17 ゴブリン討伐戦-1
有角族のナナ・ロガンは幼少の時から槍を振るうのが好きで、よく近所に住む同い年の獣人の少年サハニを稽古と称して叩いていた。泣き虫だったサハニがすぐに降参し、丸まって許しを請うのが楽しくて何度も繰り返す。それは彼が同盟軍の祖父を追うために鍛え始め、彼女が敵わなくなるまで続いた。
ナナはサハニに負けたのが悔しかった。今まではずっと自分が上だったのに、いつの間にか彼に槍が当たらなくなり、あまつさえ自分が倒される。それは彼女にとって屈辱以外のなにものでもなかったが、そうこうしている内に少年は同盟軍に入り、彼女は一人になってしまった。
同盟軍の新兵である彼女は、カパル平原の南端で任務に就いていた。
遥か南方に見えるはゴブリンの群れ。今の時期の平原は草木が冬に備えて葉を落とし、薄い茶色の景色が風に揺れる様を見せる。しかし今は、毒々しい緑色の絨毯が覆っていた……蠢くゴブリンどもである。彼女を含めた少数の騎馬隊は、とある重要な任務を任されていた。
「ナナ、肩の力を抜け。この戦いの行く末は、この任務の成否にかかっているのだぞ」
「大丈夫ですよ隊長。私の乗馬の腕はご存じでしょう? ゴブリンどもなんか、あっという間に振り切って見せますよ」
「振り切ってはならんと言っているだろう! つかず離れず、餌のふりをするのだ。ほら、さっさと向きを揃えんか」
ナナ・ロガンという女は、サハニとの関係を子どもの頃の思い出で終わらせるような人ではなかった。一人になってからも大人を相手に槍の腕を磨き、彼を追って同盟軍に入ることにしたのだ。彼女はなんとしても今のサハニに勝ちたかった。
同盟軍に入ってすぐ、南の方で亀裂が発生したという情報が入った。ゴブリン討伐を主とする部隊に入っていた彼女は、早速自分の実力を試すときが来たのだと槍と手綱を握る手に力を入る。隊長はナナを任務から外したがったが、前のめりになって机を叩き抗議する彼女に遂に折れ、参加させることにした。
そして彼女は今、微かに震える手を力強く握りしめそこにいる。全員が馬上で鏑矢を番え、隊長の命令を待っていた。
表面上はなんともない顔をしているが、ナナは心臓が張り裂けそうだった。
「よし……放て!」
「……!」
数にして十程度の鏑矢が順番に放たれる。連続して虚空に鳴り響く高い音は、狙った先のゴブリンどもの注意を引かせるのに十分だった。
山岳地帯で発生したゴブリンはその一帯を埋め、木も、根も、動物も食い尽くした。餌のなくなった奴らは北上し、その先にある集落を襲う。斜面に流した油のように奴らは山を下り、ある程度進むと再びそこにあるもの全てを食い尽くそうととどまった。
ヴァパへ飛び込んだこの情報を元にすぐに討伐隊が組織され、迎撃のために一月以上の準備が費やされることになる。
「……来た、コボルトもいます!」
「やはりな。全員、作戦開始!」
音に反応したゴブリンたちの視線が、一斉にナナたちに向けられた。垢と涎にまみれ、目脂で半分塞がれた瞼を見開き、満たされない飢餓を満たそうと手を伸ばす。
疾走。
水を目にした遭難者のように、火に集まる虫のように、それらは狂乱の行進となって彼らに襲い掛かった。
「行け行け行け!! 止まるな捕まるな離れるな!」
騎馬は一斉に行動を開始した。彼らの任務はゴブリンの群れの一部を切り離し、同盟軍へ誘導すること。そのためには奴らを引き離すことなく、常にその視界に入り自分を追いかけさせなければならない。バクバクと鳴る心音はゴブリンどもの叫びよりも大きく、ナナの耳にこだました。
「今だ、火をかけろ!!」
一団を切り離し、十分におびき寄せた時隊長の指示が響いた。指示に従いナナは松明に火をつけた。同盟軍へ誘導とはいっても、おびき出したゴブリンどもをそのままぶつける訳では無い。ナナたちが行動を開始した地点から軍までの道のりに、いくつもの罠が仕掛けられている。出来るだけ誘導中に数を減らし、軍の損害を最小限にするのも彼女らの役割だった。
ナナはそのうちの一つ、一帯に敷かれた可燃材と油に松明を投げ込んだ。何度も練習で確認した目印に松明が当たると、彼らの通った一帯はあっという間に炎に包まれた。
ギャアアア―――――!!
凄まじい叫び声が炎の向こうから飛んできた。この炎で焼き殺すのは、ゴブリンよりも速度に優れるコボルトを主としている。奴らはゴブリンよりも数は少ないが、全速力で駆ける馬にも追い付くほど足が速い。故に集団の先頭になりやすく、誘導隊は作戦の障害になりうるコボルトをまず始末しようとした。そして狙い通り、広く敷いた炎の絨毯は確実に奴らの力を削いだ。
一つ目の作戦がうまく行ったにもかかわらず、誘導部隊は気を抜いていない。それは奴らの単純にして恐ろしい性質を知っているからだ。彼らが身構えていると、突如炎の中から大量のゴブリンが姿を現した。炎の中で焼かれ力尽きた多くはコボルトどもだ。その死体は燃焼を阻害し、やがて炎の絨毯の上に死体の道が出来た。奴らは同族の死体を渡って、第一の罠を突破したのだ。
「聞いてはいましたが、本当に厄介な奴ですね!」
「ああ……誘導自体は簡単だが、気を抜くなよ!」
亀裂から現れし者たちに、群れるという意識はない。数が多いだけでそれぞれは個として動く。故に仲間を庇ったり、死を嘆いたりすることもない。
「さあ速度を上げろ! まだ道のりは長いんだからな!」
ナナが同盟軍に入ったのには二つの理由があった。一つは人々を苦しめるゴブリンどもから、守りたいものを守るため。もう一つは同じ軍のどこかにいる、サハニと再度戦いたいがため。
同盟軍に入るという事は、同盟の全ての人たちを平等に守るということ。種族や思想に左右されず、例え憎む相手であっても、それを守る状況なら守らなければならないという鉄の掟がある。竜人の性質に倣ったというこの同盟軍にいるだけで、人々は彼らを尊敬した。
サハニはいつしか彼女の目標となっていた。同盟軍に入れるほどの人物となった彼に対して闘争心が芽生え、いつか彼と同じ場所に立って戦い、自分の気持ちに整理をつけたいと彼女は常々考えていた。
「杭をよく見ろ! 落ちるなよ!」
彼等の前にゴブリンどもを陥れる、第二の罠が姿を現した。カパル平原に奴らをおびき出すとナナたちは縦一列に並び、速度を上げるために馬に鞭を打つ。平原には同盟軍とゴブリンどもを両断する、数十という塹壕の様な落とし穴が掘られていた。落とし穴の底には即席の杭が天を睨み、獲物を待ち構えている。誘導部隊が通れるように、印のついた二本の杭の間だけは落とし穴が途切れ、そこを通れるようになっていた。
穴に落ちないよう隊は慎重に、しかし速度を落とさず誘導を続ける。ナナは後ろから、穴に落ちたゴブリンどもの短い悲鳴を何度も聞いた。奴らはとても単純だ。獲物だけを見て、その他に一切注意を払わない。だからこんな単純な罠に何度でも引っ掛かる。しかし恐ろしいのはその数。炎の罠の時もそうだったが、奴らは同族が死ぬのをなんとも思わない。現に今も深く掘られた落とし穴がゴブリンで埋まり、後続はその上を渡って来ている。
二列目の落とし穴……三列目の落とし穴……四列目……五列目…………追いかけてくるゴブリンの先頭が落ちる度に速度を緩め、しかし決して止まらず、誘導部隊は確実に同盟軍に接近しつつあった。
「隊長! 一人……一人落ちました!」
二十列目の落とし穴を過ぎたとき、手綱の操作を誤り最後尾の隊員が落とし穴に落ちてしまった。ナナの叫びが届いているはずの隊長は振り向かない。助ける気がないわけではない。先頭で馬を操る彼には、隊を正しく導くという重要な役割があるからだ。
「た、助けて! 助けてくだ……わあああーー!!」
「ああっ!!」
運悪く落ちた者はゴブリンどもの餌となる運命にあった。奴らは防具のような物には勿論、露出した喉や口、目に黄ばんだ爪を見境なく突き刺し、あるいは引きちぎり、がむしゃらに食べてゆく。我先にと獲物の肉を貪り食い、不運な者はあっという間に「消費」されてしまった。
「う、ううっ……」
「ナナ、引っ張られるな! 前を見ろ……同盟軍だ!」
落とし穴地帯を越え、平原にうねる丘の上に旗が見えた。白赤黄の三色で彩られた同盟軍の旗。ナナは旗に心強さを貰うと、この作戦最後の行動に移った。燃え盛る火矢を真上に放つ。誘導作戦の成功と、自分達がどこにいてどこからゴブリンがやって来るのかを知らせるためだ。
(誘導は成功だ……後は同盟軍とすれ違い、彼らにゴブリンどもを迎撃してもらう。それで私たちの役目は終わり)
同盟軍の先頭には竜人の戦列が見える。彼らは一番槍をしたがり、それで何度も帰還する程の豪傑。勇猛さは他と一線を画し、礼節と規律を重んじる種族。各々派手に着込んだ衣装が見せる戦列は、味方に勇気を与えてくれる。
やった、もうあんなに近くに味方が見える。終わったんだ! 後ろから迫る恐怖から必死に逃げる任務は終わったんだと、ナナは横に広がった自分の隊から隊長を探し、驚愕した。
「隊長! コボルトが!」
前進するゴブリンの群れから、数十のコボルトが躍り出た。それはやせこけた見た目からは想像できない速さで隊を追い上げる。ナナが次にどう忠告しようか考えている内に、隊長が乗る馬に爪が届く程接近した。
(あの炎で殲滅できるとは思ってなかったけど……多すぎる!)
「うおぉぉっ!」
「隊長!!」
跳躍したコボルトが一匹、隊長の馬にしがみついた。涎をまき散らし、欠け、折れた牙をむき出しにする。そしてすぐさま爪をたてようと手を振り上げた瞬間、犬の様な頭の眉間に刃が刺し込まれた。
「伊達に経験は積んでないんだよっ!!」
「! ……ま、まだ来ます!」
「ふんっ!」
再び飛び掛かるコボルト。しかしその爪も、牙も、獲物にたどり着く前に切り払われ、無残に地面を転がった。他の隊員も襲い来るコボルトを何とか追い払っている。ナナ以外の隊員は少なくとも一度、亀裂に対処した経験がある。こういう時こそ冷静に、脅威度が高い奴らから処理していくことを知っていた。
「わっ! く、くそっ!」
しかしナナは違う。ノミのように次々と地面を蹴るコボルトにうろたえ、思い通りに槍を振るうことが出来ない。馬を掴まれれば払い、自分に向かってくる汚い犬を何とか躱し、反動で危うく落馬しそうになる自分を歯を食いしばり何とか立て直す。巻き上げられた土が鼻や口に入り込み、若干咳き込んだ。
(あと少し、あと少しだ! 鼓舞の太鼓がここまで聞こえる! あとちょっと!)
同盟軍はまもなく始まる戦いの準備に、規則正しく太鼓を叩き始めた。熊の獣人が叩く巨大な太鼓は聴覚に異常をきたすほどに大きな音を響かせるが、不思議と聞く者の勇気を奮い立たせる。
と、彼女は肩に軽い衝撃と熱さを感じた。焼きごてを当てられた様な熱さに思考が一瞬弛んだ。近くを走る隊長が何か叫んでいるが、彼女の耳には入らなかった。
(熱…………熱い………………いや、痛い……痛い!!)
じわりと革鎧の下に広がる何かが、背中全体を覆った。自分の肩に何が乗っているのか、彼女に見当はついている。しかしどうしても振り向けなかった。後ろを見たら最後、背後に迫る無数の牙や爪で出来た怪物が、自分の顔の皮を剥ぎ取って行くのではないかと言う恐怖に心が支配されていたからだ。
(痛い……痛い…………!! ちくしょう、なんで……なんでこんな時にアイツの顔が浮かぶんだ!!)
人は死の危険に直面した時、あらゆる記憶を引き出して危機を乗り越える知識が無いかを思考するという。彼女の場合、幼少の頃にサハニと行った稽古だった。しかしサハニの顔が思い出されると記憶はそこで停止し、彼女の心を包むように広がっていった。
(サハニ……もう一回だけ話したい…………私も同盟軍に入ったんだって、これで対等だって言いたい!)
風のように疾走する馬が、さらに同盟軍へ接近する。
帰還しようとする誘導部隊を隊列の隙間から覗いていた者がいた。それは肩にコボルトを乗せた隊員がいるのを見て、次にその顔に注目した。その顔は彼の見知った顔だった。
「!! ……あれは! ちょ、ちょっとごめんなさい! 通して! ……ああそんな! ナナ! ナナーー!!」
サハニである。果たしてこれは偶然だろうかと彼は思った。ナナが帰還する予定地点に展開していた隊列に、自分がいたのだから。彼は最前列で並ぶ竜人の隙間を縫って、たった一人最前線に躍り出た。
「ナナーーーーーー!!」
「……! 全員迎撃開始、進めぇっ! 勇敢な誘導部隊を守れぇ!!」
一番近くででサハニの行動を見ていた竜人が雄叫びの様な声で号令を出した。太鼓の音は一定の間隔を崩さず、しかし更に早くなった。竜人の号令により、同盟軍迎撃部隊は戦闘を開始した。
陣地に向かって走る馬、しかしその軌道はふらふらとして安定しない。手綱を握る者が制御できていないせいで、どこに行けばいいのかわからないようだ。
「ナナ! 速く、こっちに!」
サハニは叫び、走りながら手を伸ばした。あと少し、あと少しで彼女に手が届く。そう思いながら全力で走り必死に手を伸ばしたが、ナナが落馬する方が早かった。彼女の身体は無残に地面を転がり、主を失った馬はあらぬ方向へ駆けて行った……。
サハニは彼女の元へたどり着くと、最初にその肩に牙をたてるコボルトを引きはがした。次に脈を確認し、とりあえずは生きていることを確認すると短く息を吐いた。すぐに彼の後ろからは次々と兵士たちが押し寄せ、二人に飛び掛かるゴブリンどもを迎撃していく。
「その娘は、知り合いかね」
サハニが地の底に響くような声に振り向くと、号令を出した竜人が立っていた。赤茶色の鱗と全身の装飾品。そしてひしめくように彫られた入れ墨が、彼の地位の高さを物語っている。
サハニは雲の上の様な人物を前に、物怖じせず正直に答えた。
「はい、幼馴染です!」
「ふふ、良い目をしている。大切な人ならば、最後まで守りなさい…………応急処置の後、その兵を後方に護送しろ。勇敢な誘導部隊の一人だ、容態安定までその者の警護を命じる。行け!」
「は、はい!」
「名前は」
「はい、サハニ・ドゥガです!」
「そうか……ふふ。わかった、邪魔したな」
「はい! ではこれより、対象者の護送・警護任務に入ります!」
サハニは手早く処置を済ませるとナナを背負い、竜人に一礼をして去った。
全力で陣地に戻る途中、彼の頭上を大きな二つの火球が飛び越えていった。同盟にたった二人だけ存在する、強力な火属性魔法使いが放ったものだ。強力な魔法使いは戦力として極めて貴重で、発見されればほぼ強制的に同盟軍へ参加させられる。さらに顔も名前も秘匿され、以降家族と会うのすら制限された。引き換えに本人と家族には不自由ない生活が保証されるが、住み慣れた土地から移動させられ、全く新しい環境で暮らさなければならない。
――そういえば……あの英雄ファーラーク・フォーナーも、強力な風魔法使いだったんだっけ。あのときはまだそういう制度が無かったから、堂々と顔も出していたんだな――走る足は止めず、上空を恐ろしいくらいゆっくりと進む火球を見ながら、サハニはぼんやりとそんなことを考えていた。
「うう……」
「! ナナ、気付いた!? まってて、もうすぐ着くから!」
ナナは何となく嗅ぎ慣れたにおいに意識を取り戻し、薄く開いた目に入ってくるゴワゴワとした毛を鬱陶しいと思った。しかし直後に自分が顔を埋めているのが誰の背中なのか理解し、懐かしさで泣きそうになった。
「サハニ…………どうして、同盟軍に……?」
どうして突然自分の前から消えたのか。肩を貫く痛みを堪え、呻き声と共に声を出した。何よりも最初にそれを彼女は聞きたかった。少しの沈黙の後、彼から帰って来たのは、彼女が予想だにしない理由だった。
「ナナを、守りたくて…………ナナより強くなって、その、一緒に、いたくて………………」
ナナは掴んだサハニの毛を、力一杯握りしめる。
あの時は小さな背中だったのに、今は人一人を背負ってもまだ足りない程大きくなった。彼女はそれが悔しくて、嬉しかった。




