1 ホラクトの学徒、ウルバハム・トライン-1
ヴィヴァルニア首都、エンゲラズ。サウワン以上の賑やかさをもったこの都市は広い平原とアガラ江の支流に面し、大陸一の面積を誇る。その中心には目を見張るほど高い城がそびえ、常時エンゲラズの住人を見守っている。勇一とアイリーンの二人はその城の中、顔が写るほどに磨かれた石畳とそこにしかれた真っ赤な帯の上で跪いていた。
顔を床に向ける二人を、数段登ったところで眺めている者がいる。豪勢な椅子に座り、褐色の肌と白い口髭を携えた男は、冷たい表情でアイリーンに語りかけた。
「冒険は、楽しかったかな?」
「……はい、陛下」
(この人がヴィヴァルニア国王、アークツルス・ハウィッツァー……)
「うむ…………それで」
アイリーンに向けていた真紅の瞳を、今度は勇一へ向ける。男の顔には多くのしわが刻まれていたが、だからといって老いぼれかというとそうでもない。むしろその多さはどれだけ豊かな人生を歩んできたかと言う証左である。
「彼は」
「旅の途中で出会った……友人です」
「……友人だと? アイリーン、一年ぶりに帰ってきたと思えば男を連れて『友人』……それは本気で言っているのか?」
(そして、アイリーンのお父さん……)
二人は空気が質量をもって、肩にのし掛かったように感じた。男の怒りが地の底で沸々としているのが勇一にもわかった。
一緒にヴィヴァルニアへ来て欲しい……勇一はそう言われてアイリーンについていった。かわりに復讐対象である仮面の男は、アイリーンたちが探すことになったのである。
捜索を任せている間、彼女は勇一に住む場所と力を正しく使えるよう学ぶ機会を与えた。しかしその前に行くべき場所へ行こうと連れられた先が、この謁見の間だった。
勇一は自分に向けられていた高圧的な視線が、わずかに緩んだように思った。彼は自分に覆いかぶさっていた大きな手が消えたような気がして、ゆっくりと息を吐く。アイリーンからは「王が何か聞くまで絶対に声を発してはならない」と何度も言い聞かされていたので、乾いた口の中で舌を強く噛んだ。
「……名は」
「ユウ・フォーナーです」
干からびた喉から辛うじて出た言葉はちゃんと届いただろうか。本当に名前だけで良いのだろうか。思考の堂々巡りで顔を赤くする勇一を見かねてか、アイリーンが彼の言葉を繋いだ。
「彼はルドの生まれです。旅の共と一緒に居たのですが、忠義溢れる立ち振る舞いを気に入り、無理を言ってついてきてもらいました」
「……ふん」
(突然消えたってことは、家出みたいなものだったのかな。それで帰ってきた娘が男を連れて友達ですなんて言われても……だな)
間の悪い所に連れてこられたことを恨みつつ、勇一は彼女の助けに大きく頷く。さすがに王と言えど娘の言葉を頭から嘘だと断ずることはできなかったのだろう。その場にいる全員に聞こえるような大きなため息をつき、高い背もたれに身を預けた。
しばし沈黙――。
「……まぁ、よい。それで? 友人をここに連れてきたのは、それなりの理由あってのことなのだろうな」
「はい」
ほんの少し軽くなった空気を押し出すようにして、アイリーンは跪いた姿勢を正した。王をまっすぐに見つめ、唇を一度舐めてから口を開く。
「彼を……『アークツルス魔法院』に入れてほしいのです」
「ほう?」
予想外の答えだったのか、王は若干興味を引かれたと言った様子であご髭を撫でた。しかし石像のような表情を崩さない。
「あれは我がヴィヴァルニアの粋が集まる場所。貴族どもの社交場でもあり、その子息らに礼儀や教育を叩き込む役目もある……アイリーン」
「は、はい」
「ウルバハムだけでは足りないと? どうやら我が娘は、父の開いた魔法院を乗っ取りたいらしいな」
「いえ、決してそのような」
「ならば説明せよ。どこの誰とも知れぬ、何の地位も持たぬ男を、魔法院に入れてほしいという、その理由を……!」
謁見の間は一国の王がいるのに相応しい広さをもって二人を見守っている。しかし空気は、彼の気分を代弁するかのように冷えていた。
勇一の脚はひとりでに震えだす。彼は背中の硬直が、背骨をバラバラにしてしまうのではないかと思った。もしかしたら、次の瞬きを待たずに自分は息絶えてしまうのではと内心でおののいた。
そんな雰囲気のなかで唯一王の圧をはね除けたアイリーンが、すっくと立ち上がった。ぎょっとしたのは周囲の兵たちに目もくれず、王に向かって歩き出す。兵たちは王の許しなく立ち上がった彼女を止めるべきか、父親に向かう娘の歩みを妨げていいものか迷っている。当のアークツルス王は眉ひとつ動かさずそれを見守り、やがて娘が隣で膝をつくと頭を傾けて言葉を待った。
「実は………………」
「…………なんと」
娘の耳打ちに、王は初めて表情を大きく崩し勇一を見た。彼の顔、次に左手に視線を移し、それからゆっくりと頷いた。
「……ご納得、頂けましたか」
「ふうむ……」
王は再びゆっくりと頷くと、指を組んで思案した。少しして娘の方を向くと、試すような口調で答える。
「よかろう……アークツルス魔法院への入学を認める」
「ありがとうございます、陛下」
「……」
その場にいた王と娘以外の全員が安堵のため息をついた。
しかし勇一は不思議に思った。要求が通ったと言うのに、アイリーンの表情があまりに暗そうに見えたから。
***
「しばらくキミには、ここで暮らしてもらう」
アークツルス魔法院。ヴィヴァルニア三代目国王、アークツルス・ハウィッツァーが開いたここは、魔法について学ぶのは勿論、人の上に立つ者としての教育を叩き込まれる場所でもある。
勇一が案内された扉をくぐると、まず若干のカビ臭さが鼻をついた。そこには大きな机と、一人が一人が寝るには十分すぎるほど大きなベッド、そして石造りの壁には格式ばった黒いローブ。彼が今まで寝泊まりした中で一番上等な部屋だ。
(仮面の男が見つかるまで、か…………まさか異世界に来てまで勉強するはめになるなんてな)
「空いている部屋はここしかなかったんだ……呼びつけておいて、すまない」
「いいって。屋根があるだけで十分だよ、ありがとう……ところで、その仕切りは?」
案内された部屋は、壁の一辺が仕切りで出来ていた。元々ひとつだった部屋を、仕切りで区切っている状態だ。向こう側から人の気配がすることから、勇一は自分と同じようにここで生活する者がいるのかと、少しだけ親近感がわいた。
「なるほど、向こうにも誰かいるんだな」
「あ、そこは開けない……方が……」
半分だけでもそれなりの広さがあるこの部屋は、元々大部屋だったのだろう。そんな部屋を二分割して使うなら、隣人と言うよりも同居人に近いのではないだろうか……。そう考えた勇一は、せめて挨拶くらいはと仕切りに手をかける。
「なんだよ、隣人には挨拶くらいしなきゃ。すいません、突然ですが隣に住むことに……なり…………ました…………」
「っひ…………」
果たして彼の予想通りだった。仕切りの向こうは同じような家具たちが、まるで鏡移しのように並べられている。唯一違うのは住人だ。そこには、今まさに着替えようと下着を脱ぎかけた少女がいた。
灰色の肌と、腰まで伸びた金髪。今にも折れてしまいそうな四肢に細い胴。何より特徴的なのは、立て膝をついてようやく勇一よりわずかに低くなる目線……彼女は、ホラクトの少女だった。
「…………」
「…………」
勇一はこの事態をどうやって少女の心に傷をつけず乗り切るかを考え、硬直している。少女は初めて肌を見られた衝撃と、その相手がブラキアである事実と、相手の出方をうかがうのとで、思考の流れが渋滞を起こしてしまっている。
いつまでも動かない二人の時間を破壊したのは、アイリーンだった。
「ユウ、いつまで見てる」
「え? あ、そうか。ごめん……」
シャッ
我に帰った勇一は勢いよく仕切りを閉め、冷静を装って椅子に腰を下ろす。テーブルの向こうにはいつの間にかアイリーンが座っていた。呆れたような、責めるような視線に捕まらないように、しどろもどろな勇一は顔を背けた。
「……いやいや、なんで? ここ、男と、女で……仕切られてるとは言え、さ」
「おちついて……。ウルバハム、すまない! 彼に言うのを忘れていたんだ」
アイリーンは毅然とした態度で向こう側に声をかけた。
ウルバハム……それが彼女の名前だろうか。勇一は目に焼き付いた灰色の肌と金髪、わずかに影が浮いたあばらを反芻しながら、繊細さの欠片もなかった自らの対応を反省した。
(ヴァパでヒルドゥーリンたちを抱いたじゃないか。それにアトラスタも…………なんでこんなにどきどきしてるんだ)
経験なんて案外役に立たないものだと考えていると、アイリーンへ返事が帰ってきた。
「ア、アイリーン様!? 申し訳ありません、少々お待ちを……」
帰ってきたのは花の香りが好きそうな、刺激の強い恋物語を赤面しながら聞き入ってそうな、いかにも少女然とした声だった。
布の刷れる音と、軽い何かを落とす音、最後に上がった息を落ち着かせる深呼吸が聞こえると、仕切りがゆっくりと滑る。そこから勇一が見た少女が再び現れると、見上げるほど高い身長を折り曲げ、三つ指をついて深々と頭を下げた。
「大変なご無礼を致しました。わたしは、エンゲラズ貧民街のうまれ、ウルバハム・トラインと申します。卑しい奴隷が隣に住むことは不愉快極まるとは存じますが、どうか、どうか平に……」
「アイリーン、なんでこの娘は土下座を……?」
ウルバハム・トライン……ホラクトの少女。
勇一とアイリーンが落ち着かせるまで、彼女は古い絨毯に額をこすりつけていた。




