24 襲撃-2
「アイリーン様」
マイファーニ家当主であるライアンの書斎では、アイリーンと深刻な表情をしたライアンが向かい合って座っていた。相変わらず無表情の彼女に、前傾気味に座ったライアンが眉間に皺を深く刻み、息の詰まった表情で切り出した。
「先ほど、使用人の一人が申し出てきました。酒に酔いつぶれた際に、今回輸送する物資の中身を話してしまった……と」
「…………それで?」
丸い腹を押しつぶして、ライアンは更に身を乗り出した。高級な椅子が苦しそうに軋む。
彼女の表情はまだ変わらない。興味がないのか、深く考え事をしているのか彼には読み取れなかった。
「積み荷の確認が終わった彼は、いつもの酒場でいつもの酒を頼んだはずだと。しかし飲んでみると、遥かに強い酒だったそうで……」
「誰かにすり替えられた、と?」
「隣に座っていた妙に姿勢が悪い男が、そうに違いないと話していました。男の事を調べようとしたのですが……何分この広いサウワンです。未だに見つかりません」
「…………」
ほんのわずかにアイリーンが顔をしかめたのが、ライアンにも辛うじてわかった。彼女は今思案している……それを邪魔するのは悪いと、彼は相手の口が開くのを待つことにした。
太陽はほとんど沈み、茜色の空もやがて闇に染まる。アイリーンは窓を一瞥すると、ライアンに命令した。
「……地図を」
「こちらに」
ヴィヴァルニアの地図は書斎の壁面に掛けてある。それにはヴィヴァルニアの道という道が記されており、地形や川の位置なども精密に描かれている。
ライアンはその中で、エンゲラズとサウワンをつなぐ街道「ガニメデス街道」を指さした。
「今夜休むとしたら、このあたりでしょう。水場も近くにありますし、寝るには良い平坦な場所です。ただ……ええと」
「……言って」
「ただ、ここから街道は僅かに北へ向かいます。メイオール付近の山脈の向こうは、国境。つまり、もし、ありえない事ですが、同盟側の者がここを超えた場合、少しでも南に進むと……」
「キャラバンにぶつかる」
「し、しかしわざわざ危険を冒してあそこを越える者など……そうでなくとも、護衛は倍雇っています。いくらなんでも……」
「もし」などありえないと言いたげなライアンを、アイリーンは目で制した。
「でも、情報は漏れた。……その使用人は、どうして今?」
「目が覚めたら、サウワンの外に打ち捨てられていたそうで……それからすぐに私の所へ」
「いい使用人だな。つまり……いい主人」
人はどうしようもない間違いを犯したとき、普通は罰を恐れて報告を怠るものだ。ヴィヴルニアでは罰と言えば鞭打ちならば良い方で、酷いときは指を切り落とされることも無くはない。しかしライアンの元で働く多数の使用人の中に傷を負っている者はいないし、何かあれば直ぐに主人の元へ報告を上げる。それだけで主人が使用人をどう扱っているかがわかる。
アイリーンは音もなく立ち上がると、背もたれに掛かったローブを羽織った。そして窓辺へと向かい、北風が吹きつける窓を開ける。夜になると身体に突き刺さるように冷たくなる風が、室内を一気に冷やした。
「今から向かわれるのですか?」
「もし――は、起こるものだよライアン。嫌な予感がする」
振り返った彼女の視線がライアンを捉える。それはいつかの様な冷たいものではなく、暖かく見守るような眼だった。
「引き続き、皆を大切に」
踵を返し、アイリーンは窓から身を躍らせる。そのまま落下すると思いきや、激しい風のうねりが彼女を包んだ。それは一人の少女を悠々と浮かせ、そのまま突風と共にキャラバンが向かった方へと飛び去って行った。
すっかり姿が見えなくなっても、涙を浮かべたライアンは頭を下げ続けた。
***
皆の無事を伝えて、オーダスカと共に戻ってこられるのは自分しかいない。勇一は自らに使命を課すことで辛うじて正気を保っていた。恐怖と不安、ゆらめく炎、闇、足元を掠めるネズミたち。もし劇団がいなければ、彼はとっくに恐怖に負け逃げ出していたに違いない。
――願わくば、野盗どもの襲撃は単純に略奪目的で、陽動などと言う手段を取っていませんように。自分の予想がかすりもしない大外れで、戦闘があの明かりの元だけで終結しますように。勇一は祈るような気持ちで、歩を進めた。
「ユウ……気を付けてね…………」
背後から今にも消え入りそうな声が聞こえる。それだけでも彼にはありがたかった。
立ち上る炎の元に行くには、それほど時間を用さなかった。馬車にたどり着くまでに誰とも会わなかったと言うことは、少なくともこちら側に賊はいないだろうと勇一は踏んだからだ。相変わらず慎重に影から影へ移動するが、足取りは幾分か軽くなっている。
「オーダスカさん!」
「ユウ! どうしてここに……アドはどうしたんだ!?」
「アドは馬車に、みんな無事です。それよりも……」
人々の避難は終わっている様だが、襲撃の混乱で何も持たずに逃げ出してきた者も多い。オーダスカは他の男たちと協力して、燃え盛る馬車と避難者の間を往復しながら荷物を運び出していた。そんな彼を呼び止め事情を説明すると、ぎょっとした表情で聞き返す。
「陽動か……実は襲撃の最初の方で、護衛たちのまとめ役が運悪く死んでしまったようなんだ。それで今大混乱でね……とにかく、そういう事なら誰かに伝えておこう。ちょっと待っててくれ」
オーダスカは足元に置いた荷物を持ち直すと、火のない方へ向かっていった。勇一はとにかく全員が無事なことを確認できて、大きく息を吐いた。そして目線は燃え盛る馬車の方へ自然と向く。その周囲ではホラクトと見られる野盗が、護衛たちとしのぎを削っていた。
その中にはブラキアと同じくらいの身長をした、細く長い尻尾を持つトカゲの様な種族がいる。尻尾のある種族はほとんどが小刀を両手に持ち、腕を鞭のようにしならせて護衛を襲っていた。
「ユウも見たか。襲撃者は、ホラクトとリザードマンだ」
「あれが……」
オーダスカは避難者と動ける者たちに離脱することを伝え、護衛の一人に陽動の件を話すとすぐに戻ってきた。統率を欠いたとはいえ、戦いなれた護衛たちは持ち場を死守し奮戦している。しかしオーダスカ達の言う陽動の為に割ける人員は無いようで、警戒する、の一言で片づけられてしまった。
「何故リザードマンとホラクトが一緒に……色々疑問はあるが、今は戻ろう。ガージャだけでは、皆を守るには心もとないからな」
その軽口が、極度の緊張と疲労を振り払おうとして出たのだと勇一にもわかった。彼の顔は所々煤で汚れて、だるそうに肩を落としている。戦闘に巻き込まれることを避け、足早に戦場から遠ざかる二人。戦う護衛と逃げる人々を見て、後ろ髪を引かれる思いを振り切る。二人の男は皆の待つ場所に帰ろうと、炎に背を向けて歩き出した。
***
「そうだユウ。君が言った、魔法が使えないという話なんだが……面白い話を見つけられたよ」
「面白い話?」
勇一は正面を、オーダスカは背後を警戒しつつ闇の中を進む。今その話をする必要はないのではと思いながらも、勇一は後ろの声に耳を傾けた。背後からは、遠くなったとはいえ未だに剣戟の音が聞こえる。
「マイファーニ家は多くの蔵書が収められていてね。子どもの頃、剣の修練を怠けてよく入り浸ったんだ」
「……」
「そこで偶然読んだのが魔法の歴史について書かれたものだった。今回マイファーニ家に戻った際に記憶を頼りにそれを探して、見つけた。その本には要約すると、この世界は五属性の精霊魔法と……三属性の女神魔法と呼ばれる魔法によって成り立っている、と書かれてあった」
――女神魔法。その名前を勇一はどこかで聞いた。
「村長に聞いたことがあります。噂程度に広まっている、女神魔法の存在……」
「そうか……実はそれを読んでふと思い出したんだ。大陸戦争の後、治る見込みのない怪我や病気を治す、女神魔法の使い手がいたと。彼女は――どうやら女性だったようなんだが、相手に決して目隠しを取らないように言い、その傷をたちまち治してしまったそうなんだ」
間違いない、それはファーラークの妻タバサの事だ……勇一は身震いした。そしてファーラークは、女神魔法と一緒に代償という言葉を使った。それはどういう意味だったんだろうかと、物陰の間を駆け抜けながら頬の汗を拭った。
「そして女神魔法の使い手は精霊魔法と違って、属性は一つだけを使えたらしい。精霊魔法なら五属性の内二つ以上を操る者も稀にいるが、女神魔法は一つだけ……精霊魔法はもちろん、他二属性の女神魔法も使えないんだと。そして魔法を使うたびに、代償を支払うことになるらしい」
(それが本当ならタバサさんは女神魔法の使い手で、使うたびに代償を支払い早死にしてしまった……?)
代償という言葉を聞いて、勇一は握り締めた手を解いた。左手の小指……爪が消え、その下の肉が露わになっている。まるで伸びることを忘れてしまったかのように、全く生えてくることがない爪……。
じっと指を見つめる彼の肩に、オーダスカが手を掛ける。気付くと、もう劇団の馬車は視界に入っていた。幌の隙間からアドが手を振っているのが見える。
「その爪、ちょっと気になってたんだ。ずっと生えてきていないだろう? ひょっとしたら魔法が使えないのは、君には女神魔法の力があるからじゃないか? その爪は、もしかしたら代償なのかもしれない」
「そんなこと言っても、どんな力なのかもわからないんですよ……」
「代償としてその爪がなくなったのなら、君はどこかで力を使っているはずだ。心当たりはないかい? 例えば……自分に都合よく事が運んだ時、何があった?」
「…………落ち着いたら、思い出してみます。まずは戻らないと、アドも手を振ってます」
振り向いた視線を正面に戻すと、アドが大きく手を振っていた。勇一はそんなに派手に動くと余計に目立ってしまうだろうと言いたかったが、ようやく皆一緒になれたという安堵の気持ちの方が大きかった。だから、アドの表情までは読み取れなかった。
「行きましょう。あとたった十歩です」
「ああ。だが、アドは何をやっているんだ? こっちはもう見えているのに」
構うもんか、俺は早く全身にまとわりつくような緊張感から解放されたいんだ……と、勇一は大きく一歩を踏み出した。積み上げられたこの荷物から劇団の馬車まで、残り十歩……その時、アドが悲鳴を上げた。
「ダメ! 危ない!」
「え……ガフッ!」
荷物の陰から現れた現れた何か。視界の隅に写った何かを捉えようと勇一の目線が動くよりも早く、一瞬意識が飛ぶような衝撃が彼の頭を捉えた。防御態勢も取れずまともに食らってしまった勇一は、一歩、二歩よろめき、小さな肉の塊を踏みつけ転んだ。殴られた拍子にマナンは彼の手を離れ、どこかに飛んで行ってしまった。
(なんだ……爆、発? 耳鳴り…………地面が、揺れ…………立てない………………)
殴打を受けた視界は歪み、耳鳴りだけが世界を覆い、思考する時間を引き延ばした。勇一は起き上がることもできず、今手をついているのが地面なのか天井なのかもわからない。
「ユウ! …………う、ぐ」
オーダスカは倒れた勇一に気を取られ、視界外から近づくもう一人に気付かなかった。気配を感じた時にはすでに、錆びついた長剣が彼の胸に触れていた。
「お父さん……? お父さん!!」
手入れのされていないなまくらでも、人一人の胸を貫くには十分すぎる鋭さがあった。オーダスカの身体は糸が切れた人形のように崩れ落ち、それきり動かなくなってしまった。
自覚は目前に迫っている。




