25 手を下す覚悟
「いやあああああ! お父さん、お父さん!!」
馬車から少女が飛び出す。彼女は複数のホラクトなど目もくれず、倒れ伏す父親めがけて走り出した。
「アド! ……ああっ!」
ラシアタが娘を追いかけ外に出る。しかしあろうことか、すでに劇団の馬車も複数の野盗に囲まれていた。ラシアタは足を掛けられ転倒するが、アドは大柄なホラクトをすり抜けて事切れた父親に向かう。
「ぬおおお!」
次に現れたのはガージャだった。取り囲む野盗のホラクトが全員アドたちの方を向いている隙に、彼は決死の覚悟で近くのホラクトにとびかかった。初老のガージャは短剣片手に相手の喉を掻っ切ろうとしたが、もう一人のホラクトが彼の首を掴んで引きはがし地面に叩きつける。彼が衝撃で動けないのを確認すると、相手はガージャの脚を思い切り踏みつけた。ほんの小さな破裂音の直後、痛々しい悲鳴が辺りに響き渡る。
「お父さん!! ……きゃあああ!」
オーダスカを刺した者が手を伸ばし、アドの波打った黒髪を鷲掴みにした。もう少しで父親の遺体に手が届きそうな彼女の手が、半狂乱な悲鳴と共に前に進もうともがく。全く静かにならない彼女の顔を、賊は容赦なく殴りつけた。殴られたことをようやく理解すると、後に遅れてくる痛みが彼女の心を委縮させ涙を鼻血をとめどなく流した。
「あうう……」
「静かにしてろガキが……ただでさえ老いぼれ猫に叫ばれて厄介なんだ。おいテメェら、さっさと回収しろ……ああ?」
「くっ………………うう」
勇一は波のように揺れる地面を踏みしめ、かろうじて立ち上がった。しかし立ち上がっただけで、戦える状態ではない。それでも彼は、皆を守るために立ち上がらなければならなかった。マナンを持たない彼はふらふらと、アドを拘束したホラクトに向かい拳を振り上げようとした。しかし
「ぐああっ!!」
「静かにしてろ、それとも最初に死にたいか?」
ホラクトは長身で、見た目以上の筋力を持っている。賊が少し足を振り上げると、蹴るために丁度いい場所に勇一の頭があった。賊は手加減のない蹴りをふらついた青年の顔面に浴びせると、相手は吹き飛び後方にある馬車に叩きつけられた。
(目が霞む…………身体も、動かない…………野盗は、何人? 俺に力があれば…………)
「おい、何をぼさっとしてやがる。俺たちは顔を見られたんだぞ……全員殺せ」
男の合図とともに、野盗たちが長剣を振り上げた。もうどうしようもないと思った時、突然劇団の馬車から何かが飛び出した。それはすぐに空中に浮かび、夜の闇に消えていく。野盗どもは一瞬どよめいたが、すぐに脅威ではないと理解した。
「なんだ!? あいつはハーピィか……クソッ、逃げられちまった!」
「ああ、いいぞぉターン。お前だけでも、逃げるんじゃ……」
(ターン……よかった。あの子だけでも逃げられた)
「あいつが助けを呼ばないとも限らん。さっさと終わらせるぞ……まずはこいつから」
アドの髪を掴んだ男が手を引くと、少女の足は地面から僅かに離れた。痛みに耐えられない少女は悲鳴を上げようとするが、再び殴られるのではないかという恐怖にうめき声を僅かに上げただけだった。
「ま、まて……ぐっ!」
また、勇一が立ち上がる。今度は何かを言う前に賊が彼を蹴り倒した。積み上げられた荷物に激突し下敷きになる勇一。不屈の思いでまた立とうとする彼を、三度賊は容赦なく蹴り抜いた。
「がはっ……!」
「うう……ユウ………」
「やめて、アドは駄目! 私を先に……どうかお願い、その子は…………どうか」
「……そうするか。おいお前、さっさとやらねえか」
勇一とターンの行動は、皆の命を数十秒長らえさせただけだった。現実的に考えて、それだけの時間で出来る逆転の手などない。こうしてラシアタが娘の身代わりを申し出ても、それは列の先頭に入るだけで皆の運命は変わらない。
ラシアタの近くに立っていたホラクトが長剣を振り上げる。そうはさせないと勇一はもがくが、手足は全くいう事を聞かなかった。耳鳴りがぶり返し、周囲の音が水中に響くような感覚が彼を包んだ。
「お母さん! お母さぁん!」
少女の声が虚しく響く、剣がラシアタの背に突き立てられようとした。
その時勇一は、妙に風が強くなったような気がした。
「な、なんだ、突風か!?」
それは気のせいなどではなく、現実に起こっていた。凄まじい突風が周囲を襲い、直後地響きがその場にいた全員を襲った。舞い上がる土煙、咳き込む人々、全員が何が起こったのかを理解できずうろたえている。
「遅かった……か」
聞き覚えのある声がした。それはルドで勇一を救ってくれた声、グラグラと揺れる視界のままに、彼はその名前を叫んだ。
「アイリーン!!」
「ユウ、そこにいて。まずは……」
アイリーンは姿勢を整えると、瞬時に腕を振り上げた。ラシアタに剣を突き立てようとした男の腕が、彼女の手刀によって宙を舞う。最初は何が起こったのか理解できなかった男は、遅れてやってくる痛みに顔を歪ませ悲鳴を上げようとした。しかしそれを彼女は許さない……即座に飛び上がると男の喉仏に肘を叩きこむ。
「がっ!」
「黙れ、次……!」
土煙が未だ舞う中を突き進み、次に標的としたのはガージャの脚を折った男だった。男は仲間の一人がやられたのを見るや、即座に戦闘態勢に移行する。正面切ってアイリーンとの戦いに挑んだ男は、手に持った剣を振り下ろした。しかし落ちてくる剣に沿って身体を回転させ攻撃をいなすと、彼女はそのまま男の腕に乗り全霊を込めた膝蹴りで男の顎を砕く。よろめいた男を自分の後方に流し、そのまま隣にいた別の男に踵落としを決めた。
一瞬にして二人の賊を戦闘不能に追い込んだアイリーンは、倒れた三人目の男の胸倉を掴み拳を振り上げる。その右手には最初の犠牲者の血がついていた。それに気付いた彼女は舌打ちをしながら、掴んだ男の服で血を擦る。完全に落ちないそれに対する怒りも込めて、改めて拳を振り上げた。
「お、おい! それ以上はやめやがれ!!」
「…………フン」
「ぎゃああ!」
「やめろって言ったのが聞こえなかったのか馬鹿野郎!」
三人目も賊の忠告虚しく戦闘不能。一番早く体勢を立て直したのは、アドの髪を掴んだ男だった。彼は少女の首に刃を当てると、怒りに燃えた眼でアイリーンを睨みつけた。
「聞こえるように言ってくれる? 怯えているのが、わかる」
「てめぇ何モンだ!」
「おまえみたいな下衆には、一生縁のない者だ」
一歩、アイリーンは歩を進めた。同時に見えない壁に押し出されたかのように、アドを捕らえた男が後退する。立場は彼女が不利なのに、男は自分が追い詰められているような気がして焦った。
ぴちゃり……男の足が、オーダスカから流れ出た血だまりに踏み込む。
「ち、近付くんじゃねぇ、ガキが死ぬぞ!」
「…………」
「おい、なにボケっとしてんだ! 早くあいつをどうにかしねぇか!」
昏倒した三人は使い物にならないと判断した男は、残りの二人に怒鳴り付けた。二人は動揺しながらもジリジリとアイリーンとの距離を詰める。
「ホラクトの男が、女一人に三人がかり?」
「うるせぇ! 三人殴り倒したヤツの台詞じゃねぇだろうが!!」
「……」
男たちを挑発しながら、彼女はちら、と倒れた勇一を見る。彼はその視線に気付くと同時に悟った。――彼女は自分に、アドを捕らえている男をどうにかしろと言っている、と。
勇一の意識が回復するまで、彼女はどうにか時間を稼いでいる。そしてもう一度彼が立ち上がり、アドを救出するのを期待している。
「気ぃ付けろよ。あいつの腕を切り落としたなにかが、ローブに隠されてるからな」
「お前たちは武器がなければ女すら脅せないのか。憶病な上に、軟弱だな」
「ほざけ。おかしな真似をしたら、ガキの命はねぇ」
「彼女を殺したら、次は何で私を脅すか考えておけ」
「か、かまわねぇ、全部剥げ」
静かに……だが爆発しそうな怒りを込めた言葉は、男たちの行動を阻害した。数歩歩くだけで彼女に到達する距離を賊は何倍も時間をかけて詰める。
彼女が時間を引き延ばしている間に、揺れる勇一の視界は何とか均衡を取り戻した。まだ彼の心は折れていない。自分が状況打開のカギを握っていると思うと、いやでも奮い立つ。後はどうやって助けるか……アドは男に髪を掴まれ爪先だけが地面に触れている、その表情から抵抗する意思も奪われていることが分かった。
下手に男を刺激すればアドとアイリーンの命はない……自分がどうするかに全てがかかっていると言っても過言ではない。だが彼の手にはマナンは無く、単純な力比べは圧倒的にホラクトが上だ。
(ダメージを与えるだけでは、アドの命はない……助けるなら、あいつを殺すしかない。どうすれば……どうすれば…………!!)
それには大きな発破が必要だった。賊どもの視線が勇一に向かえば、その一瞬でアイリーンなら両側の男たちを倒すだろう。だがその間に、男はアドをどうする?
彼女を助け、反撃の機会を与えない……そんな都合の良い選択は『殺人』の他にない。
(俺がこの手で、奴を殺すしかない……一撃で!)
他に選択肢はない。今の状況をなんの罪も負わずに切り抜けようという考えが甘いのだ。既に大切な人たちの一人はあまりにも呆気なく死んでしまった。未だ広がる血の海に男は脚を踏み入れ、オーダスカはその足元に伏している。
勇一は覚悟を決めた……目の前の男を殺す。途端に手足が震え、これから起こるであろうことに恐怖したが、頭の中は皆を助けることに集中し研ぎ澄まされていた。
(怖い……怖いけど! 怖い、けど! やるしかないんだ!!)
まるでその意志に呼応したかのように、勇一の眼の前に奇妙な物が映りこんだ。彼の眼の前に横たわる小動物の死骸。最初に殴られた際に偶然踏みつけ、死んでしまったネズミだ。その腹が裂け、赤黒いひも状の内臓が飛び出している。
しかしそれよりも彼の眼を引いたのは、裂けた腹から明らかにネズミの身体より大きな棒が飛び出ている様子だった。さらにその棒が間違いなく見覚えのあるものだったので、彼は我が目を疑った。
(あれは……マナンの柄…………?)
手の平程の大きさしかないネズミから、ショートソードの柄が飛び出ているというありえない光景に勇一は混乱した。確かあれは自分の手を離れ、どこかに飛んで行ったはずだ、と。
彼はその奇妙な光景をじっくりと理解したかったが、時間がそれを許さなかった。既にアイリーンの服は脱がされ、上半身が露わになっている。傷一つない薄い褐色の肌が霧の様な汗を滲ませて、月の明かりを僅かに反射している。男の陰に隠れて彼女の表情は見えないが、見えない方がいいだろう。
三人の目線はアイリーンに釘付けになり、勇一の事を誰も見ていない。行動するなら今しかないと、彼は思い切ってネズミの腹から現れた柄を握り締め……一息に抜いた。さも当然であるかのように抜かれた柄には刃が繋がっており、短めの黒い刀身は優しく殺気を放っていた。
明らかにネズミに入らない大きさが現れたことに彼は驚いたが、武器を手にした彼はすぐに目の前の男に狙いを定めた。音を立てずに立ち上がると、男の死角から忍び寄る。
(たった五歩の距離が遠く感じる。ゴールは…………『殺人』、か)
一歩。
出来るだけ足音を立てないように、しかし急いで彼は男へ向かう。倒れたオーダスカの顔が目に入った。悪趣味な人形のように眼は虚ろで口はだらしなく開き、血の海に横たわっている。
突然現れた勇一をここまで優しく迎えてくれたのは、自分の息子に瓜二つだったからだった。別人と知りながらも家族同然に振舞った彼は、突然の悲劇で人生の幕を下ろしてしまった。
二歩。
両手で持ったマナンが震えたような気がした。これから行われることに恐怖しているのか、それともようやく本来の使い方をされるのに歓喜した武者震いなのか。
がちがちと震える歯を砕けんばかりに食いしばり、更に歩く。相手を殺すと決めると、彼は不思議と震えが弱くなった気がした。
三歩。
男に掴まれたアドが勇一に気付いた。髪の毛を鷲掴みにされ、かろうじてつま先だけが地面に触れる彼女は黙して痛みに耐えている。滝のように流れる涙と、痛々しく服を染める血。
何倍も大きな相手に殴られる恐怖を心に刻みつけられた彼女は、ただ黙っていることしかできない。抵抗も、泣くことも、呻くことすらできない少女は、勇一を見て何を思ったのか。彼女はただ静かに彼の持った剣を眺めていた。
四歩。
あと少し。刀身の短いマナンでは、ここから攻撃しても致命傷にならない。斬るのではない、柔らかい脇腹から斜め上方向に差し込み心臓を突く。そうでなければ男を即座に絶命させられない。
しかしアドの喉が裂かれてしまっては意味がない。彼女に向けられた刃が、少しでも離れた瞬間を狙わなければ。
あと少し、勇一の心臓は爆発しそうな程高鳴る。
(あと少し……少しで相手を止める、いや………………殺す)
そして切っ先を向け、狙いを定めた。
「……おい! お前何やってやがる!」
アイリーンの側にいた賊の一人が、勇一と目が合った。その表情が驚きから殺意のこもったものへ変わると、標的の男も何事かと後ろを振り向こうとする。
(駄目だ、まだ遠い! これでは……! どうする、飛び込む? もう相手は気付いている!)
ショートソードで切りつけるには、あと一歩が遥か遠くに感じた。間に合わない、男は顔をこちらに向け、手に持った剣をアドに突き刺そうと振りかぶった。――もうだめだ、俺が余計なことをしたせいでみんな死ぬ。絶望が勇一の思考を塗りつぶそうとした時、不意に男が姿勢を崩した。
「な、なんだ!?」
男は振り向こうとした体勢のまま、動けなかった。




