5 予定外の獲物-2
遭遇時は気づかなかったが、よく見るとイノシシは身体のあちこちから出血しているようだ。
「こっちもだいぶ痛めつけられたけど、向こうも血を流し過ぎてる。このまま倒れてくれればいいんだけど…」
イノシシは首を再び狂ったように振る、長い体毛でこちらからはイノシシの眼は見えないはずなのに
殺気の宿った視線がささる。
「まだ、終わってないか」
グイ、とサラマは勇一の身体を自らの陰に隠した。
目の前に、きめ細やかな紅鱗の肌がある。
別に鱗が好きというわけではないのだが、一枚一枚陶器のようなそれは単純に美しい。だが、いつまでも見つめているわけにはいかないようだ。
牙を折られた獣は怒り狂っている。もはや失血死を待つだけのはずが、どこからこんな力が出るのだろう。
再びこの獣は頭をこちらに向けた、片方の牙は折れたことで鋭く尖っている。
何かできることはないか…、勇一は周囲を見渡す。だが、こんな状況で自分にできることなんて…。と、あるものが目に入った。
「…!サラマ、あれ」
彼が指さした先には、捨てるのは忍びないと持っていた古い網。
「俺がやる、サラマはとどめを…」
彼女は察したのか
「危ないって、客人にそんなこと…」
「頼むよ、任せてくれ」
言い合いをしている暇はない。
イノシシは今にもこちらに向かってくるだろう。
サラマもそう感じたのか、決断は早かった。
「じゃあ…、お願いね。無理はしないでね!」
「おう、任された!」
勇一とイノシシが走り出したのは同時だった。
頭から飛び込んで網を掴み、間髪入れずにイノシシに向かって放り投げる。
広げた網はイノシシの頭や牙に架かり、更に前足を巻き込んだ。
網によって前足は牙ごと頭を引き込みつんのめり、そのまま前転し仰向けに倒れた。
「サラマ!」
叫ぶ前に既に彼女は行動していた。
強靭な脚力は彼女の巨躯を軽々と空中に運び、無様に晒されたイノシシの腹に向けてガルクの剣を突き立てる!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー……!
巨体の獣は、凄まじい断末魔とともに絶命した。
「…やったか?」
自然と口から言葉が出た。
身体はうつ伏せに、頭だけを起こして問いかける。
「…ふぅ」
サラマが纏っていた空気が消えた。それは戦いの終わりを意味していた。
突き立てた剣をそのままに、彼女は獣から飛び降りた。
すたすたと勇一の前に来る、相変わらず呼吸一つ乱れていない。
「ユウ」
「…はい?」
「……やったぁーー!」
目にもとまらぬ速さで振られた腕を避けられるはずもなく、勇一は彼女の腕に抱かれた。
その力は巨大な万力で絞められているようで、更にその身体に相応しい大きさの乳房が彼の顔面を圧迫した。
ひんやりした体温は、緊張から熱くなっていた彼の身体には気持ちよかった。
「んん!んぐぐぐぐ!!」
足が浮き、呼吸もままならず、圧倒的な力の差で振りほどくことも叶わない。正になす術もない。
しかし彼女は感極まり勇一の状態に気付かない。
段々と背骨が軋みはじめた。
顔面を塞いでいる乳房の間に何とか隙間を見つけようとしたが、柔らかいそれは吸い付くように鼻と口を塞ぐ。
「おおおいいぃぃぃい!!」
聞き覚えのある怒号、サラマがその方向を見ると表情が綻んだ。
今まで姿を現さなかったガルクが木々の中から出てきたのだ。
同時に腕を離したので、彼は重力に従って落下するしかない。
ドザッと間抜けな音とともに尻もちをついた。
「なぁにやってんだおまぇぇぇぇ!!」
「ガルク!」
サラマはガルクを認めるとすぐに駆け寄り、今度は彼に抱き着く。
おそらく今度こそ勇一をぶん殴ろうとしていたようだが、突然の出来事に目を白黒させた。
「やったよ!ついにやっつけた!」
「お、おう…そうだな。……遅れてごめんな」
ガルクの怒りは急激に萎びてしまったようで、それ以上勇一に突っかかることはしなかった。
勇一は改めて仕留めた獣を見やる。
我ながら、よく無傷でいられたものだ。今命があるのも、幸運と何よりサラマのおかげだ。
…と、一つの疑問が思い浮かんだ。
今なら二人の間に入っても大丈夫だろう。
「あの…、二人とも」
「…なんだよ」
「どうしたの?」
「これ、どうするんだ?」
これ、とはまさに今仕留めたばかりの「これ」である。
ただ殺しただけ、というのは何だか…忍びない。
「このまま放っておくのか?」
「「…」」
***
「クソッ…、なんで俺が、こんなぁ!!」
「ほら頑張って!いきなり正面から突進されて伸びてたのは誰だっけ?」
「なぁ、やっぱり俺も…」
「大丈夫大丈夫!ユウはガルクの剣を持っててあげて!」
「ぬおおおおぉぉぉーーーー!」
獣の腹を下から担いだガルクが叫ぶ。サラマは頭の部分を持っているが、どう考えても重さはほとんどガルクが持っている。
獣から抜いたガルクの剣は、サラマに頼まれた勇一が持っている。
すっかり暗くなってしまったが、帰り道は彼らに任せて大丈夫だろう。
勇一は肩にずしりとくる剣の重さを感じながら、顔に当てられた柔らかさを思い出していた。
読んでいただきありがとうございます
感想、ブクマ、評価頂けると本当に励みになります