16 慈悲-2
勇一が鷲の男に酒を浴びせるのを見て、アトラスタは自分の顔が興奮で熱くなるのがわかった。
出会った頃の勇一はどこか頼りなく、誰かに寄り掛からなければ一人では立つことすらできないような、そんな雰囲気を持っていた。彼の入れ墨を見た時は「竜人が認めるブラキアのこいつは、一体どんなやつなんだろうか」と興味と期待が尽きなかったし、それに反比例するように失望もした。
しかし彼女は見捨てることをしなかった。それは気まぐれだったか、確信めいたものがあったのか……彼女は忘れてしまったし気にしてもいない。
竜人は誇り高き種族、侮辱には死を与える者たち。彼がどうにもならない臆病者なら、むしろ早々に死んだ方が彼のためだとさえ思っていた。
(ユウ、お前は本当に…………面白い奴だなぁ!)
自分より大きな相手に喧嘩を売るなど正気ではない。勝ち目がなければ、罵倒を受けても黙っていた方が利口な場合もある。耳と口を閉じて過ぎ去るまで嵐を黙って受け入れても、誰も文句を言わないだろう。しかし彼は都合よくブラキアと言う種族に逃げることなく、自らを竜人として自覚し、またそうであり続けるために行動した。目の前で青年が男となるのを目の当たりにし、アトラスタは口角が上がるのを抑えられなかった。
(だが、それだけではまだなんだよなぁ)
結果を残した者が一番に評価されるのは、世の常と言えよう。これで勇一が男を倒すことが出来れば、アトラスタの中にある彼の評価は天井を突き破る。
アトラスタは立ち上がり、すぐさま彼の元に向かった。鷲と狼の男は二人で勇一を叩きのめそうと戦闘態勢に入っている。彼女は狼男が机を飛び越えようと足を上げた瞬間、地に着いた方の足を払った。
「どぅわっ!!」
「いけねぇなぁ、オレを忘れてもらっちゃあ」
「アトラスタ」
「ユウ、そっちは任せるぜ。オレはこの犬っころと遊んでくる」
「女ぁ! ぶっ殺して、ぎゃああ!」
狼男の首根っこを捕まえた彼女は、そのまま頭上まで持ち上げた。続いて振りかぶると、酒場の出入り口に向かって思い切り投げつける! ごく短い破裂音は破壊された扉からだ。男はそのまま通りの雑踏目掛けて無様に転がり、砂粒を吐き出しながらよろよろと起き上がった。
「後悔すんなよォ!」
「コボルトみてぇに臭ぇ口を閉じろ。それとも縫い付けられてぇか?」
そして、それぞれの一対一が始まった。
***
「オラどうした! やっぱ口だけじゃねぇか!!」
「いいぞホーク! そんなガキなんかぶっ殺せ!」
ホークと呼ばれた鷲男、彼と拳を交える勇一は早々に劣勢に立たされていた。そもそも体格から相手の有利なので、戦えばどうなるかなど火を見るよりも明らかと言うものである。周囲の机は退けられ二人が十分暴れられる場所が確保されており、野次馬たちはどちらが勝つか賭けを始めていた。
ほとんどの者はホークに賭けており、そして一瞬で勝負が終わると思っている。しかしそんな期待を裏切って、勇一は持ちこたえていた。彼に拳が当たるたび、野太い歓声が沸いた。
「……ック。言ったことを取り消せば、今なら半殺しで許してやるぞ?」
「まだふざける余裕があるようだなぁ!」
(体格も、リーチも、多分経験も向こうが上……このままじゃジリ貧だ)
不利を理解している彼には、迫りくる拳が見えていた。肩や腕の動きや目線を追って、おぼろげながら軌道が見える。しかし見えるだけで速さにはついていけなかった。何度も何度も攻撃をくらえば身体に蓄積し、やがて表に現れる。防戦一方の彼はその場から動けないでいた。
(全力で撃っても肉の壁は厚い。下手すればこっちの手がやられる。まずは……)
「がら空きだボケがァ!!」
「グハッ!!」
一撃、男の鋭い拳がこめかみに命中した。太い腕とそれを支える十分な筋力によって生まれる破壊力は、勇一の足元をふらつかせる。その隙をついて、更にもう一撃が彼の眉間を捉えた。しかし壁の様に大きな拳を目前にしても、彼の眼は死んでいない。それどころか、待っていたと言わんばかりに歯を食いしばった。
「……ぎゃああ!」
後方へ派手に吹き飛ぶ勇一。床に大の字で倒れる彼を見て、勝負あったかと野次馬たちの興奮はさらに盛り上がった。それに対し、明らかに顔を歪めたのはホークの方だった。見れば彼は右手を抑えて苦しそうに呻いている。何があったかと周囲が動揺する中で、額から流血した勇一がふらふらと立ち上がった。
「意外とうまく、いくもんだ……ゴホッゴホッ…………」
「この……ガキイィィ!」
頭へと拳が到達する瞬間、勇一は自分から頭突きを放っていた。彼が過去に記憶した知識を咄嗟に実践した結果、軽い脳震盪と引き換えに相手の指を折ったのである。
勝負の行方がわからなくなってきた、と周囲は盛り上がった。騒ぎを聞きつけ酒場にはさらに人が集まってきている。アトラスタの方にも多くの野次馬が集っており、通りの往来を塞き止めている。二つの喧嘩を囲む熱気は、どんどんと熱くなっていった。
「クソがっ! 指を折ったくらいで調子に乗るんじゃねぇ!」
「ぐっ……がはっ!」
男の前蹴りが、勇一を防御ごと宙に浮かせた。壁に叩きつけられ、即座に立ち上がろうとした彼にさらに追い討ちが襲いかかる。
振り下ろされる蹴りと殴打の雨に勇一は成す術がない。やがて頭を守っていた腕は弾かれ、その奥に体重を乗せた男の膝がめり込んだ。
「………………」
「おいおい、もう動かなくなったぞ? ゴブリンだってもっとしぶといんだがなぁ!」
ホークは折れていない方の手で勇一の胸ぐらを掴むと、そのまま壁に叩きつけた。宙に浮いた足をだらりと下げ、彼は動かない。遂に意識を失ったのだろうか。手加減のない鷲頭の暴力に、周囲はいつの間にか静まり返っていた。
「………………」
「利口に黙っていりゃあ良かったのによ。身の丈に合わねぇことするからそうなるんだ。竜人の入れ墨をしちまったから、そうであろうと背伸びをしなきゃならねぇ。若気の至りってやつだよなぁ……どれ、お前の間違いを正してやろうじゃねぇか」
ホークは腰から小刀を抜いた。勇一を壁に押さえつけたまま、刃をその頬にあてる。彼の赤く染まったドラゴンを剥ぐために、氷のように冷たい刃が刺し込まれようとしていた。
「…………たな」
「あぁ⁉ 聞こえるように言いやがれ!!」
「抜きやがったな……って言ったんだクソッたれ!! ……プッ!」
「!!」
勇一の眼は死んでなどいなかった。それどころか、武器を抜いたホークに怒りを燃やしている。彼の頬をそぎ落とすために近づいたホークの目を狙って、彼は口内にあった何かを勢いよく吐き出した。
いかに屈強な者と言えど、弱点への攻撃には咄嗟に防御行動をとる。それは意志ではなく反射だ。ホークは眼球を守るために目を閉じ、顔をそむけてしまった。
その瞬間勇一は行動に出る。彼は勢いよく足を振り上げ、ホークの腕に全身でしがみついた。身体を固定し、自分を拘束しているホークの指……正しくは小指に両手を掛ける。どれだけ腕っぷしが強かろうと、指一本をどこまで鍛えられるだろうか。大男を倒すための筋力が足りなくとも、その小指一本くらいなら、もしかしたら敵うかもしれない。彼は両手で掴んだホークの小指を、力の限り外側へ捻じった。
ぺきっ
「いぎあああああああああああああ!!!!」
くぐもった嫌な音が、付近にいた全員に聞こえた。皆がホークの悲鳴を聞くのは何度目だろうか。勇一は確実に目の前の大男を攻略していった。彼が吐き出したものは血に濡れた歯だったが、響き渡る声に皆気を取られ、床に転がったそれに気づく者はいない。拘束から逃れ一度距離を取った彼は、次の手を考えた。
(まだだ、アイツはまだ倒れていない。なにか、アイツを物理的にじゃない……精神的にへし折らなければ、また俺がやられる!)
悲鳴を上げるホークの負傷は数本指を折っただけで、それ以外はほとんど無傷。対する勇一は上半身を中心に激しい殴打を受け負傷し、息も上がっている。実の所形勢は全く逆転していないのだ。この流れを止めることなく、ホークを倒すためにどうすれば良いか。
(どこかもう一ヶ所、破壊できる場所があれば! こいつの自尊心の源、鼻っ柱を折れるような……そうか!)
「鼻…………!!」
標的は決まった。時間にしてみればほんの一瞬の思案だったが、ホークは幸運にも折れた指を見てうろたえている。相手が体勢を整えるまで待ってやるほど勇一は優しくはない。そして視線を落としているホークの頭に飛び乗り次の手を打った時、どよめきが起こった。
「うごぁ⁉ な、なにしやがる! 離れろクソッ!」
「ググググググ……!!」
周囲の者たちの歓声はその異様な光景に静まり返った。激しい抵抗にあいながらも、勇一は必死の形相でホークの上嘴に噛みついていたのだ。
ホークが折れた指で彼を引きはがそうにも、激しい痛みで思うように力が入らない。激痛で顔を歪め、相手の行動にうろたえる彼とは対照的に、勇一の眼にはさらに闘争心が燃えがっていた。ますます顎に力が入る。
周囲には聞こえない音がホークに聞こえ始めた……自慢の嘴が悲鳴を上げている。勇一が死に物狂いでかける圧力に耐えられなくなってきているのだ。このまま彼を剥がせなければ……などと考える時間は、ホークに残されていなかった。
「や、やめろ! ヤメロォーー!!」
直後のことである。二人の頭が密着した場所から、何かが折れる音とともに黄色い破片が飛び散った。喧嘩の行く末を見守っていた人々は最初それが何なのかわからなかった。距離を取る二人の顔を見た周囲にどよめきが起こる。ホーク自慢の嘴が、根元から喪失していたのだ。
大きく形の良い嘴は、有翼人種の男の象徴だった。まめに手入れし、顔が映る程の艶を持った嘴が誰よりも注目を集める。他の種族がみても圧倒される彫刻の様なそれは、もやは彼に存在しない。嘴とともに心も折られたホークは恥ずかしさと喪失した現実を受け入れられず、出血した断面を両手で押さえながらうずくまって叫んでいる。
「い、いやだ! どうして! ひょんな……ひょんなぁ! ギャフ!!」
ホークが後頭部に受けた衝撃に振り返ると、先ほどまで見下していた青年が立っていた。その手にはどこにでもある丸椅子が握られている。慈悲の欠片も感じられない目と、次に頬の赤いドラゴンと目が合って、ホークは初めて恐れの感情を抱いた。ゆっくりと近付てくる勇一に、腰の抜けたホークはじたばたと間抜けな動作を繰り返すしかなかった。
「ひ、ひゃめて……ひゃめ…………アアァーッ!」
相手を制止するように出されたホークの手に、丸椅子が容赦なく振り下ろされた。弾かれた手から激痛が瞬時に伝わる、まだ無事だった指が叩き折られたのだ。彼は完全に心折られた。観客も興奮を抑え、とどめが刺されるのを心待ちにしている。
「はっ、はっ、はのう……おひけふ、おひけふかあ!」
遂にホークは懇願を始めた。大の男が自分より小さなものに願う光景は、周囲の目にはそれはそれは滑稽に映っただろう。しかし当事者にしてみればそんなことは関係ない。どうか目の前の怒りの化身が、水滴一つ分でも慈悲を持ち合わせていますようにと祈るしかないのだ。もっとも、勇一に祈るのはお門違いであったが。
「おえあい……おえあいひあふかあ…………」
「俺は! 言ったな!」
丸椅子を持った青年は、周囲を見渡して叫んだ。ホークの胸を蹴りつけ、仰向けに倒す。そして彼は、死刑宣告をするような表情で再び叫んだ。
「取り消せば、半殺しで許してやると!」
静まり返った周囲の中には、その言葉に噴き出す者もいた。これは処刑だ、これから相手を下す大義名分を主張しているのだ。最初に武器を抜いたのはホークの方だ、故に青年にも武器を使って反撃する権利がある……そう理解した人々は、口々に答える。
「ああそうだ!」
「俺も聞いたぞ!」
「確かに言ったな!」
「ひっ、ひいぃい…………わああああああ!!」
筋力と遠心力で威力を増した勇一の丸椅子が、もはや無抵抗となったホークに何度も打ち下ろされた。恐怖で縮こまった四肢が、一打ごとにゆるく伸びていく。丸椅子を持った手の握力が痺れによって弱くなれば、反対の手に持ち替え殴打を続ける。すっかり赤く染まった椅子を振り続ける彼は、周囲からどう見えていただろう。
やがて丸椅子の方が耐えられなくなり足の一本が折れると、それでようやく彼は振り下ろす手を止めた。
「…………」
完全に動かなくなったホークの顔を覗き込む。肩は動いているので死んではいない。
……喧嘩は終わった。勇一は満身創痍だが、結果的に勝つことが出来た。彼は胸一杯に息を吸い一息に吐き出すと、周囲を睨みつけて言い放った。
「他に、こうなりたい間抜けはいるか!!」
野次馬たちは互いに顔を見合わせ、叫んだ。爆発の様な突然の歓声に勇一は一瞬身構えたが、敵意が感じられないと知ってすぐに肩の力を抜いた。
「すげぇなアンタ!」
「ホークの奴、自慢の嘴折られてまいってやんの。あいつは前から気に入らなかったんだ、ありがとよぉ!!」
「賭けには負けたが、いいもの見れたぜ!」
勇一を中心として人が波のように押し寄せ、彼の背や肩を叩いて行く。それは小さきものが巨人を倒すという、人々の感情を熱く燃えさせる戦いをした愉快さ故だ。酒臭い賞賛とむさ苦しい歓喜に包まれ、彼は自分を守り通したのだと実感した。
「おおい、ユウ!」
歓声に負けないくらいの声量で彼を呼ぶ声がする。酒場の出入り口には余裕の表情で手を振るアトラスタがいた。
「アトラスタ! そっちは大丈夫か⁉」
「ああん? オレを誰だと思ってんだよ。雑魚なんて動かなくなるまでぶん殴って、それで終わりだ!」
「えぇ……」
「っと、それよりもだ。騒ぎを聞きつけて巡回兵が来る! 逃げるぞ! ほら!」
人の壁をかき分けてアトラスタが勇一を持ち上げる。肩に彼を担ぎそのまま大股で出入口とは反対方向に進むと、裏口を盛大に蹴り開けた。
「くそっ、もう二度と来るなよ!!」
後ろから店主と思われる怒声が響く。暗い路地裏を右へ左へ駆け抜け、今どこにいるのか見当もつかない。勇一は顔に当たる虫を払いながら口を開いた。
「アトラスタ、そういえばその、仕事ってのは何だったんだ?」
「あん? そうか、丁度いいからこのまま受付に行くぞ」
「危険な仕事?」
危険、と言う言葉にアトラスタはにやりと笑った。一度に大きく儲けられる仕事など、危険か法に背くようなものがほとんどだ。しばらく走った彼女は追ってが来ないのを確認し、一度勇一を下ろして言った。
「そりゃあそうだ。それも飛び切り危険だ」
「それは、一体……?」
勇一はごくりと喉を鳴らす。喧嘩を終えた興奮が冷めやらぬ彼でも、アトラスタ表情を見て何となく背筋が冷たくなるのを感じた。しかし仕事の内容を聞くと、彼は若干の肩透かしを食らった。
「内容は…………ゴブリン討伐、だ」




