11 力の使い方-4
「……!」
振り下ろされたオークの拳は、アトラスタにまとわりつくゴブリンに命中した。続けざまに反対の腕が振られると、また一匹、彼女の身体からゴブリンが引き剥がされた。当たればただでは済まないだろう打撃が、容赦なく同胞であったはずの者たちに振り下ろされる。目の前で起こっている事態を、アトラスタは戸惑いながらも受け入れるしかなかった。
いつのまにかゴブリンどもはその数を減らし、アトラスタに飛びかかる最後の一匹も処理される。呆然としていた彼女は悪臭で我を取り戻すと、慌てて勇一の方を向いた。
「ユウ!」
「くっそぉ! はな……れろ!」
最後の数匹が勇一を襲っている。彼は体力も尽きかけ、闇雲に剣を振るうだけだった。足を掴まれ転倒すると、他のゴブリンが一斉に覆い被さった。
アトラスタであれば硬質化した皮膚で難を逃れられるだろうが、勇一にそんなものはない。故に複数のゴブリンに押し倒されるということは、ほとんど死と同義なのだ。過去初めてゴブリンと戦った時、奴らに食いつくされた竜人の末路が彼の頭をよぎった。
「い、いやだ……まだ!」
直立したオークのうなじから、大量の血の泡が吹き出した。周囲に一層ひどい悪臭がたちこめる。それは振り返るとゆっくりと勇一へ向き直り、そしてまたゆっくりと歩行を始めた。どうやら襲われている彼を助けだそうとしているらしい。しかし速度で言えば、アトラスタが走った方が遥かに速い。
「ユウ、待ってろ!」
のろのろと歩くオークを突き飛ばし、アトラスタは走り出した。途中彼女は自分の武器を拾い、すぐに投げつける。それは勇一に馬乗りになっていた一匹の胸を貫き、彼の顔面に血飛沫を吹き付けた。
「うっぷ……げほっげほっ」
「ボサッとしてんじゃねぇぞ!」
十分に距離を縮めた彼女は蹴りを放った。勇一の足にしがみつく一匹目掛けて爪先を叩き込む。骨を砕かれた振動が、掴まれた足を伝って勇一にも感じ取れた。
勇一は右腕にまとわりついたゴブリンに目をやる。首筋に食らいつこうと開けた口が、全てを飲み込む穴のように見えた。左手に素早くマナンを持ち替え、目の前の深淵に突き刺す。
白濁した眼球が飛び出るほど見開かれ、ゴブリンは断末魔の叫びもあげることなく崩れ落ちた。
「……………………ほら」
「ハァ……ハァ…………ありが、とう」
アトラスタに腕を引かれ、疲労困憊の勇一がやっとの思いで立ち上がった。ふらつく足を気力で支え、二人は周囲を見渡す。彼の支配下にあるオーク以外に動くものは見当たらない。
終わったのだ……と、勇一は溺れる寸前で水面に顔を出せたような気分になった。深呼吸の一つでもしたかったが、漂う腐臭のせいでそれも叶わなかった。とりあえずオークにゴブリンどもの死体を片付けるように命令すると、それはまた一度大きく痙攣した後のろのろと動き始めた。死体を持ち上げようと身体を傾けるたび、アトラスタがつけた刺突痕が裂けて広がり頭を不安定にぐらつかせる。
「お前の力だったな……死体が動くなんて、気色悪いったらありゃしねぇぜ」
「しょうがないだろ。こういう魔法なんだから……」
「……ま、色々言いたいことはあるが」
勇一の肩に物理的な重さが加わった。アトラスタの大きな手が一つ、彼の肩に乗っている。タコだらけの手のひらは、ゴブリンと戦っていた姿からは想像できないほど柔らかかった。
「まず、身体を洗おう」
――背中を押した手から信頼が伝わってくるのは、多分気のせいじゃない。
勇一は鼻を裂くような悪臭に辟易する一方で、彼女の暖かい手にもう少し身を委ねていたくなった。
***
「……やっぱり変だ」
「あ? なんだ?」
小川で身体を流す二人。亀裂より出でしものどもから浴びた体液を水に流すと、うそのように悪臭が消え去って行く。しかし二人分の汚れは、脛程度の深さしかない小川をしばらくの間どす黒く変えてしまった。
勇一はオークの死体にかけた魔法を適当な所で解いた。積み上げた肉塊の上でオークは塵となって消え、いままでそこにいた事実さえ無くなってしまったようだった。
二人は今背を向けあい、河底へ腰を下ろしている。アトラスタは武器の手入れを、勇一は身体に傷が無いか確認している。転んだり引っ掻かれたりした傷はあるものの、いずれも浅い。最後に星魔法を使った代償を確認しようと左手に巻かれた包帯を解いた時、彼は違和感を覚えた。
「オーダスカさんの時は、あんなに短い時間でも小指が半分くらい無くなった。でも今回ゴブリンとオークを操ったのに、あまり削れてない……」
「なんだそりゃ。他のとこが削れたってことか? ……どこか無くなってる場所は?」
彼女に言われ、先ほど確認した身体を隅々まで見直す。しかし小指以外に無くなっている場所など見つからない。
「……いや、無い」
「そうか……玉と竿は?」
「いやいや、そんなの…………だ、大丈夫」
一応確認してみるが、やはり同じだった。アトラスタは腕を一本一本丁寧に拭き、汚れ一つない自分の身体を見て満足している。その中の一つの手首にきらめく腕輪があった。
勇一は使われている布がどう見ても清潔ではないことが気になった。しかし彼女から投げ渡されたそれを使わなければ、否応なしに自分の服を使うことになるので、黒ずんだ布で渋々身体を擦った。
「なんで……」
「考えてもわからねぇことを気にしても無駄だ。やめとけよ」
つっけんどんな彼女の言葉が刺さり、勇一は反射的に相手を見た。しかし内心、彼女の言う通りだと考えている。
「答え早すぎ」
「事実だろう。何の答えも出ない、出た所でどうしようもない、じゃあ考えるだけ無駄。ラコンの計略ってやつだ」
「ラコン?」
「大陸戦争の時、ラコンって参謀気取りのアホがいたらしくてな……って、そういう話はファーラークから聞いてねぇのか?」
「せ、戦争の話はあんまりしたがらなかったから……」
「そうか……まあ、そんなことよりだ」
ずい、とアトラスタの大きな眼が勇一に迫った。問いただすような雰囲気の黒い白目と夕焼け色の瞳が、彼の目線を掴んで離さない。勇一は一瞬戸惑ったが、負けじと見返すことにした。
「なぁんでオークをオレのとこにやったんだ?」
「……え?」
「お前が操ったオーク、最初に自分を助けりゃいいのにまずオレに張り付くゴブリンを叩き落した。お前はその時、ゴブリンどもに押し倒されてたじゃねぇか?」
「そんなことか……一番近いのがアトラスタだったからに決まってるだろ」
何のことかと身構えてみれば……と勇一は拍子抜けした。アトラスタは彼が自身を後回しにしたことを不審に思っている。
彼女のいる世界では、第一に守るべきは自分の身である。自分自身すら守れないなら、他者を守ることなど到底無理だからだ。そんな世界に自ら飛び込んでおいて、一歩間違えればゴブリンどもに食い殺されていた状況で他者を助ける……アトラスタは不思議で仕方がなかった。
「何を言いたいんだ?」
「自分自身を助けるよりも、ゴブリンどもをかまっている隙にオレを殺すよりも、オレを助けた方がいいって思ったのか?」
「はぁ? ちょっと待て、さっきから何の話だ! 俺がアトラスタを殺す? 何で⁉ 説明しろよ!」
腹が立ってきた勇一は声を荒げた。彼はアトラスタを助けた……ただそれだけだ。感謝されこそすれ、疑われるような行為ではないはずだと。
「最初にお前自身を助けて、オークと二人でオレを殺し、腕輪を取り返そうなんて考えなかったのか? まぁそんな事でくたばる鍛え方はしてねぇがな」
「………………」
あまりの言い草に唖然とした勇一は、頭を抱えてしまった。戦闘のどさくさに紛れて彼女を殺し、腕輪を取り戻そうなどと言う発想が信じられなかった。
報酬を独り占めにしようと、組んだ相手を秘密裏に始末するならず者もいる。アトラスタはそうした者が少なからずいることを説明したうえで、勇一を見定めるような視線を送った。
「そんな奴らと一緒にしないでくれ。そんな不誠実なこと出来るか」
静かに、怒りを抑えながらも勇一は返答に圧を込めた。
「不誠実?」
「俺はアトラスタから腕輪を買い戻すって約束した。奪い取るなんて俺の良心に反する。良心というか、信念というか」
「…………」
「アトラスタ?」
返答を聞いていたアトラスタの表情は、まるで思考が止まっているかのようだった。急に噴き出した彼女は自虐的な笑いを飛ばし、膝と同時に勇一の背中を叩く。一撃ごとに、彼は肺の空気が押し出されていく感覚がした。
「はははっ! いや、そうか。そうだよな!」
「ぐはっ!」
「おおっと悪ぃ。そうか、お前はちゃんと自覚してるってことか」
「自覚?」
「竜人としての自覚。お前が言葉だけの奴じゃないってわかってよかった」
勇一から目を離し、そばの焚き火に視線を移す。燃え盛る炎の近くには二人分の衣服が広げて置いてあった。それなりに風もあるので、火を絶やさなければ朝までには乾くだろう。
勇一からすれば約束や契約を守るなど当然のことだ。命をかけてまでそうするのは中々ある経験ではないが、迷いなく実行できたことに彼自身驚いている。だが彼女にそんなわずかな認識のズレを伝えようとして、思い止まった。
「ラコンの計略……か」
「あ? なんだよ」
「なんでもない。それより、ヴァパまではあとどれくらいあるんだ?」
無理矢理話を切り上げ話題を変える。視線から解放された勇一は、ふと一糸纏わぬ彼女の背中に見入った。今まで服や防具に隠れていた場所も不自然なほど滑らかで傷ひとつ無い。まるで鋳造されたかのような肉体に、彼は芸術品を見ているような気分になった。そしてそれだけ技量がある彼女の顔に傷をつけたのは、一体どんな人物なのだろうと思った。
「あとニ、三日歩けば着くだろう。デカい都市だ……デカい上にダンドターロル以上に沢山の種族がいるから、目がまわっちまうぞ……お」
瞳に星空を映したアトラスタは、勇一にも空を見るよう促した。彼が差された先を注視すると、周囲の星を差し置いて眩く恒星が輝いている。
「見ろ。ありゃあ極北の星『タウ』だ。大陸のどっかからでも見えるから、あそこに星の女神様がいて、オレたちを見守っているって言われてる」
「ふうん……」
勇一はしばらく、闇の空にあってはっきりとした存在感持つタウを見つめた。あそこに女神が住んでいるかどうかなど、それこそ神のみぞ知るというものだ。
ぼんやりと瞳に空を写していると、ざぱ、と言う水の音が静寂のなかに響いた。我に帰った彼が見ると、伸びをしながら寝床に戻る全裸のアトラスタが目に入った。彼女は恥じらいなど欠片も感じさせず、同じ格好の勇一に振り返らずに手招きする。二人が出会った日の夜そうしたように、彼を抱いて寝るのだろう。
「アトラスタ」
「あ?」
「あのさ、俺だって一応男なんだ」
「…………はっ」
勇一が何を言わんとしているのかわかった上で、アトラスタは鼻で笑う。そしてだらりと腕を下ろし、無防備な背後を晒した。今彼女の身を隠すものは無い。もしかしたらそれは本当に誘っているのかも知れない。しかし彼が察知したのは命の危機だった。心臓が跳ね上がるように胸を叩き、足が勝手に逃亡の体勢に入る。拭いた筈の背中がいつの間にか汗で濡れている。いま彼女に触れようとしたら何が起こるかわからない。しかし確実に死か、それに近い状態になる、と直感した。
彼の腰が引けたのがわかったのか、表情の見えない彼女から嘲笑うような声がした。そして寝床へ向かいながら言い放った。
「相応の覚悟ができたら、存分に相手をしてやるよ」
高笑いが辺りにこだまする。勇一は冷水をかけられたような気分を噛みしめ、恨めしい目線を彼女の背に投げ掛ける。すっかり覚めた欲情を心にしまい、寝床への道程を歩き出した。




