20 ゴブリン討伐戦-4
「ナナーーーー!!」
サハニは走った。容態が安定したナナに別れを告げ、簡素な治療所から前線へ戻る途中にそれは起こった。
同盟軍の後方に突如現れたゴブリンども。奴らは迷うことなく南下し、途中にある治療所に到達した。そこには最低限の兵士しかいない……優に万を越えるゴブリン相手に、防衛などできるはずもない。
前線へ戻る途中なのはサハニだけではなかったが、他の者が止める間もなく、彼は治療所へ走り出した。自分一人で何が出来るかなど考える前に身体が動く。取り落とした武器をそのままに、治療所にいるナナへ届くはずのない手を伸ばした。
ゴブリンは全てを食いつくし、通った後は腐臭以外なにも残らない。それを知っているからこそ、けが人ばかりがいる治療所にゴブリンがいる状況がどれだけ絶望的なのかがわかる。
(き、来た……!)
治療所から溢れたゴブリンどもが、サハニへと向かう。奴らがそこにいるということはナナはもう……。事実に繋がる答えを振り払うように、勢いよく彼は頭を振った。
サハニは半ば自棄になり、迫り来る緑の波と対峙した。ナナを襲った奴らを一匹でも道連れにしてやると、次第に怒りが燃え上がる。
「こいよぉっ! ただじゃ死んでやらないからな…………な、なんだ!?」
しかしいざ双方が衝突すると、サハニはゴブリンの行動に戸惑った。なにせ奴らの全てが彼を無視し、素通りして行くのだ。最初の数匹を殴ったところで違和感に気付き、恐る恐る拳を下ろすと、一向に襲ってくる様子がない事に言葉を失った。
「サハニー!」
「ナナ……ナナ!!」
彼が今一番会いたい人の声が聞こえる。ナナは戻ってくるサハニに気付き、治療所から飛び出した。襲われたと思っていた治療所は無事で、誰も死んでいなかった。若い二人は互いの無事を確認するようにきつく抱き合う。
「ねぇ、何があったの? あいつら、私たちに目もくれず通りすぎていったのよ」
「僕にもわからない……こんなこと、はじめてだよ」
ナナはゴブリンどもが巻き上げた土ぼこりにまみれているが、傷ついているようには見えない。サハニはそれが本当かどうか確かめようと、彼女の全身をまさぐり、殴られた。
わずかな腐臭はもうすぐ風が拭き取って行くだろう。抱き合った二人はただ、南へと向かうゴブリンどもを見つめていた。
***
同盟軍と左翼傭兵部隊は、それぞれの見張りから右翼傭兵部隊が動いたことを知らされていた。右翼に何が起きているかわからないが、動いたということは相応の理由があるのだろうと指揮者たちは察した。
――今自分たちにできるのは、目の前で叫び襲いかかってくるゴブリンどもを一刻も早く排除すること。だから右翼側を信じて、我々は戦い続ける――彼らは波のように押し寄せる汚れた緑色を弾き飛ばしながら、前へ前へと突き進んで行く。
「それにしても、数が多すぎる。あれだけ減らしたというのにまだ……」
兵士の一人が、誰に聞かせるでもなく呟く。周囲は戦闘音でやかましく、彼は自分の放った言葉すら聞き取れなかった。
――前日までに行った作戦で、奴らのほとんどを殺したと思っていたのに……――目の前で味方に襲いかかる数の、なんと多いこと。奴らによって四十列の落とし穴は全て埋まり、這い上がってこないように念入りに燃やされた。軍は埋まった穴の上を渡り、最後に残った奴らを滅ぼさんと攻撃を命令した。しかし残っていたゴブリンどもの数は、想像以上だった。決して侮っていたわけではない。軍は準備できる最大限の物資を注ぎ込んだ……それでも足りなかったのだ。
とある兵士はふと、今まで定期的にゴブリンどもを狙って飛んで行っていた火球が止んだことに気がついた。火球を放てるほどの強力な魔力を持った者は、強制的に同盟軍に入れられる。そして暗殺などを警戒して身元を隠され、決まった者以外と話すことも禁じられる。
(あの薄気味悪い仮面をいつもつけていたら……俺だったら狂っちゃうな)
通常の魔法であれば魔力を使いきる前に一日が終わってしまうが、放てる魔法が強力だとそうはいかない。魔力の使いすぎは疲労となって術者の身体へ蓄積され、それでも止めないと意識を失うこともあった。
しばらくゴブリンどもの相手をしていると、遠くからかすかな歓声が聞こえてきた。西の方から聞こえたということは、右翼が何かやったのだろう。
(あいつら……俺たちより後に戦いを始めて、早々に終わらせちまったのか)
仲間を守りつつ、飛びかかるコボルトを切り落とす。別方向から疾走してきたゴブリンを盾で殴りつけると、守っていた仲間が止めをさした。信頼できる仲間と取る連携ほど気持ち良いものはない。日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮し、次々とゴブリンどもを仕留めていけば、彼は古の物語に出てくる銀のドラゴンも倒せそうな気さえしていた。
「おい……おい! なにか変だ、櫓を見ろ!」
声に反応して振り返ってみると、中央と左翼の櫓からそれぞれ信号が送られているのに気づいた。彼はそれを理解しようと試みたが、発信者がよほど動揺しているのか今一要領を得なかった。
「『南』……『ゴブリン』……『接近』…………なんだ、何が言いたいんだ?」
かろうじて理解できる単語を繋ぎ合わせても、それがなんの事かわからない。しかし光の点滅は、明らかに焦りと恐怖が見える。それが彼のいる中央だけでなく左翼の櫓からも送られているのだから、彼はじっとりとした言い様のない恐怖を覚えた。しかし奴らは、恐怖の正体を突き止める時間さえ与えてくれなかった。
「おい、誰か後方に……うわあああ!!」
突如現れたゴブリンども。それが後方から津波のように押し寄せる光景。彼の頭はあらゆる感情と思考に詰まってしまう。しかし長年の訓練の成果は、勝手に彼を導いた。大きな盾に身を隠し、奴らをやり過ごそうとした。
子ども程度の影が地を跳ね、何度も足や屈んだ背を掠めて行く。最初に恐怖が広がり、それはすぐに困惑へと変わった。自分たちを無視し、向かった先でゴブリン同士が争う光景を見て、彼らは呆然としている。目の前で殺し合う奴らを、ただ見ていることしかできなかったから。
***
「……来た、本当に来やがった」
目前に迫ったオークども。迎え撃つは疲弊した右翼傭兵部隊。そして双方がぶつかる直前にやって来た予想外の援軍に、皆は恐怖した。しかしそれらが次にした行動に、他の部隊と同じように言葉を失ってしまった。なぜ敵であるはずのゴブリンとオークが殺しあっているのか……納得できる理由を二人以外は知らない。
「ユウ……しっかりしろ、ユウ!」
「う……ぐうう…………」
左手を抱き込むような体勢でうずくまる勇一。アトラスタはその身体の隙間から、おびただしい量の血液が地面に広がっているのに気づいた。目の前の男は今、皆を救うために自らを犠牲にしている……それは誰にも真似することが出来ない、彼にしか出来ないこと。しかしそれには多大な代償が伴い、今彼はそれで苦しんでいる。だというのに、自分は励ますことしかできない……その現実にアトラスタは自己嫌悪に陥った。
「フーッ、フーッ…………! まだ……まだ、残ってる!」
直後に地を跳ねる吐瀉物。彼が吐き出した胃酸交じりの内容物が拡散し、すえた匂いが広がる。しかしゴブリンどもが残した腐臭にあっという間にかき消された。指先から身体が削られるという、想像を絶する痛みが筋肉を硬直させる。しかし意識は失うまいと彼は必死に目を見開き、ただただ耐えていた。
「ユウ、オレを見ろ! オレの目を見ろ!」
見かねたアトラスタが勇一の頭を上げ、鬼気迫る表情の目を合わせた。同時に彼が歯を砕かないように自らの指を噛ませる。嘴をも噛み砕く力が肌に食い込むと、彼女は僅かに顔をしかめた。
勇一が操るゴブリンどもは、狂乱のままにオークどもを襲っている。数十のゴブリンが一匹に飛び掛かり、オークは抵抗しながら肉を剥ぎ取られて死んだ。どちらのものかわからない雄叫びが響くと、倒れたオークを食い尽くしたゴブリンどもは他に向かって行く。そこかしこでそんな光景が繰り返されていた。
「ああああああああアアアアアアァ…………!!」
「しっかりしろ! てめぇがこんなところで狂っちまったんじゃあ、英雄に顔向けできねぇだろうが!」
涙と鼻水が顔を覆い、激痛と広がるドス黒い血の海への恐怖心が勇一の心を支配して行く。だがアトラスタの言葉が、黒ずんだ感情をせき止める最後の砦となった。発狂寸前の所で彼女の言葉と、彼の目線を離さない夕焼け色の瞳が勇一の心をならして行く。
アトラスタの方も必死だった。痛みから逃げるのは何も恥ずかしい事ではないが、一人で背負おうとすると途端に心は砕ける。彼女は過去の仕事でそういった人々を何度も見てきたので、せめて彼だけは正気にとどめなければと気が気ではなかった。
(まだか……まだゴブリンどもは殲滅できねぇのか⁉)
自分たちに迫っていた危機が消えれば、彼も納得して術を解くだろう。周囲を飛び交っていた雄叫びや悲鳴は遠くにいったものの、まだ止んでいない。傭兵たちは遠くで争うゴブリンどもを他人事のように見つめ、やがて二人に気付いた。
「おい、どうしたんだ。あいつらにやられたのか? おい、だれか水を持って……」
「だまれぇっ!! てめぇに頼んだ覚えはねぇぞ! 余計なことしやがったら、たたっ斬ってやる!!」
不用意に近付いた傭兵がよろめく程の怒声を浴びせたあと、集まってきた視線を追い払うように睨みつける。まるで獲物の所有権を誇示するように咆哮し、身体の下に勇一を隠す。有象無象が散ると再び彼の状態を確認し、また下卑た野次馬が来ないか周囲を警戒した。と同時に、すぐに望んでいた状況が来てくれたことに小さく歓喜の声をあげた。
雄叫びが、聞こえない。
「ユウ、ユウ……! 終わった!」
「………………ほ、んとう、に?」
「ああ、全部死んだ! ……全部だ!」
あの雄叫びがどこからも聞こえない。遠くに見える中央も左翼も静かに佇んでいるのが彼女の目にも見えた。
終わった、勝った……生き残った。絶望的な状況は皆の知らない力によって大逆転で幕を閉じた。勇一もゴブリンたちの声が聞こえないのを確認して、真っ赤に腫らした目を閉じる……星魔法を解除しているのだ。
「おいみろ! なんだありゃあ!!」
傭兵の一人が、ゴブリンどもが向かっていった方角を指さす。解放されたゴブリンたちが一斉に塵となり、一瞬空に黒い壁を描いた。
(ユウ……気を失ったか)
この戦いは常識外の力によって幕を閉じた。自分たちの手で勝ち取ったならいざ知らず、ゴブリンどもが勝手に同士討ちを始めそのまま全滅という結果を目の前に、皆が手放しで喜んでいいものか困惑していた。いままで戦っていたゴブリンどもが跡形もなく消えたのも、その原因の一つだ。
ゴブリン討伐を成し、被害を最小限にとどめたというのに、カパル平原の南は静寂が支配していた。




