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9 ケルン

 ゴブリンどもが出現したと町中に知れ渡ると、人々に緊張が走った。

 彼らに伝わったのは「ゴブリン出現」の報だけで、その数も、どこから来たのかも定かではない。そんな不安に包まれた皆に、今度はたった一人で奴らに立ち向かっていった者がいるという噂が流れた時、人々の反応は二分された。


 一つは、英雄願望のある愚か者だろうと。


 もう一つは、なんて勇気のある者だろうか、と。


 住人のほとんどは特定の避難場所に集まり、災難が過ぎ去るまで祈ることしかできない。

 衛兵たちは情報が入った門に集まり、盛大にたかれた篝火を背にやがて来るかもしれない襲撃に備える。やがて何かを捉えた一人が叫んだ。


「あれは……。皆待て、あれは人だ!」


「なんだ、ゴブリンじゃないのか?」


「本当に人か? 俺は雪崩の様にゴブリンが来るって聞いたぞ」


「そういやあ、やつらを迎え撃ちにいった馬鹿がいるらしいじゃないか」


「とにかく! 保護、保護だ!」


 ゴブリンの群れを迎撃しにいった大馬鹿者というのは、一体どんな顔をしているのだろう……衛兵たちは興味津々だった。しかし保護された二人を見て一同は驚愕する。

 一人は中年の男性、もう一人は全身から悪臭を放つ青年だったのだ。どう考えても腕のたつ人物には見えない二人に、今度は困惑の表情を連ねる。

 男性の説明と少年の手についた奴らの血液が、もうゴブリンどもはいなくなったことを証明していた。

 とにかく、自分たちの仕事は終わったのだ。中年男性の説明を聴き、服と手を悪臭のする血で染めた少年を見て皆そう思った。いくら待っても襲撃がないというのもその決断を後押しした。

 警戒は解除され町の住人たちは避難所を出る。襲撃がないと知るや、次に彼らはこう思った。


 一体誰が、迫りくるゴブリンを皆殺しにしたのだろうか。


 広がる噂は矢よりも速い。この小さなルドの町で、勇一はあっという間に注目の的となった。



 ***



「アンタは! 本当に! 何を! 考えてるのよ!!」


 勇一が馬車に戻って最初に受けたのは、鳩尾への強烈な一撃だった。

 馬車から飛び出し、憤怒の表情でドカドカと近づいてくるアドリアーナにたじろいで、彼女の鉄拳をまともに受けてしまった。


「ほんっと! 信じらんない! いきなり飛び降りるとか!!」


「おっ……ごふっ…………ご、ごめん」


 ありったけの声量で、道行く人々の視線など気にする風もなく、彼女の口は火を噴いた。

 尚も怒鳴る彼女に向かって、膝をつき悶える勇一はえづきながら口を開く。


「そんなに……心配してくれていたのか?」


「…………はぁ?」


 つい先程まで熱を持っていた彼女の声が急に氷点下まで下がったので、思わず彼はぎょっとした。


「せっかく助けて食事まであげたのに、簡単に命を捨てるような事しないでよってこと!

 アンタのは勇気じゃなくて、無謀って言うのよまったく……」


 その言葉をそのまま受け取るなら、単なる損得から出たのだと思うだろう。しかしその顔を見上げた勇一は、彼女の目に涙がたまっているのに気がついた。

 荒く呼吸する肩はわずかに震え、手は強く握りしめられている。

 それでようやく彼は、自分が彼女たちにひどいことをしてしまったのだと気づいた。


「ごめん、ごめんよアドリアーナ…………もうしない。約束する」


「……ん、わかればいいのよ。…………ああそれと」


 彼女は短くため息をついた。腰に手を当て、跪いた勇一を見下ろす。松明の明かりがゆらゆらと照らすその眼から、すでに怒りは消えていた。


「『アド』でいいわよ。呼びにくいでしょ、私の名前」


 彼女の口から意外な言葉が飛び出した。劇団の皆が「アド」と呼ぶのは、親しみを込めていたからだ。部外者である彼はそれをわかって、わざとそう呼ばなかった。


「え? でもアドリア……」


「アド!」


「…………アド」


「よろしい!……フフッ」


 アドはまるで新しい友達ができたかのように笑う。近い歳の者ならばターンとラトーがいるのだが、それとは別に彼女は勇一に何となく家族としての何かを感じていた。


「まあ、アンタ……ユウは無茶苦茶やったけど、私たちを助けたのは事実だものね。それにはお、お礼を言わなきゃね…………ありがとう」


「どういたしまして、アド」


 若干照れの入った表情で礼をする彼女の表情は朗らかなものだった。それを見た彼もつられて口元を緩めてしまう。


「よし、この話はこれでおしまい。ユウ、お母さんに会ってあげて」


「ラシアタさんに? どうして」


 急にラシアタの話題を出された彼は反応に困った。確かに見渡してみると、馬車の前には彼女の姿だけが見えない。

 アドは今度こそ心配そうな表情をして答えた。


「ユウが飛び出してからずっと泣きっぱなしなのよ。話しかけても答えてくれないし……あんなお母さん初めて見た」


 見れば丁度オーガスタが馬車に入るところだった。アドに促されるまま、勇一も彼の後を追った。


「ほらラシアタ、誰もいなくなっていないよ。もう大丈夫だ」


 膝を抱え顔を伏せたラシアタを正面から抱いて、オーガスタはゆっくりと話しかけている。抱かれた彼女はゆっくりと頭をあげると、ランプの明かりに半分だけ照らされた夫に目を向けた。


「あぁ、あなた……。ごめんなさい、夢を見ていたの」


 ぼんやりと夫の顔を見ながら泣きはらした彼女は続けた。


「あの子が、飛び降りて消えてしまう夢……」


「ユウは生きている、無事に帰ってきたんだ。

 ……もう大丈夫だ」


 オーダスカは妻の額に口づけすると、先程よりも強く抱き締める。彼女の方も徐々に落ち着いたのか、体勢を崩して夫に寄りかかった。


「そう、そうなの……よかっ、た」


「大丈夫ですか、ラシアタさん……?」


 ああ!と彼女は手を伸ばしたが、その眼はどこかうつろで、しかし心底ほっとしたという感情がこもっていた。

 しかし次に呼ばれた名前に、彼は首を傾げることになる。


「ケルン!」


 ケルン。初めて聞く名に、勇一は一瞬自分たち以外にこの馬車に誰かが乗っているのかと思った。しかしその名を呼んだ眼はまっすぐに自分を見ているので、彼は訳が分からなくなった。


「ラシアタ、ユウだ。いいかい、誰もいなくなっていない。誰も死んではいないんだよ」


 妻を抱き締めたまま、静かにささやくオーダスカ。しかしそれは、自分にも言い聞かせているようだ。

 馬車内という小さな空間は混沌とした空気が詰まっている。勇一の眼の前にいる二人は、姿は見えるのにまるで違う次元にいるようだった。


「ああ、ユウ。ユウよね……ごめんなさい、ちょっと、疲れてしまったみたい…………」


「お父さん、ユウ。お母さんは大丈夫?」


 馬車に乗り込んできたアドは最初に母親の様子をうかがう。顔をあげた母親の隣に座ると、伸ばされた手を引き寄せて自らの頬に当てた。


「アド、ごめんなさい……私ったら」


「ううん。大丈夫そうでよかった」


 年相応の表情で微笑む少女を妻と一緒に抱くオーダスカ。親子三人はお互いが実在するのを確認するように抱き合った。

 それを見ていた勇一は大丈夫そうなラシアタにホッとした反面、少しばかり嫉妬の感情を覚えた。もしあの亀裂が開かれなかったら、自分もいつか彼女とこんな風になれたんだろうかと。


(サラマ……)


 今は亡きその名前を思い出す。過ぎたことだと割りきるのは簡単ではなく、愛する者の死は彼の心に重くのし掛かり、確実に侵食し始めていた。



 ***



 静かに親子が抱き合う姿を眺めていると、不意に後方から声がした。


「あのぉ、オーダスカさぁん」


 黒猫の顔をした男が頭だけを出して団長を呼び出す、ガージャだ。夜も更けているというのに、勇一の耳には人々の声が入ってきた。それも大勢。


「どうしたんだ、ガージャ?」


「それがですねぇ……町の人たちが、一番偉いやつを出せって」


「一番偉い」となれば、このメフィニ劇団では団長のことだろう。オーダスカは名残惜しそうに二人から離れると、怪訝な表情でガージャへ近づいた。


「一体全体、どういうわけで……」


 馬車を出たオーダスカは、外で待っていた人々の数に面食らった。松明をもった複数の人、集まった者たちは更に多い。

 その中で先頭にいた一人が前に出た。深く被ったローブを脱いで、隠されていた皺だらけの顔を晒した。


「あんたが、彼らのまとめ役か?」


「え、ええ。オーダスカ・メフィニです」


「ちょっと、話がある」


 二人は松明の灯りのもと、やり取りを始めた。

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