表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

三十と一夜の短篇

少年は、空の浮島で夢を見る(三十と一夜の短篇第45回)


 ―――ああ、これでようやく……。


 こみあげる思いに、知らず目を閉じていたらしい。

 肩を叩かれて顔をあげると、腹心の少女が眉を寄せてわたしを見下ろしていた。


「どうされました。お疲れですか?」

「ああ、疲れはしたが」


 少女の声ににじむ心配の色を払おうとくちにしかけた否定の言葉を止めて、思いなおす。


「いや、それよりも、ようやく今日を迎えられたのだと、うれしくてね。柄にもなく昔を思い出していたんだ」

「昔、ですか」

「ああ。まだ、作戦開始までいくらかあるな。ひとつ、思い出話に付き合ってもらおうかな」


:::;:;;;;;:;;;:::::;::::::::


 雨が降っていた。浮島を覆う半透明の有害物質遮断幕ドームに当たった雨が、有害物質遮断幕ドームを伝っては落ちていく。

 それは、偶然だった。

 雨粒を眺めていた少年は、ふと、雨粒の行方が気になった。


「ねえ、案内人(ガイド)。落ちた雨粒はどこへいくの?」


 なにげない質問だった。いつだって問いかけにはよどみなく答えてくれる個人の専用人工知能に、少年は問いかけた。

 一瞬、間があいた。


『雨粒は、地上に落ちます。地上に落ちた雨粒は、河川などを通って湖や海にたどりつき、蒸発して再び雲になります』


 頭部装着用操作機ヘルメットのなかのスピーカーから、合成機械音声が機械なりのよどみなさで答えた。少年が学習インストールしていない単語がたくさんあったけれど、なかでも気になったものを再び問いかける。


「地上ってなに? ぼくらが住んでいる浮島の表面とはちがうの?」

『その問いへの回答は、許可されていません」


 案内人ガイドが回答しないときは、質問のしかたが悪い。そう学習インストールしていた少年は、すこし考えて聞き直した。


「雨が通る河川は、浮島にある水路のこと?」

『いいえ。河川は地表を流れ湖や海にたどりつく水の流れです。水路は人工的に作られた構造物です』

「河川は浮島にもある?」

『いいえ。河川は地上にあります」

「地上はどこにあるの」


 答えを得るたび矢継ぎ早に質問を重ねていく少年に、案内人ガイドはよどみなく答えた。

 けれど地上について問うと、またすこしの空白ブランクをはさんで声がする。


『その問いへの回答は、許可されていません」

「……そう」


 案内人ガイドに問うことをやめた少年は、有害物質遮断幕ドームの端まで移動した。移動先を案内人ガイドに伝えて地面にある軌道敷レールウェイのうえに立てば、自動で目的地まで運ばれる。

 流れるような速度で視界が変わっていくけれど、全身を覆う人体保護材スーツ頭部装着用操作機ヘルメットのおかげで、風圧を感じることもない。


 ほどなくして、軌道敷レールウェイの稼働が停止した。

 

 浮島の端は、有害物質遮断幕ドームで区切られており、島より下を見ることは叶わない。

 少年の目に映るのは、曇った空と有害物質遮断幕ドームを伝い落ちる雨、それから空に浮かぶ浮島だ。

 

 雨にかすむ視界のなか、ぽつりぽつりと浮かぶ浮島が近く、遠く、いくつも見える。あれらの浮島にも全世界総括人工知能マザーが選出した百人が、住んでいるのだろう。


 ふと、すこし離れたところにある浮島から、ぼろぼろとこぼれる物が見えた。

 島に不要な物を廃棄しているのだろう。雨の日によく見られる光景だ。


 浮島には重量制限があるため、必要分の雨水を補給したあとにはああして調整のために不要物を捨てる。そうして、重量オーバーにならないようにいるのだと、学習インストールしていた。

 

 有害物質遮断幕ドームにはじかれた雨粒といっしょに、落ちていく物たち。

 当たり前の、いつもの光景。

 それなのに、少年は思ったのだ。


 あの雨粒が、廃棄物が、落ちていく先には何があるのだろう。


「ねえ、案内人(ガイド)……」


 気になった少年はいつもどおりに問いかけようとして、ことばを止めた。

 尋ねたところで、返ってくるのは『その問いへの回答は、許可されていません」という返答だろう、と思ったのだ。

 そのため、少年は求めている答えを得るための質問をやめて、案内人ガイドに声をかけた。


「ねえ、案内人(ガイド)、家に帰りたい」


 本心を隠して、平静を装った。案内人(ガイド)に相談せず何かを企てるのは、はじめての経験だった。


軌道敷レールウェイを確保します。……確保、完了。三番の軌道敷敷レールウェイに移動してください』


 言われるままに足を進めた少年は、割り振られた区画ルームに入った。窓はないが、常に一定の光量を保たれた室内のなか、唯一置かれている寝床ベッドのシーツがほの白く浮かびあがる。

 少年は寝床ベッドに腰掛けて頭部装着用操作機ヘルメットを操作すると、図書目録ライブラリに目を通す。

 前部硝子体シールドに表示された文字からいくつかを選べば、案内人ガイドの声が問いかけてきた。


『選択された文書を読み上げますか?』

「うーん、いいや。今日は自分で読みたい気分なんだ」


 それきり案内人ガイドは沈黙し、少年も黙々と文字を追った。

 しばらくして。


案内人ガイド、すこし身体を鍛えようと思う」

『筋力維持のための電気刺激を強めますか?』

「ううん、この古典娯楽誌クラシックマガジンがさ……」


 少年が文書を視線で示すと、案内人ガイドは数秒の間をおいて応える。


『米国消防士歴』

「うん、こんな身体にしてみたくて」


 そう言う少年の前部硝子体シールドに表示されているのは、筋骨隆々の裸の上半身をさらした男たちの写真。

 添えられた文章には、はるかな昔にひとびとを危機から救うため、力を尽くした男たちの写真を集めたカレンダーだと記されている。


「彼らは『筋トレ』をしてこんな身体を作っていたらしいんだ。だからこれから毎日、区画ルームにいるときは人体保護材スーツを脱いで身体を鍛えるよ」

『……効果的な筋肉増強法に関する情報データを集積します。目標筋量、確認。必要栄養素、確認。運動法、確認。これより、計画を実行します』


:::;:;;;;;:;;;:::::;::::::::

 

 はじめて人体保護材スーツを脱いだ日は、ひどかった。

 最低限の活動に必要な筋肉は、電気刺激で自動的に作られていると学習インストールしていた。

 けれど、それはあくまで人体保護材スーツの補助作用がある状態で必要な筋肉のことだったようだ。


 区画ルームで物心がついてはじめて人体保護材スーツを脱いだ少年は、筋トレをするどころではなかった。

 自力で立ち上がることさえ難しく、案内人ガイドに歩行補助具を手配してもらうはめになった。

 それでも、身体能力が向上する年頃であったことが幸いして、少年の身体は半年後には人体保護材スーツも補助具もなしに走りまわれるほどになっていた。


 途中からは案内人ガイドに運動用の区画ルームを申請して、少年はいち日のほとんどを筋肉増強トレーニング区画ルームと名付けたその区画ルームで過ごすようになった。

 電気刺激に頼らず自力で身体を鍛えたいからと、少年は人体保護材スーツ案内人ガイドも締め出して、ひとり区画ルームにこもる。


 そんなことが一年ほど続いたある日。


『繁殖適正年齢に達しました。精子を採取します』


 起床とともに告げられて、少年はぼんやりと返事をした。

 事務的に回収される精子。

 学習インストールのなかに、年齢とともに生じる義務の項目があった。検査を受け、遺伝子的に微瑕がないと判断された精子は、同じく検査で合格した卵子に注入され、存続すべき優性な人類として培養されるのだ。少年が、かつてそうして誕生したように。


 案内人ガイドの指示で物販運搬路レールに乗せれば、どこかへ運搬されていく精子の入ったチューブ

 遠ざかるそれをなんとなく目で見送った少年は、瞬きの間に見えなくなったチューブのことを忘れ、立ち上がった。


案内人ガイド、きょうの義務はこれで終わり?」

『はい、おつかれさまでした。以降は個人の自由時間です』

「そう。だったら、いまから筋肉増強トレーニング区画ルームに行くよ。就寝時間まで出てこないつもりだから、いつもの固形栄養食品ニュートリシャスバーと飲み物を用意しておいて」


 この一年ほど、変わらない日常の業務を言いつけられて、案内人ガイドは変わらない返事をする。


『承りました。行ってらっしゃいませ』


 平坦な声に見送られ、少年は人体保護材スーツを脱ぎ頭部装着用操作機ヘルメットをはずして筋肉増強トレーニング区画ルームに入る。


 いつもであれば、軽く準備運動をして筋トレをはじめる少年は、部屋のすみにある案内人ガイドカメラに用意しておいた擬似映像ダミーデータを流す機材を貼り付けた。

 これで、定期生存確認バイタルチェック通過クリアできるだろう。


 同じく用意しておいた布袋に、室内に用意されていた固形栄養食品ニュートリシャスバーと飲み物を押し込み、少年は案内人ガイドカメラの刺客を通って、自身の区画ルームから出る。

 そのまま、廃棄物運搬路ダストシュートに入り込み、廃棄物にまぎれてついに少年は降り立った。


「ここが……地上」


 つぶやいて、すぐに少年は咳き込んだ。あわてて、布袋から目の細かい布を取り出して口元に巻きつける。


「げほっ、えほっ、はっ……はっ」


 異臭がした。今日よりも前に落とされた廃棄物が腐敗し、空気を淀ませている。浄化クリーニングされていない大気が肺を刺激して、のどがざらつく。

 はじめて肌に感じる外気は、少年の肌をひりつかせその身体を無意識に震えさせた。


「これが、寒さ?」


 筋肉増強トレーニング用に、と案内人ガイドに手配させた薄っぺらい布の服のしたで、少年は生まれてはじめて鳥肌を立てた。

 しかし、少年のほほはばら色をしていた。

 適温に調整されていない大気と触れたことが、少年の気持ちを高揚させていた。


「これが、大地……ここが雨の落ちる場所!」


 頭にも布をかぶり、目元だけを露出させて見回した世界は、少年をちくちくと苛んだ。

 薄汚れた雲越しにさす陽光は、少年の肌を容赦なく痛めつける。浮島からの廃棄物にまみれた地面は、少年の歩みを妨げる。

 けれど少年の目はきらきらと輝き、飽きることなくあたりを見回していた。


「……ぃああ、ひああ」


 ふと、廃棄物の山を進んでいた少年の耳にかすかな音が届く。

 足を止めた少年は、生まれてはじめて耳をすませて、音のありかにたどりついた。

 そこにいたのは、うごめきか弱い鳴き声をあげる生き物。ふくれた腹にかざりのような手足、わずかな頭髪を持つばかりでほとんど丸裸のその生き物は、顔をしわくちゃにして泣いていた。

 

「……小さい、ひと?」


 見慣れない生き物に少年が戸惑い、つぶやいたとき。


「おい、早く抱きあげてやれ!」


 乱雑な声がして、少年はおどろき肩をすくめた。その横を風のように通り抜けた影が、泣き声をあげる生き物を抱えて胸に抱く。


「赤ん坊が凍え死んじまうだろうが! いるものはほかの連中が拾って戻る。お前、足元の食い物を持て。おれらはいっぺん帰るぞ」

「え、あ」

「おら、早くしろ! もたもたしてっと次のごみに潰されちまうぞ」


 頭から足先まで、ぼろ布に包まれた人物に矢継ぎ早に言われて、少年はおどおどしながらもうなずいた。

 それにうなずいて、ぼろ布をまとった人物は廃棄物の山を飛ぶように駆け下りていく。

 あわてて追いかけようとした少年は、はっと立ち止まり足元に落ちている固形栄養食品ニュートリシャスバーの屑を両手いっぱいにすくった。ぼろぼろとこぼれる屑を気にしながら、視線を巡らせた少年の目に、廃棄物の山のそこここで動く小柄な人影が映る。


「ひとが、こんなにいるんだ……」


 新鮮な驚きを胸に、廃棄物の山をどうにか降りた少年がたどり着いたのは、浮島のしたからそう離れていない岩場だった。


「なんだ、それっぽっちしか持って来られなかったのか」


 ごつごつした岩場で追っていた背中を見失い、おろおろしていた少年の背に声がかけられる。

 振り向けば、岩のひとつの向こうから布に包まれた人影が少年を見ていた。その粗雑な声からするに、さきほど少年に着いてくるよう言った人物だろう。


「まあいいや。そんなとこで突っ立ってたら、太陽に焼かれちまう。はやく降りるぞ」


 言われるがまま岩に近寄った少年は、岩陰になった地面に細長い亀裂が入っているのに気がついた。細長いと言っても、場所によっては少年の肩はばほどの広さがある亀裂だ。

 のぞきこむと、そのなかに遠ざかっていくぼろ布が見えた。

 手のひらにわずかに残った固形栄養食品ニュートリシャスバーの屑を布袋に詰めて、少年はおそるおそる亀裂のなかへと足をすすめる。


「ほら、いつまでも食い物を持ってないで。そこに置いてこっち来いよ」


 いくらも進まないうちに、亀裂は行き止まりになった。

 行き止まりはいっそう亀裂が横に広がっており、少年のクラス区画ルームほどの空間になっていた。ひとが五人ほど横になれるだろうか。

 上にいくほど狭まる亀裂のために、屈まなければ頭をぶつけてしまいそうだが、細く入る太陽の光のおかげでほどよく明るくもあった。


 むき出しの土に囲まれたそのなかで、ぼろ布に包まれた人物はためらいなく土のうえに腰を下ろす。

 身体を覆うぼろ布の胸の部分をがばりとはだけさせたかと思うと、抱えていたちいさな生き物を裸の胸に押し当てて、ぼろ布ごと抱きしめた。


「なにをしてるの?」

「あっためてる。赤ん坊は弱いからな、寒いと死んじまう。すこしでも体温をわけてやって、生き延びてくれればいいんだが……」


 そっと近づいた少年が問うと、ぼろ布ごとをまとった人物は自身の胸元を見つめながら応えた。

 布越しにちいさな生き物をなでるその手つきは、ひどくやさしい。うごめくちいさな生き物に向けられたぼろ布の隙間からのぞくひとみが、どうして暖かく感じられて少年の胸がつきりと痛んだ。


「悪いなあ、乳は出ないんだ。雨が降ればなあ。雨水でふやかした買い物をやれるんだが」


 やさしくやさしくちいさな生き物をさすりながら、ささやくような声が言う。

 その声に、少年はあわてて背負っていた布袋をおろして、中身を取り出した。


「これ、水。なにも添加されてないけど、良かったら使って」

「おまえ、これ……」


 少年が差し出した水の入った容器ボトルと、そのなかで揺れる透明な液体に、ぼろ布の隙間に見える目がおおきく見開かれた。

 ちらり、ちらりとその目が少年の顔に向けられ、体に向けられ、そして容器ボトルに向けられた。


「すまん、助かる。すこしの間、この子を抱いててくれるか」

「えっ、わあ!」


 どこかかたい声で言ったかと思うと、少年の腕にちいさな生き物が無造作に渡された。

 あわてて受け止めたその身体が、ぐんにゃりともたれかかってくるものだから、少年はどうしていいかわからずにおろおろしながらも、動けなくなる。


「くくっ、そんなに肩に力を入れなくてもいい。まだ首が座ってないから、首の後ろを支えてやって、あとは落とさないようにあっためてくれれば、大丈夫だ」


 笑いまじりに言われたとおり、少年はおそるおそる腕を動かしてちいさな生き物を胸に寄りかからせてそっと抱きしめた。

 ちいさくて、ひどく軽い。それなのに、触れたところからしめったような温もりが広がって、とてつもなく重たいものを抱えているような気持ちになってくる。


 腕のなかで身じろぎした生き物が、少年の胸に頭をすりつけるようにするのを見て、少年の胸に正体不明の熱がぶわりと広がった。


「……あったかい」


 思わずつぶやいた少年に、ぼろ布をまとった人物がくすりと笑う。


「生きてるんだから、当然だ。捨てられてから見つけるまでが早かったから、そいつはきっと助かるぞ。新鮮な食べ物ももらえるからな、運がいい」


 言いながら、巻きつけていた布をはずした指先がどろどろになった固形栄養食品ニュートリシャスバーをまとって差し出された。

 ちいさい生き物のくちに添えられた指が、そのちいさなちいさなくちにちゅぱりとくわえられる。

 嘘のようにちいさなくちがむにゅむにゅと動き、ちいさな生き物は必死に食べ物を摂取しているようだった。


「……お前もやるか?」

「えっ!」

「お前の指のほうがきれいだから、この子にもきっといいだろう」


 そう言って、ちいさな生き物のくちから引き抜かれた指は、節くれだってひび割れ、ひびのあいだや歪な爪のなかに汚れがすりこまれており、お世辞にも清潔そうだとは思えなかった。

 ためらいながらもちいさな生き物を引き渡した少年は、自身の指を見つめ、衣服の内側で何度かぬぐってから、なにかの破片に入ったどろどろの固形栄養食品ニュートリシャスバーに指をつけた。


 そうっと差し出した指ごと、ちいさな生き物のくちに食まれて少年の目が驚きに見開かれる。


「熱い……くすぐったい!」


 思わず笑った少年につられたように、ぼろ布をまとった人物もくすくすと笑う。

 指を何度か移動させるうち、ちいさな生き物はやがて吸い付く力を弱めていって寝てしまった。

 吸い付くほどの力はなくとも、くちもとに指を置けばふくふくとくちが動く。無意識に突き出されるくちびると、ぎゅうとにぎりしめられたちいさな手をつつく少年を見ていたそのひとは、ふと表情を引き締めた。


「……おまえ、空の島のひとだな」


 静かな声に、少年はびくりと指を引っ込めた。ちいさな生き物をつついて温まっていた指先が、急に冷えていく。

 なぜばれたのか、そう問う前に答えが与えられる。


「お前はきれいすぎる。指も、顔も、着てるものもぜんぶ」


 言われて、少年は見比べた。案内人ガイドが用意した衣服は、筋肉増強トレーニング用の軽くて薄い質素なものだ。

 けれども穴は開いていないし、汚れといえば廃棄物の山を降りたときについたすこしの土だけ。


 対する地上のひとの身体を覆うのは、衣服と呼ぶのもはばかられる土とそれ以外の汚れにまみれてかたくごわついた、穴やほつれだらけの布切れだ。

 

「なんの気まぐれか知らないが、はやく帰れ。ここにいたら寿命が縮む」


 そう言って、ぼろ布をまとったそのひとは、布のしたで嫌な音の咳をする。少年が聞いたことのない、身体の奥から命がこぼれているようなひどい咳。


「どこか、悪いの? だったらいっしょに浮島に行こう。案内人ガイドに頼めばすぐに治療リペアしてくれるよ」


 誘いかける少年に、そのひとはかすかに笑って首を横にふった。


「地上で生きてるのは、島から捨てられた子どもたちだ。着いて行ったところで、また捨てられるだけさ。おれたちゃ不用品なんだ。お前もそうならないうちに、早く帰れ。帰る場所があるなら、こんなとこにいちゃいけねえ」

「でも、それじゃあ……」


 少年はためらいながらも、今朝運ばれていった精子の入ったチューブを思い出していた。

 育てられるのは優性な人間だけ。では、生まれたあとに優性ではないと判断された者たちはどうなるのか。

 これまで考えたこともなかった、選ばれなかったもののことが気になった。学習インストールした以上のあれこれを知りたいという思いが、少年の胸にわきあがる。


「この赤ん坊も、長生きはできない。老衰なんて夢物語だ。それでも、こいつは生き延びられるだけ幸せさ。お前がいてくれたおかげで、きれいな水を飲めた。きっとこいつは、強い子になる」


 ぼろ布の合間からのぞく瞳が、愛おしげにちいさな生き物に向けられるのを見て、どうしてか少年の胸は痛む。

 けれど、その痛みはきっと案内人ガイドに言っても解決しないものだと、少年にはわかっていた。


「その子と……」


 ちいさな生き物が、ひとの子であると少年は確信していた。

 そのちいさな命を永らえさせたいという気持ちが、胸のどこかから湧いてくる。

 

「その子を連れて、あなたも島に」

「はやく、帰れ」


 湧きあがる気持ちのままにくちをついたことばは、やさしい拒絶にさえぎられた。

 ことば尻はきつい。けれど、それをくちにしたひとの目はひどくやさしかった。


「はやく、帰れ。俺らはここでしか生きられない。ほかの子たちがいらない夢を見る前に、はやく帰ってくれ」


 やさしく細められた目に見つめられて、少年の胸ははげしく痛んだ。苦しくて、苦しくて、思わずよろめいた少年は後ずさった。


「……また、来る。かならず、来るから」


 連れて帰ったとして、彼らを救う手立てを持たない我が身を呪い、悔しく思いながらも少年が言えば、彼は目を細めて笑った。


「ああ、待ってる」


:::;:;;;;;:;;;:::::;::::::::


 そのことばを胸に帰った少年は、彼らを救う手立てを探した。

 生身のひとの肌のやわらかさ、あたたかさを知った少年には、浮島での暮らしはあまりに冷ややかだった。


 ひとりきり、学べるかぎりを学び考えられるかぎりを考えた少年は、案内人ガイドの目を盗んで浮島に隠れ家を作った。

 案内人ガイドに怪しまれないように廃棄物運搬路ダストシュートに忍び込んでは、落とされそうになっている赤ん坊を拾い、代わりに隠しておいた固形栄養食品ニュートリシャスバーや水の容器ボトルを地上に落とした。


「……そうして、育ててもらったのが、わたしたちなんですね」


 腹心の少女が目を潤ませて、育ての親の肩に手を添えた。

 浮島に存在を認識されていない彼女らは、当然ながら人体保護材スーツを持たない。触れた肌を通して伝わるぬくもりに、かつて少年だった彼は胸が締め付けられるのを感じた。


 拾いあげた赤ん坊のすべてが育ったわけでなない。半数以上が生育の途中で死んでしまったのは、きっとそれが廃棄の理由だったのだろう。


 それでも少年は年月をかけて、浮島で反乱を起こせるだけの力を手に入れた。ひとりきりではない、それぞれにさまざまな知識を蓄えた仲間を作った。


「ようやくだ、ようやく、またきみたちの元へ行ける」


 少年の脳裏に浮かぶのはあの日、少年を拒絶したひとのやさしい瞳。

 当時はそこに宿るものをやさしさだとしか感じなかったけれど。拾いあげたのに救えなかった赤ん坊を抱きしめる日々のなかで、いつしかあの瞳ににじんでいた諦めを知った。

 いつからか、それは鏡のなかの少年自身にもにじむようになっていた。


 けれど諦めを抱きながらも、少年は諦めきることができなかった。

 そして、今日の日を迎えた。


 準備が整った、と知らせを受けたかつての少年は、すっかり大人になった体を椅子から起こして立ち上がった。


「さあ、はじめよう。高みの見物をする愚かな人間たちを打ち倒し、すべてのひとにさかいのない世界を作るんだ!」


 そう叫んだ彼は知らない。

 汚れた地上では、彼が思っている以上に人間は長生きできないことを。

 数十年前に会った彼らが、すでに生きていないことを。

 隔離された楽園を失くした人類が絶滅の一途をたどることを、希望に満ちた彼は知らない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ほろ苦いラストに、何が幸せなのか考えさせられました。 彼のクーデターが成功したとしてもその先に待っているのは困難なのでしょうし、事実を知ってしまった彼は無菌の鳥籠の中で一生を終えることも出来…
[良い点]  SF愛に溢れた作品だと感じました。浮島を作った理由はおそらく人類存亡を防止する為の施策だったのかと感じます。  人間は最初は良かれと考えて物事を実施し、本質がわかる事頃には既に取り返しが…
[一言] 最後の文章に、痛烈な皮肉を感じたんです。現代の環境問題につうじるような。ディストピアに生かされながら、それを破壊する......天に唾するような。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ