13 娼婦の娘(たち)-1
アトラスタが扉の向こうに消えると、後には勇一と受付の女だけがが残された。揺らめく紫の火が彼の顔に影を落とし、額を濡らす汗がてらてらと光を反射する。
カタン
女はアトラスタが消えた扉とは反対方向へ向かい、片手には燭台を、もう片方の手で柱につい取っ手を下げた。石造りの壁が重々しく面ごと滑り、その向こうに通路が現れる。鮮やかな絨毯が敷かれたそこは、明らかに通常案内されるような場所ではないことに勇一の心臓は跳ねあがった。
「ユウ様、さあこちらです」
「…………」
禍々しく口を開ける通路の先からは微かに、澄んだ空気が彼の鼻に吹き付けた。きつい香水に麻痺していた嗅覚がそんな空気を求め、蜜を求める虫のように足がそちらに向く。心は警戒しろとがなりたてているのに、体は全くの無視だ。女は勇一の葛藤を見透かしたように笑い、彼の手を取った。
「そんなに警戒なさらないで下さい。アトラスタ様から代金は頂きましたから、ユウ様はもうお客様なのですよ」
勇一が通路に足を踏み入れると、手を離した女はしずしずと薄暗い通路を進んで行く。女の持つろうそくによって艶めかしい後姿がはっきりとうつしだされ、髪の毛の一本一本までが見える様だ。壁面に設置されたろうそくが通りすぎる度にはっきりと浮かび上がらせる目の前のうなじに、彼は思わず噛みついてしまいたくなる衝動が走った。
お客様、と言うからには何らかを提供する店なのだろう。しかしどんな……と、そこまで考えて勇一は頭を振った。
(馬鹿、気づかないフリはやめろよ俺。聞こえただろ、この店は……)
彼は未だこれが現実でないような気がしていた。口の中で舌を何度噛んでみてもただ痛いだけで、目の前の景色が変わることはない。
アトラスタが消えた扉の向こうから聞こえた、鐘のように響く情事の音。今自分がいるのは、男女のまぐわいを主とした店なのだ……と、やっと現実を受け入れた。すると足に掛かった重みが不思議と取り除かれていくような気分がして、彼は深く呼吸をすることが出来た。
「足下にお気をつけを」
長い通路の先には小さな扉。その先に人が十人は入れるであろう広さの部屋があった。他に行く場所は無く、その部屋で通路は終わっている。勇一が不思議に思っていると、女は迷うことなく部屋に入り振り返って手招きをした。迷ってもしょうがないと彼も続く。二人が入ると、女が壁の取っ手を下げた。すると突然、部屋と通路の境がせりあがった柵で仕切られる。そして振動と共にゆっくりと部屋が下降を始めた。勇一が行き止まりの部屋だと思ったのは、昇降機の籠だったのだ。
四方の壁が上昇しているので、部屋が下降していることは視覚的にも明らかだ。足元の床を除けば、二人を囲うのは金属製の枠のみ。手を伸ばせば触れられる距離には延々と上昇し続ける壁があり、うっかり手をつこうものなら肌がやすりを掛けたようになってしまうだろう。
そんな「安全」などという言葉をどこかに置いて来たような作りの昇降機は、乗っているだけで勇一の精神をすり減らす。しかし規則正しく響く金具が擦れる音や歯車が回転する音など、そういった人工的な音はただ立っていることしかできない彼を僅かに安心させた。
(吊られた状態……じゃないな。どちらかと言えば、コンベアで下がってる感じだ)
「昇降機は初めてですか?」
「え?」
「ヴァパの動力の大半は、シンボルである巨大水車から来ております。水車が回す巨大歯車……それに従い、決められた動作を行い町を支える小さな歯車。さしずめ、国のようではありませんか」
「…………」
どこからかくぐもった雪崩の様な音が聞こえてきた。しかし下降を続ける昇降機は四方を壁で囲まれ、その音が何なのかすら彼には想像できない。
女が勇一の隣に立った。ゆっくりと顔を近づけ、相手が考えていることを暴くような眼差しで覗き込む。目を合わせられない彼は動揺し後ずさるが、女は彼の手を取って強引に向き合わせた。
「あ、あの」
「緊張、なさっていますね」
「そりゃあ……」
「たくましい胸板……。並みの女性がこんなものを目にしたら、ここに抱かれる相手に激しく嫉妬してしまうでしょうねぇ」
周囲はごうごうと雪崩のような音で満たされていたが、不思議と女の囁き声は彼の耳にはっきりと聞こえた。指を絡めた両手を下げて、女は勇一の胸に密着した。「巨大水車を動かす滝の音が、ここまで伝わってくるんです」と女は言う。
「ユウ様の鼓動も、私にしっかり聞こえてきますよ」
勇一は何が起こっているのか誰かに説明してほしかった。下降を続ける昇降機の中で彼は女に寄りかかられている。みぞおち辺りに感じる、ずっしりとした柔らかい感触に全神経を集中させた。手にはじっとりと汗をかき、目線は女を捉えられずに激しく宙を泳ぐ。
(なにが起こってるんだ! 俺はどうすればいいんだ! ……助けてくれアトラスタ!)
「…………っ!」
突如、規則正しく刻まれていた歯車の音が緩やかに遅くなり始めた。同時に二人の乗る昇降機も速度を落とし激しく揺れる。
勇一は咄嗟に女の手を振り払い、胸に寄りかかる彼女を抱き止めた。しっかりと互いを密着させ、相手の頭を守るように手で覆う。なにが起こっているのかわからなかったので、とりあえず目の前の華奢な身体を守るために自らを盾にした形だ。
「……ふふっ」
「どうしたんですか?」
「お客様、まもなく到着です」
どんどんと昇降機の速度は落ち、やがて動かなくなった。振動も嘘のように消え、柵は昇降機と新たに現れた通路との間に消えて行く。女は勇一の腕を優しく解くと、先に足を踏み出した。周囲にはまだ雪崩の様な音がどこからか響いている。
「申し訳ありませんでした。ちょっとだけ、からかったつもりだったのですが」
「か、からかう……」
いたずらっぽい表情で振り返った女に、呆けた顔で応えるしかない勇一。
「あんなことをする人は初めてです。ふふふ……嫉妬されてしまいますね」
にこりと笑った女は向き直り、再び歩き始める。通路は最初に通ったところと同じように薄暗かった。取り残された勇一はしばらく固まっていたが、一人が急に心細くなったのか慌てて後を追った。
***
「お待たせいたしました」
昇降機から降りた後、またしばらく歩いた。壁や天井を通して聞こえてくる音もいつの間にか気にならない程小さくなっている。つまりそれだけ音の発生源から離れたという事であり、何故こんなにも距離が離れているのだろうと勇一は疑問符を浮かべた。
目の前には身長の倍はある大きな扉がそびえ、二人の行く手を塞いでいる。まさか客に開けさせるわけでは無いだろうが、こんなものをどうやって開けるのか。気になった彼は、次の女の行動に関心を向けた。
「……」
ガチャ
なんのことは無い、その扉には二人の様な者が通るためのくぐり戸があった。肩透かしを食らったような気分で立っている彼に、扉を開けた女は自らは通らず彼を待っている。
「私は、ここまでです」
彼に燭台を渡し、深々と頭を下げた女はそれっきり微動だにしない。
……この先は勇一一人で行かなくてはならない。つまりこの先にアトラスタの言っていた「例の娘」がいるという事だ。それを理解した途端、歩くうちに覚めてきた興奮が一気に盛り返す。入ったらどうしたらよいのか、どんな娘が居るのか、なんと声を掛ければよいのか。出るはずのない答えを求めて思考は堂々巡りを繰り返すばかりだ。
ゴク。
乾いたを鳴らす。いつまでもこうしているわけにはいかない。引き返すなどもってのほかだ。勇一は覚悟を決めて一歩踏み出した。
(当たって砕けろだ。どうにでもなれ!)
扉をくぐり数歩前に出る。扉の向こうは暗く、そこが広い空間であることしかわからなかった。静かで、部屋の中心にはほとんど闇に埋もれたベッドが見える。そして彼はそのベッドの上に、何者かの気配を感じ取った。威圧する風ではなく、むしろ優しく手繰り寄せるような気の流れが彼の肌を撫でる。彼の持つ灯りだけでは何者かの姿を照らし出すのに不十分だ。せめて身体の一部だけでも……と更に踏み出した後ろで、女の声が聞こえた。
「どうぞ、彼女たちと心行くまでお楽しみくださいませ……」
勇一が振り返る前に扉は閉められた、重々しく軋む音が部屋を反響する。それを聞いて、やはりそれなりに広さのある部屋のようだと燭台を掲げた。
「ええっと……」
しん…………静まり返った室内。いまここにいるのは勇一と、闇の中でじっと彼に視線を送る誰か。およそこれから相手を抱くとは思えない雰囲気に彼が一歩踏み出せないでいると、どこからか囁き声が聞こえてきた。
「ねぇ、動かないよ?」
「そうねぇ……緊張しているのかしら」
「ここに通されたってことは、それなりの奴なんだろう? なんで突っ立ったままなんだ?」
複数人で互いに相談する声が、静まり返った室内に響いた。静かなだけに、声量を抑えていても彼にははっきりと聞き取れる。どうやら向こうも戸惑っている様だ……同じ感情を抱いていることが分かった勇一は、いきなりことを始める相手では無さそうなことに若干安堵しつつ、違和感を覚えた。そして扉を閉める前に女が口にしていた言葉を思い出す。
(………………彼女「たち」?)
「ねえ、声かけてみなよ」
「ええ、アタシが? こういうのはまず男からって決まってるだろう」
「今までがそうだっただけで、別に決まりがある訳じゃないでしょ。なぁに? もしかして、自分から行くのは恥ずかしいの?」
「ハァ⁉ そそそそんな訳ねぇだろ……」
花が咲いたような女性の声と、素朴な色を連想させる声の女性が言い争っている。その間に割って入ったのは低く落ち着いた声。
この空間には、自分と三人の女性が居る……勇一の頭は興奮のあまり熱を帯びてきたが、同時に、三人も一度に相手できるだろうかなどと言う、答えの分かり切った心配をし始めた。
「やめなさい、見苦しい。どのような経緯があるにせよ、ここにいるという事は一時の愛を求めているという証拠。であればそれに応えるのが、私たちの矜持。忘れ得ぬ記憶を刻み付けて差し上げましょう。それにしても…………フゥーッ」
周囲に設置されていた燭台に火が灯り始めたのは突然の事だった。広い空間に設置された無数の光源が、部屋の隅々まで照らして行く。やがて勇一の相手である部屋の主が明るみに出ると、彼はその姿に息を飲んだ。
「竜…………人」
その身体は真っ赤な鱗に覆われ、長い長い尻尾がそばでとぐろを巻いていた。肉食恐竜のような脚の先には、仕事上短く切られているとはいえ依然鋭いカギ爪。全てが彼の知っている種族に酷似している。しかし竜人と比べ唯一にして最大の違いは、彼女の……彼女たちの頭にあった。
「その入れ墨をした者が現れるなんて……ねぇ」
「ねぇ彼、私たちのこと竜人だってさ」
「はっ、世辞にも限度ってものがあんだよ」
彼女は三人いる。いるが、一人しかいない。竜人と同程度か、それよりもわずかに大きい身長のおよそ三割は首と頭が占めていた。三つの首は、一つの身体から生えていたのである。
「確かに肩から下を見れば竜人よね……でも、これを機に覚えて頂戴」
「アタシたちは、竜人とは似て非なる存在」
左右の頭が順番に口を開く。一人の瞳が黄色、もう一人が赤色の彼女たちはゆったりと首をくねらせ、中央の首へ頭を向けた。
「ナルー、デュパン……まったく、真ん中だからっていつも最後が私なんだから……」
中央の首はたしなめるような視線を左右に送った後、勇一へ鼻先を向けた。上体を起こすと、彼女がまとっていた布がはだける。その灰色の瞳を見た彼は、自分の心臓が高鳴るのを感じて思わず胸に手を当てた。
「私の名前はヒルドゥーリン。私たちは三人で一つの……ヒュドラ、よ」




