低限の活動に必要な筋肉は、電気刺激で自動的に作られていると学習していた。
けれど、それはあくまで人体保護材の補助作用がある状態で必要な筋肉のことだったようだ。
区画で物心がついてはじめて人体保護材を脱いだ少年は、筋トレをするどころではなかった。
自力で立ち上がることさえ難しく、案内人に歩行補助具を手配してもらうはめになった。
それでも、身体能力が向上する年頃であったことが幸いして、少年の身体は半年後には人体保護材も補助具もなしに走りまわれるほどになっていた。
途中からは案内人に運動用の区画を申請して、少年はいち日のほとんどを筋肉増強区画と名付けたその区画で過ごすようになった。
電気刺激に頼らず自力で身体を鍛えたいからと、少年は人体保護材も案内人も締め出して、ひとり区画にこもる。
そんなことが一年ほど続いたある日。
『繁殖適正年齢に達しました。精子を採取します』
起床とともに告げられて、少年はぼんやりと返事をした。
事務的に回収される精子。
学習のなかに、年齢とともに生じる義務の項目があった。検査を受け、遺伝子的に微瑕がないと判断された精子は、同じく検査で合格した卵子に注入され、存続すべき優性な人類として培養されるのだ。少年が、かつてそうして誕生したように。
案内人の指示で物販運搬路に乗せれば、どこかへ運搬されていく精子の入った管。
遠ざかるそれをなんとなく目で見送った少年は、瞬きの間に見えなくなった管のことを忘れ、立ち上がった。
「案内人、きょうの義務はこれで終わり?」
『はい、おつかれさまでした。以降は個人の自由時間です』
「そう。だったら、いまから筋肉増強区画に行くよ。就寝時間まで出てこないつもりだから、いつもの固形栄養食品と飲み物を用意しておいて」
この一年ほど、変わらない日常の業務を言いつけられて、案内人は変わらない返事をする。
『承りました。行ってらっしゃいませ』
平坦な声に見送られ、少年は人体保護材を脱ぎ頭部装着用操作機をはずして筋肉増強区画に入る。
いつもであれば、軽く準備運動をして筋トレをはじめる少年は、部屋のすみにある案内人の目に用意しておいた擬似映像を流す機材を貼り付けた。
これで、定期生存確認も通過できるだろう。
同じく用意しておいた布袋に、室内に用意されていた固形栄養食品と飲み物を押し込み、少年は案内人の目の刺客を通って、自身の区画から出る。
そのまま、廃棄物運搬路に入り込み、廃棄物にまぎれてついに少年は降り立った。
「ここが……地上」
つぶやいて、すぐに少年は咳き込んだ。あわてて、布袋から目の細かい布を取り出して口元に巻きつける。
「げほっ、えほっ、はっ……はっ」
異臭がした。今日よりも前に落とされた廃棄物が腐敗し、空気を淀ませている。浄化されていない大気が肺を刺激して、のどがざらつく。
はじめて肌に感じる外気は、少年の肌をひりつかせその身体を無意識に震えさせた。
「これが、寒さ?」
筋肉増強用に、と案内人に手配させた薄っぺらい布の服のしたで、少年は生まれてはじめて鳥肌を立てた。
しかし、少年のほほはばら色をしていた。
適温に調整されていない大気と触れたことが、少年の気持ちを高揚させていた。
「これが、大地……ここが雨の落ちる場所!」
頭にも布をかぶり、目元だけを露出させて見回した世界は、少年をちくちくと苛んだ。
薄汚れた雲越しにさす陽光は、少年の肌を容赦なく痛めつける。浮島からの廃棄物にまみれた地面は、少年の歩みを妨げる。
けれど少年の目はきらきらと輝き、飽きることなくあたりを見回していた。
「……ぃああ、ひああ」
ふと、廃棄物の山を進んでいた少年の耳にかすかな音が届く。
足を止めた少年は、生まれてはじめて耳をすませて、音のありかにたどりついた。
そこにいたのは、うごめきか弱い鳴き声をあげる生き物。ふくれた腹にかざりのような手足、わずかな頭髪を持つばかりでほとんど丸裸のその生き物は、顔をしわくちゃにして泣いていた。
「……小さい、ひと?」
見慣れない生き物に少年が戸惑い、つぶやいたとき。
「おい、早く抱きあげてやれ!」
乱雑な声がして、少年はおどろき肩をすくめた。その横を風のように通り抜けた影が、泣き声をあげる生き物を抱えて胸に抱く。
「赤ん坊が凍え死んじまうだろうが! いるものはほかの連中が拾って戻る。お前、足元の食い物を持て。おれらはいっぺん帰るぞ」
「え、あ」
「おら、早くしろ! もたもたしてっと次のごみに潰されちまうぞ」
頭から足先まで、ぼろ布に包まれた人物に矢継ぎ早に言われて、少年はおどおどしながらもうなずいた。
それにうなずいて、ぼろ布をまとった人物は廃棄物の山を飛ぶように駆け下りていく。
あわてて追いかけようとした少年は、はっと立ち止まり足元に落ちている固形栄養食品の屑を両手いっぱいにすくった。ぼろぼろとこぼれる屑を気にしながら、視線を巡らせた少年の目に、廃棄物の山のそこここで動く小柄な人影が映る。
「ひとが、こんなにいるんだ……」
新鮮な驚きを胸に、廃棄物の山をどうにか降りた少年がたどり着いたのは、浮島のしたからそう離れていない岩場だった。
「なんだ、それっぽっちしか持って来られなかったのか」
ごつごつした岩場で追っていた背中を見失い、おろおろしていた少年の背に声がかけられる。
振り向けば、岩のひとつの向こうから布に包まれた人影が少年を見ていた。その粗雑な声からするに、さきほど少年に着いてくるよう言った人物だろう。
「まあいいや。そんなとこで突っ立ってたら、太陽に焼かれちまう。はやく降りるぞ」
言われるがまま岩に近寄った少年は、岩陰になった地面に細長い亀裂が入っているのに気がついた。細長いと言っても、場所によっては少年の肩はばほどの広さがある亀裂だ。
のぞきこむと、そのなかに遠ざかっていくぼろ布が見えた。
手のひらにわずかに残った固形栄養食品の屑を布袋に詰めて、少年はおそるおそる亀裂のなかへと足をすすめる。
「ほら、いつまでも食い物を持ってないで。そこに置いてこっち来いよ」
いくらも進まないうちに、亀裂は行き止まりになった。
行き止まりはいっそう亀裂が横に広がっており、少年のクラス区画ほどの空間になっていた。ひとが五人ほど横になれるだろうか。
上にいくほど狭まる亀裂のために、屈まなければ頭をぶつけてしまいそうだが、細く入る太陽の光のおかげでほどよく明るくもあった。
むき出しの土に囲まれたそのなかで、ぼろ布に包まれた人物はためらいなく土のうえに腰を下ろす。
身体を覆うぼろ布の胸の部分をがばりとはだけさせたかと思うと、抱えていたちいさな生き物を裸の胸に押し当てて、ぼろ布ごと抱きしめた。
「なにをしてるの?」
「あっためてる。赤ん坊は弱いからな、寒いと死んじまう。すこしでも体温をわけてやって、生き延びてくれればいいんだが……」
そっと近づいた少年が問うと、ぼろ布ごとをまとった人物は自身の胸元を見つめながら応えた。
布越しにちいさな生き物をなでるその手つきは、ひどくやさしい。うごめくちいさな生き物に向けられたぼろ布の隙間からのぞくひとみが、どうして暖かく感じられて少年の胸がつきりと痛んだ。
「悪いなあ、乳は出ないんだ。雨が降ればなあ。雨水でふやかした買い物をやれるんだが」
やさしくやさしくちいさな生き物をさすりながら、ささやくような声が言う。
その声に、少年はあわてて背負っていた布袋をおろして、中身を取り出した。
「これ、水。なにも添加されてないけど、良かったら使って」
「おまえ、これ……」
少年が差し出した水の入った容器と、そのなかで揺れる透明な液体に、ぼろ布の隙間に見える目がおおきく見開かれた。
ちらり、ちらりとその目が少年の顔に向けられ、体に向けられ、そして容器に向けられた。
「すまん、助かる。すこしの間、この子を抱いててくれるか」
「えっ、わあ!」
どこかかたい声で言ったかと思うと、少年の腕にちいさな生き物が無造作に渡された。
あわてて受け止めたその身体が、ぐんにゃりともたれかかってくるものだから、少年はどうしていいかわからずにおろおろしながらも、動けなくなる。
「くくっ、そんなに肩に力を入れなくてもいい。まだ首が座ってないから、首の後ろを支えてやって、あとは落とさないようにあっためてくれれば、大丈夫だ」
笑いまじりに言われたとおり、少年はおそるおそる腕を動かしてちいさな生き物を胸に寄りかからせてそっと抱きしめた。
ちいさくて、ひどく軽い。それなのに、触れたところからしめったような温もりが広がって、とてつもなく重たいものを抱えているような気持ちになってくる。
腕のなかで身じろぎした生き物が、少年の胸に頭をすりつけるようにするのを見て、少年の胸に正体不明の熱がぶわりと広がった。
「……あったかい」
思わずつぶやいた少年に、ぼろ布をまとった人物がくすりと笑う。
「生きてるんだから、当然だ。捨てられてから見つけるまでが早かったから、そいつはきっと助かるぞ。新鮮な食べ物ももらえるからな、運がいい」
言いながら、巻きつけていた布をはずした指先がどろどろになった固形栄養食品をまとって差し出された。
ちいさい生き物のくちに添えられた指が、そのちいさなちいさなくちにちゅぱりとくわえられる。
嘘のようにちいさなくちがむにゅむにゅと動き、ちいさな生き物は必死に食べ物を摂取しているようだった。
「……お前もやるか?」
「えっ!」
「お前の指のほうがきれいだから、この子にもきっといいだろう」
そう言って、ちいさな生き物のくちから引き抜かれた指は、節くれだってひび割れ、ひびのあいだや歪な爪のなかに汚れがすりこまれており、お世辞にも清潔そうだとは思えなかった。
ためらいながらもちいさな生き物を引き渡した少年は、自身の指を見つめ、衣服の内側で何度かぬぐってから、なにかの破片に入ったどろどろの固形栄養食品に指をつけた。
そうっと差し出した指ごと、ちいさな生き物のくちに食まれて少年の目が驚きに見開かれる。
「熱い……くすぐったい!」
思わず笑った少年につられたように、ぼろ布をまとった人物もくすくすと笑う。
指を何度か移動させるうち、ちいさな生き物はやがて吸い付く力を弱めていって寝てしまった。
吸い付くほどの力はなくとも、くちもとに指を置けばふくふくとくちが動く。無意識に突き出されるくちびると、ぎゅうとにぎりしめられたちいさな手をつつく少年を見ていたそのひとは、ふと表情を引き締めた。
「……おまえ、空の島のひとだな」
静かな声に、少年はびくりと指を引っ込めた。ちいさな生き物をつついて温まっていた指先が、急に冷えていく。
なぜばれたのか、そう問う前に答えが与えられる。
「お前はきれいすぎる。指も、顔も、着てるものもぜんぶ」
言われて、少年は見比べた。案内人が用意した衣服は、筋肉増強用の軽くて薄い質素なものだ。
けれども穴は開いていないし、汚れといえば廃棄物の山を降りたときについたすこしの土だけ。
対する地上のひとの身体を覆うのは、衣服と呼ぶのもはばかられる土とそれ以外の汚れにまみれてかたくごわついた、穴やほつれだらけの布切れだ。
「なんの気まぐれか知らないが、はやく帰れ。ここにいたら寿命が縮む」
そう言って、ぼろ布をまとったそのひとは、布のしたで嫌な音の咳をする。少年が聞いたことのない、身体の奥から命がこぼれているようなひどい咳。
「どこか、悪いの? だったらいっしょに浮島に行こう。案内人に頼めばすぐに治療してくれるよ」
誘いかける少年に、そのひとはかすかに笑って首を横にふった。
「地上で生きてるのは、島から捨てられた子どもたちだ。着いて行ったところで、また捨てられるだけさ。おれたちゃ不用品なんだ。お前もそうならないうちに、早く帰れ。帰る場所があるなら、こんなとこにいちゃいけねえ」
「でも、それじゃあ……」
少年はためらいながらも、今朝運ばれていった精子の入った管を思い出していた。
育てられるのは優性な人間だけ。では、生まれたあとに優性ではないと判断された者たちはどうなるのか。
これまで考えたこともなかった、選ばれなかったもののことが気になった。学習した以上のあれこれを知りたいという思いが、少年の胸にわきあがる。
「この赤ん坊も、長生きはできない。老衰なんて夢物語だ。それでも、こいつは生き延びられるだけ幸せさ。お前がいてくれたおかげで、きれいな水を飲めた。きっとこいつは、強い子になる」
ぼろ布の合間からのぞく瞳が、愛おしげにちいさな生き物に向けられるのを見て、どうしてか少年の胸は痛む。
けれど、その痛みはきっと案内人に言っても解決しないものだと、少年にはわかっていた。
「その子と……」
ちいさな生き物が、ひとの子であると少年は確信していた。
そのちいさな命を永らえさせたいという気持ちが、胸のどこかから湧いてくる。
「その子を連れて、あなたも島に」
「はやく、帰れ」
湧きあがる気持ちのままにくちをついたことばは、やさしい拒絶にさえぎられた。
ことば尻はきつい。けれど、それをくちにしたひとの目はひどくやさしかった。
「はやく、帰れ。俺らはここでしか生きられない。ほかの子たちがいらない夢を見る前に、はやく帰ってくれ」
やさしく細められた目に見つめられて、少年の胸ははげしく痛んだ。苦しくて、苦しくて、思わずよろめいた少年は後ずさった。
「……また、来る。かならず、来るから」
連れて帰ったとして、彼らを救う手立てを持たない我が身を呪い、悔しく思いながらも少年が言えば、彼は目を細めて笑った。
「ああ、待ってる」
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そのことばを胸に帰った少年は、彼らを救う手立てを探した。
生身のひとの肌のやわらかさ、あたたかさを知った少年には、浮島での暮らしはあまりに冷ややかだった。
ひとりきり、学べるかぎりを学び考えられるかぎりを考えた少年は、案内人の目を盗んで浮島に隠れ家を作った。
案内人に怪しまれないように廃棄物運搬路に忍び込んでは、落とされそうになっている赤ん坊を拾い、代わりに隠しておいた固形栄養食品や水の容器を地上に落とした。
「……そうして、育ててもらったのが、わたしたちなんですね」
腹心の少女が目を潤ませて、育ての親の肩に手を添えた。
浮島に存在を認識されていない彼女らは、当然ながら人体保護材を持たない。触れた肌を通して伝わるぬくもりに、かつて少年だった彼は胸が締め付けられるのを感じた。
拾いあげた赤ん坊のすべてが育ったわけでなない。半数以上が生育の途中で死んでしまったのは、きっとそれが廃棄の理由だったのだろう。
それでも少年は年月をかけて、浮島で反乱を起こせるだけの力を手に入れた。ひとりきりではない、それぞれにさまざまな知識を蓄えた仲間を作った。
「ようやくだ、ようやく、またきみたちの元へ行ける」
少年の脳裏に浮かぶのはあの日、少年を拒絶したひとのやさしい瞳。
当時はそこに宿るものをやさしさだとしか感じなかったけれど。拾いあげたのに救えなかった赤ん坊を抱きしめる日々のなかで、いつしかあの瞳ににじんでいた諦めを知った。
いつからか、それは鏡のなかの少年自身にもにじむようになっていた。
けれど諦めを抱きながらも、少年は諦めきることができなかった。
そして、今日の日を迎えた。
準備が整った、と知らせを受けたかつての少年は、すっかり大人になった体を椅子から起こして立ち上がった。
「さあ、はじめよう。高みの見物をする愚かな人間たちを打ち倒し、すべてのひとに境のない世界を作るんだ!」
そう叫んだ彼は知らない。
汚れた地上では、彼が思っている以上に人間は長生きできないことを。
数十年前に会った彼らが、すでに生きていないことを。
隔離された楽園を失くした人類が絶滅の一途をたどることを、希望に満ちた彼は知らない。