6 一夜明けて
「へぇーっ! それで、ユウは無事だったの!?」
ダンドターロルに朝がやって来た。大陸の北に位置するこの町には寒さがまとわりついており、湿った空気がわずかに和らげているとはいえ、刺すような冷たさが身に染みる。
そんな気候を住人たちが気にも留めないのは、この町が丸ごと地下に出来ているからだ。しかし暖かい地下に長くいる人々も、たまには冷たい空気が懐かしくなることがある。
時々朝の冷めた空気を吸いに外へ出る者もいるのだが、余程地下の居心地がいいのだろう、数度深呼吸をするとすぐさま地下に戻っていってしまう。一度に数人が地下から現れては大きく背伸びをして戻っていくこの光景は、まるで人々が息継ぎをしているようだと旅人が言ったこともあった。
地下にあるのは食堂や商店だけではない。施設同士を繋ぐ坑道に似た道をさらに奥に進むと、その先には居住区画が存在している。勇一とアトラスタの二人は、そこに住むラレイの元に招かれていた。
「ああ、あいつは本物の竜人だ。姿かたちが違っても、彼らの心は十分に受け継いでいると思う」
「怪我は大丈夫なの?」
「なあに、一度チクっと刺されただけさ。傷口も縫ったし、どうって事ねぇよ」
「そういうものなんだ……」
ラレイの好意でアトラスタと勇一の二人が居座っている彼女の部屋は、一人が生活する最低限の広さしかない。小さなベッドと机が一つずつ、ラレイの物は衣類や櫛や鏡といった身だしなみを整える程度の物だけ。ここが彼女の帰る場所で、一人になれる城である。
前夜何となく地上に出てみた彼女は、枯れ木の元で頼りない一人用テントで眠るアトラスタらを発見した。成り行きを聞いたラレイは、それなら是非にと自分の部屋に二人を連れ込んだのである。
「っと、焼けた焼けた。ラレイ、そろそろ戻ろう」
「うん」
アトラスタはかまどに手を突っ込み、中から丁度よく火の通った肉やら魚やらを取り出した。彼女たちがいるのは、かまどが並ぶ炊事場だ。
炊事場は個人の部屋にはなく、坑道のような道を通った先にある共同炊事場があるだけ。そしてそこが、この町で一番賑やかな場所だった。
「ユウもそろそろ目覚める頃だろう」
「まだ寝てたら?」
「叩き起こす」
いくつかの料理の包みを持ったアトラスタにラレイがついて行く。すれ違う人々はラレイに好意的に挨拶や声をかけ、彼女は笑顔で答えながら手をふった。この町で彼女を知らない人はいない。
「ラレイ、今日は休み? 北側に行商人が来てるんだ」
「面白そうね、後でアトラスタと行ってみるね!」
「ラレイ! うちのかみさんが今度そっちに行くって」
「ありがとう! 次の休みに私が行くっておばさまに伝えて!」
「ラレイ!」
「ラレイ~」
…………。
彼女が人を引き付けるのは、愛嬌と誰に対しても変わらない気さくさが故だ。六人目を受け流したあと、ラレイはアトラスタの背中に隠れた。合わない歩幅をどうにか合わせ、勇一が寝る我が家へと戻っていった。
***
「う…………ん」
「お、目が覚めた? おはよう~」
「おはよう……? ここは…………痛っ」
知らない天井に戸惑う勇一に、ラレイが気さくに声をかける。すぐに身体を起こそうとする彼に、彼女はさも当然であるかのように肩を貸した。傷口にポワポワ草を貼っているとはいえ、痛みが無くなったわけではない。腹に力が入る度に鋭い痛みが彼を襲う。
勇一はあまりに近い彼女の距離に戸惑った。間近にあるラレイからは、彼女が日々こなしている労働の匂いがする。そして男一人の上体を難なく起こしたことで、見た目よりも力が強いことがわかった。
「丁度よく起きやがって。おら、腹が減ってんだろう。食えよ」
それを部屋の入り口で見ていたアトラスタは、小さな机に食事をのせて行く。無遠慮に置かれた木皿には、山盛りの何かが湯気をたてていた。彼女は机を挟んで勇一の正面に座り、彼とラレイに平たい串を手渡した。
「……」
彼女は勇一に「大怪我をした翌日、起床した直後に食事をしろ」と、そう言うのだ。彼が手に持った串は片側がわずかに反っていて、これ一つで食事のための用途に耐えられる。隣を見ると、既にラレイは盛られた料理を取り分けていた。渡された小皿に串を立て、縫われたばかりの傷口が開きやしないかとひやひやしながら口に含む。
「ん……おいしい」
「でしょう! アトラスタ自慢の手料理よ」
乾いた口の中に広がる馬鹿正直な油の味は、サウワンで食べたものとは全く系統が違う。サウワンでは金持ちの、ここダンドターロルでは貧乏人の「旨い」が凝縮されたような味だ。単純に比べられるものではなく、両方とも胃袋を満たすのに十分だと勇一は思った。
彼は改めて目の前に並ぶ料理を見渡した。それは鮮やかさこそ足りないものの、手堅くまとまった姿は十分に食欲をそそる姿をしている。そして見た目だけではなく、狭い空間に満ちる香ばしさも皿に手を伸ばす原動力になっていた。
「ふーん、アトラスタが…………アトラスタが?」
「おう」
「アトラスタが? これを?」
「おう」
串を持ったまま、勇一は意表をつかれた思いがした。
彼が感じる印象によれば、ここにある料理はラレイが用意したと言われれば何の違和感も覚えない。しかし粗暴で豪快なアトラスタが作ったとなると、どうしても二つが線で繋がらなかった。
つい目の前に並ぶ食事と、向かいに窮屈そうに座る女傭兵を見比べる。目ざとい彼女は、そんな彼の視線などお見通しと言わんばかりに大きく咳払いした。続けてのっそりと前かがみに姿勢を変え、彼に覆いかぶさるように見下ろす。
「何を考えてるか当ててやろうか? 『雌のオーガやトロールみたいなやつが、どんな知恵を振り絞ればこんな物を作れるんだ』だろう」
「いや、そんなことは……まあその、確かにアトラスタの印象と離れてたって思ってたのは……その通りだけど」
「アトラスタ、あんまりユウをいじめないでよ」
「……フン」
生きた心地がしなかったが、食事が旨いのは事実だ。勇一は簡潔にそれを伝えると、アトラスタは再び「フン」と鼻を鳴らし黙々と食べ始める。隣に座るラレイは、にっこり笑ってアトラスタを、次いで勇一に目を合わせ「照れてるのよ」と耳打ちした。彼女のいう事を信じようという気には中々なれなかったが、とりあえず食事が終わるまでは命の保証がされたような気がして、食事を再開するのだった。
出された食事を皆で全て平らげた後、勇一は突然二人に部屋を追い出された。怪我人に何てことを……と文句の一つも言いたがったが、部屋の主であるラレイに手を振られてはどうしようもない。しかたなく彼は渡された桶を小脇に抱え、それに入っていた紙のようなものに描かれた場所へとすごすごと向かって行く。
「……なるほどなぁ」
勇一は相変わらず文字が読めない。しかし書かれた線は道順だとなんとなく理解できた彼は、前方と手元へ視線を往復させながらその通りに進んで行く。ひたすら下へ、下へ、やがて湿気をはらむ熱が全身を暖めたがそれでも前へ進むと、いつしか目の前に大きな空洞が現れていた。
「温泉かぁ」
床や壁に散りばめられた屑水晶が、魔力に反応して光を生み出す。そうして浮かび上がった光の波は足元を照らすだけで、湯気の向こうにいる先客たちの顔が見えない程度の明るさだ。
勇一はくりぬかれた岩壁の窪みに衣服を置くと、そっと爪先から湯に入った。底の屑水晶が水面を柔らかく照らし、彼の身体をてらてらと浮かび上がらせる。傷口を浸さないように適当な段差で腰を下ろすと、湯気を一杯に吸い込んだ。寄り掛かった壁の冷たさが心地よかった。
「風呂がこんなにありがたいなんて……」
北の寒さがしみ込み凍ったように冷たい足が、熱によって解されて行く。
今まで川で水を浴びたり身体を拭いたりはしていたが、彼がこの世界に来てから湯に入ったのはこれが初めてだった。肩までつかるには熱すぎるが、気分を落ち着けるには丁度良い。香りが付けてあるのか、視界を覆う湯気を吸うと身体が軽くなったようで肩をゆっくりと回す。
しばらくそうして心地よい気分に浸る。何度か人が彼の横を通り過ぎて行ったが、皆一様に静かに湯の中を歩き、話し声もあまり聞こえない。彼は何となくこの静寂を他の者たちと共有できたことが嬉しくなった。わずかな光が照らす闇は柔らかく、互いに気配だけがわかりあえるこの距離感をいつまでも味わっていたいと思った。
しかしそんな心地よい時間は突然終わりを迎える。
「おい、ユウ」
「えっ……えええええええええ⁉」
隣に座っていたのはアトラスタである。かの女傭兵は一糸まとわぬ姿でいつの間にか勇一の隣に座り、彼の顔を覗き込んでいた。壁の中にいるかのような湯気の中で彼女は顔を近づけ、鼻に触れる程の距離にいる。
「ななななんでアトラ……モゴッ」
「静かにしないか。いや、怪我の調子はどうかと思ってよ」
声を上げた勇一の口を塞ぎ、今度は傷口を覗き込む。薄暗い中でそれを見ると「大丈夫そうだな」と一人で納得し、拘束を解いた。
慌てて距離を取ろうとした勇一は、大変なことを思い出した。アトラスタが座る自分の反対側は、先ほどまで彼が寄り掛かっていた壁なのだ。彼はアトラスタと壁の間に挟まる形で、逃げることもできずただ距離感のない彼女に触れているしかなかった。
「慣れそうか?」
「…………慣れる?」
「殺しだよ」
藪から棒に何を言い出すかと思えば、昨夜の出来事の話だった。勇一は湯と同じくらい熱い彼女を肌で感じながら正直に答える。
「…………慣れるかよ」
「それでいい、オレだって慣れねぇんだ。……殺しなんて、慣れるもんじゃねぇ」
「アトラスタが?」
「オレを何だと思ってやがる……。まぁ、仕事上殺しをしたことは何度もあるが、狂いそうになるのを抑えるのにいつも必死さ」
湯気の向こう側を見ているかのような眼をして彼女は呟く。口調は軽く、表情は重く……人差し指はグルグルと水面をさまよっていた。
「え? でも前は慣れって……」
「あれはだな……そう、言葉のあやってやつよ」
なんとも適当なことだ。呆れた勇一は大きなため息をつく。淡い光の中で湯気が渦を巻いた。
アトラスタはばつが悪そうに顎を撫でた。何か言おうと模索している表情で、裂けた唇の隙間が少しだけ広がる。
「まあなんだ、何にでも言えるが……行動は慎重にするこった。
同盟内では、竜人ってだけで信頼する奴も少なくねぇから。そう言った期待にも応えなきゃならねぇ。だから……」
むんずと勇一は頭を掴まれる。無理やりアトラスタの方へ向けられると、そこにはまっすぐに見つめる彼女と目が合った。その瞳は夕焼けの色で、本来白いはずの部分が黒く染まっている。
言葉を切った彼女としばし見つめ合い、それから長い長い沈黙が暗い空洞を満たした。どこからか聞こえる水音とまれに囁かれる人の声が、勇一にはやけに大きく聞こえた。
「お前も竜人の誇りのために、どうすればいいかを考えろ」
「竜人の誇り……」
「そうだ。誇りと、そして……彼らの名誉のために」
「名誉のため…………」
彼女は穴が開く程勇一の瞳を覗き込んだ。これから彼にのしかかる、意志とは無関係な重みに耐えられるのか……そう問いかけているような眼で。
――今の彼には愚問だった。碌に抵抗もせずなすがままだった勇一は既に死んだ。彼は、仮面の男に復讐を誓った者。大切な人たちを奪った行為に報いを受けさせるべく歩き続ける。その両肩には星の力を柱として、誇りと復讐が乗っている。
「真剣な顔してるとこ悪いんだがよぉ」
「……なに?」
勇一の頭から手を離したアトラスタが、口元を歪めてにやりと笑った。彼の腰のあたりを見つめて、茶化すように口を開いた。
「いくら何でも、ここで事を起こすなよ? ふふっ」
「事を……? あっ」
「ぶふっ。見ていたのがオレでよかったなぁ。……アッハハハハハ!」
「み、見るなって!!」
彼女の視線にようやく気付いた勇一は、とっさに股間を隠した。緊張と疲労の夜から一夜明けたとはいえ、彼の身体はまだ興奮冷めやらぬ様子でいきり立っていた。遂に噴き出したアトラスタの笑い声を背に、彼は急いで浴場を立ち去る。薄暗いのをこれほどありがたいと思ったことは無かった。




