26 はじめてのさつじん
「何だぁ!?」
男は勇一に背を向けたまま、振り向けないでいた。
不自然な体勢のままもがく男を、ただ唖然と眺める勇一。そんな彼を叱咤する声が突然足元から響く。
「何をしている、ユウ!!」
「オーダスカさん!?」
声の主はオーダスカだった。目の前の男に胸を貫かれ、ついさっきまで自らの血だまりに倒れ伏していた彼が、その男の足にしがみつき身動きできなくしていた。
「今だ! やれ、ユウーー!!」
「う、おおおおーっ!!」
ネズミから現れたマナンといい、死んだはずのオーダスカが動いていることといい、勇一は目の前で起こっている展開に頭がついていけなくなった。しかし今やらなければならないのは目の前の男を殺すための行動で、考えることではない。
全ての迷いと混乱を振り払って、彼は男の脇腹に剣を突き刺した――。
「なんっ、だありゃあ!」
アイリーンの後ろにいる男が再び声を張り上げた。勇一の行動はバレてしまったが、男たちの注目を逸らすことが彼女にとって一番重要なことだった。
前後で彼女を挟んだ二人は、両方とも勇一を見ている。この隙を活用しない理由などないと、まずは後にある男の足を力いっぱい踏みつけた。
「ぎゃああー!」
足の甲は簡単に踏み砕かれ、たまらず男はよろめく。悲鳴に気付いた前方の男が向き直るが、彼女には遅すぎる動作だった。
踏み砕いた足を後方に振り上げ瞬時に男の股へ叩き込む。容赦のない金的は男の証拠を文字通り破裂させた。しかしこれで彼女の攻性は止まらなかった。即座に腰を落とし両足を大地に密着させると、睾丸を破壊され前傾で倒れこむ男の下へと潜り込む。
大柄なホラクトは身体をくの字に曲げても、地面との間になお余裕があった。
「スウゥ――………」
アイリーンは息を吸い込むと、倒れこむ壁の様な男の上半身に拳を叩きこんだ。一撃が空気を震わせるほどに強烈な打撃が連続で男を襲う。
眉間――鼻――顎――喉――鳩尾――一度の瞬き程度の時間で全ての拳を捻じ込まれた男の身体は跳ね上がり、今度は仰向けに倒れた。
そして振り向きざまに、足を砕かれた男の顎に蹴りを入れる。口がだらんと開いた男は糸が切れたようにその場に倒れ、二人の賊は昏倒した。
アイリーンは蹴りの勢いのまま身体を回転させしゃがみこむ。全身をしならせて地面を蹴ると、既に攻撃体勢に入った最後の一人に向かって突進を始めた。
「まだ……足りないかっ!」
勇一の突きは後半歩足りなかった。腕を精一杯伸ばしマナンを男の脇腹に突き刺したが、致命傷にならなかった。足りなかったせいで、切っ先が僅かに心臓へ届かなかったのだ。
「くそぉっ……!」
激痛と出血に耐え、殺したはずのオーダスカに怯えながら、それでも男はアドを離さない。それどころか、のけぞった体勢のまま掴んだ頭髪にぶら下がった少女の頭を徐々に剣の方へ近づけ始めた。宣言通りアドの命を絶つために、長剣が細い首に迫る。
(こっちが動くよりも先に、アドが死ぬ……俺はまた何もできずに…………?)
「うぅっ……痛っ!」
しかし少女の方は……まだ諦めていなかった。髪を掴まれぶら下がった彼女は、男の目線が勇一の方へ向いた隙に目前でぎらつく刀身を小さな両手で掴んだ。裂けた皮膚から血がにじむ。そして渾身の力で、自分の頭と忌々しい男の手を繋ぐ頭髪を切断したのだ。
急に重さが消えたことに気付いた男は即座に視線を戻すが、すでに彼女の姿はなかった。
拘束から解放された彼女は、最初地面に膝をついた。擦りむいた痛みなど気にも留めず、更に男の股を潜り抜ける。そして、死んだはずの父親に言った。
「お父さんごめん、肩借りるね」
「小さい頃、よくやってたじゃないか」
「ど、どこに行きやがったぁ!」
「ユウ!」
「ああ!」
男の足を離さないオーダスカの肩に乗り、アドは勇一の脇の下から頭を出す。その眼に覚悟を宿した少女は、血まみれの両手で勇一と共にマナンを掴んだ。彼女がそれに体重を掛けたのと、勇一が更に踏み込んだのは同時だった。
「く、くるなぁあーー!!」
アイリーンの六人目の標的は恐怖に狂った。一瞬で何人もの仲間が彼女に倒される光景を見れば当然である。手に持った槍を使って彼女を近づけまいと振り回すが、無意味だった。男は猛然と迫りくる彼女に対して、槍を振って応戦しようとした。……が、振られた槍は当然の如く空を切る。
既にアイリーンの身体は地面から離れていた。空中で相手に足を向け、身を縮こまらせる。そして弾けるように脚を延ばすと、両足は男の顔面にめり込んだ。そこにいたはずの男は弾き飛ばされ、代わりに華麗に着地した彼女が現れた。
立ち上がって埃を払うと、彼女は二人に歩み寄る。
「ユウ、アド……終わったんだね」
二人の足元で倒れているホラクト。それはもう動かない屍と化していた。アイリーンの問いかけに勇一は答えられない。アドを後ろから抱くように立っていた彼の心に、次第に罪の意識が侵食し始めたからだ。
――ついにやってしまった。『殺人』を犯してしまった。彼の手は、マナンを伝って流れ出た男の血にまみれていた。
「……ひっ」
彼は思わずマナンを手放した。冷たい金属音を響かせ、それは足元に落ちる。
急激に彼を襲う罪悪感、恐怖、肉を刺した時の手ごたえ、マナンを通して感じた鼓動……。彼の呼吸は浅く、速く、心臓は今にも爆発しそうだった。罪に染まった両手から目を離せない。脚に力が入らず、腰を抜かしへなへなとその場にへたり込んでしまう。津波のように様々な感情が押し寄せ、一部が涙となって溢れ頬を伝う。それは彼の左頬で血のような赤に染まったドラゴンも濡らした。
「……アド、ユウを頼む」
「…………」
父親の頼みに、彼女は黙って勇一の元へ向かった。肩を震わせ、子どものように泣きじゃくる彼の前に膝をつき、その頭を胸に抱いた。勇一は彼女の背に腕を回し亡者のようにしがみつく。彼女の体温と速い鼓動が彼に届くと、ようやく堰を切ったように嗚咽が流れ始めた。
「大丈夫よユウ……私も一緒よ」
「うう……ううう…………ぐすっ……うああああああーー!」
勇一は少女の胸の中で泣いた。鳴き声を夜の闇が吸いとって行く。それがどれだけ情けない姿でも、そこにいた誰もが笑ったり、ましてや責めたりしようなどと微塵も考えなかった。彼は出来ることをやり切った。結果罪を負っても、それを見ていた全員が彼の味方だった。
「よしよし……好きなだけ泣いて、全部吐き出して」
彼を抱く手も震えている。分けあってもなお重すぎるものが、二人の背にのし掛かかった。
「ユウ」
少しだけ落ち着いた勇一の肩に、アイリーンが手をかけた。同情でなく、憐れみでもない視線が向けられた彼は、少女の胸から顔を離し視線を返した。
「悪いけど、落ち着いてはいられない」
「……え?」
アイリーンは明かりの方へ顔を向けた。陽動だと思われていた方向から、下品な笑い声が聞こえる。炎によってできた光源は未だ収まっておらず、戦いが終結した様子はない。それどころか、複数の影が近付いてくるではないか。
「野盗の数は、予想より多かった……みたい」
アイリーンは剥がされた上着に腕を通し忌々しげに呟く。不意打ちですら一人仕留めるのに苦労した勇一には、既に戦闘を続ける意志など欠片も残っていない。
しかし勇一は真っ赤な眼を擦り、震える脚でのろのろと立ち上がろうとした。それがあまりに痛々しい姿だったので、アドは咄嗟に彼の袖を掴んだ。
「だめ……ユウ…………」
「やめちゃ、駄目だ。今俺が倒れたら……アイリーンしかいなくなる。それは駄目だ」
「ユウ……すまない」
「オーダスカさんは、横になっていてください。終わったら、手当てを、します」
「……来るぞ」
集団が勇一たちに気付いた。笑い声がぴたりと止み、各々が武器を手に持ち始める。大小混じったその集団は、ホラクトとリザードマンだ。悠々と歩く姿は、まるで処刑台の方からやってくる様だった。
(何人いるかもわからない。どうにもならない……けど、このままは駄目だ……)
アイリーンに全員を守りながら戦えというのは酷な話だ。ならばせめて標的を分散させようと彼は歩み出すが、何もない地面につまずいて膝をついてしまう。最早その足に、人を運ぶ力は残されていなかった。
――これで終わりなのか。と、全員が絶望の雰囲気に包まれたとき
「こっちかああ!」
予想だにしない方向から、援軍がやってきたのだった。




