8 勇気と無謀-2
一段落。時間にして十秒程度の蹂躙だったが、彼女にとっては何のことはない作業のようなものだった。
外套についた土埃をはたき落とし、若干乱れた銀髪を結ぶ。そしてコボルトの方はどうなったかと勇一の方を見た。
「……なにやってるの?」
「ア、アイリーン。ちょっとこれ、どかしてほしいんだ……」
仰向けに倒れた勇一の顔面にコボルトが覆い被さるようにして息絶えている。彼のマナンは敵の心臓を貫いていたようだが、貫通した剣先には不思議と血脂はついていなかった。
アイリーンがコボルトの死体を蹴り退かすと、その下には両手でマナンを突き立てる体勢のまま固まった勇一がいた。亀裂から現れた者の悪臭を間近で嗅いでしまった彼は、食道を逆流しかけた嘔吐物を抑えるため必死に歯を食いしばっている。
「あ、ありがとう。……おえっ」
「…………」
彼が出した手をアイリーンは取らなかった。それどころか、眉間にしわを寄せ鼻をつまみながら一歩ずつ後退する。
「……アイリーン?」
「今度は、自分で立って。そんな汚い手を女の子に向けないでよ」
「汚い? だってさっきは……」
吐き気を抑えながら上体を起こした勇一は自らの手に視線を落とし、なるほどと納得した。その両手は貫いたコボルトの淀んだ血液がマナンを伝って流れ落ち、鼻が曲がる程の悪臭を放っている。
「うぐ……確かにこれは…………げほっ」
すっかり静寂を取り戻した大地には、無残に散らばった者たちの破片が散乱していた。勇一が手を下した者は所々欠け、アイリーンが相手をした者は一滴の出血もなく事切れている。
とにかく終わったのだという脱力感に身を任せると、ようやく立ち上がった勇一の足は途端によろめく。緊張から解放され大きく深呼吸すると、あらゆる感覚が日常に戻って行くのを感じた。
両手を二、三度払うと、幾分か悪臭がましになったように気がする。それでも何かが腐敗したような刺激臭が彼の鼻をついた。
「少しはマシになったかな? ……ありがとうアイリーン。助けてくれて」
「四匹」
「え?」
「私は、四匹倒した。……キミは、三匹だよね」
鼻から手を離した彼女は胸を張った。仕留めた数を誇らしげに自慢する態度に、彼は肩の力が抜けてしまう。
勇一が記憶している所では、確かアイリーンが彼にコボルトを任せ、自分は四匹が固まる場所に突っ込んでいったはずだが……。
「いや、だってそれはアイリーンが……」
「それでも、勝ちは勝ち」
「勝負してるつもりだったの!?」
「駆除した数を競うのは、基本中の基本」
「どこの基本だよ……」
「ん……その入れ墨、紅くなるんだ? …………かっこいいね」
「ん? え? いきなり何?」
勇一の頬で紅く染まるドラゴンを見て、彼女は素直な感想を不意に述べた。その口元は僅かばかり弛んでいる。体温が高まると紅く色が変わる入れ墨がどうも琴線に触れたようで、そこを彼女はまじまじと見つめた。
急に話題を変えられて困惑する勇一を気にする風もなく、まるで彼女は自分が基本に物事が進んでいると言わんばかりに話を続ける。
「マイペースだなアイリーンは……」
「それは趣味? それとも、所属を表すもの? ……まさか罪人とか?」
「ええ? や、これは成人の印というか……」
「成人……ふぅん、なるほど」
話題をふらふら変えるのは彼女の性格だろうか。
今度は勇一を中心に、数歩の距離で彼を値踏みするように見ながら回り始める。無表情で。
結構な時間彼女に黙ったまま見られ、いい加減気恥ずかしさに耐えられなくなった彼が口を開こうとしたとき、先に向こうが切り出した。
「今日の夕食は、なんだろうね。肉が、いいなぁ」
「…………」
勇一は思った。彼女はやはり自分本位なのだろう、と。同時に彼女の第一印象である「親しみやすい人物」という評価は僅か一日で覆ってしまった。
「皆に心配かけてるし、早めに帰ろう。アドなんか泣いていたよ」
「……アドリアーナが? まさか!」
「ホント。遠くのキミを、そんな顔で見てた」
それを聞いた彼は、胸に「罪悪感」と書かれた石がのしかかってきたような気がした。馬車を下りた時、何も事情を離さず突然飛び降りてしまったことを思い出す。「必ず戻る」の一言でも言っておけばよかったのかなと思った。
思えば――と勇一は更に考える。飛び降りた時も、下手をすればそこで重傷を負っていたかもしれないし、アイリーンが来なければあのまま食い殺されていただろう。今生きているのは、偶然が何度も彼を救ったからに過ぎない。
自分の実力だけで今ここにいるわけではない事実に、背筋が冷えるのと同時に悔しさが込みあがった。
「アイリーン、俺……戻ったら|《あの娘》アドリアーナに謝るよ」
「ん、それがいいよ。平手の一発くらいは覚悟しよう」
町に向かって歩き始めた勇一に、彼女は背後から答える。言葉に少々のやさしさが含まれているのを彼は感じた。
「それと……一日しか経ってないし、誰も自分の事を心配してないって思ってない?」
「え?」
振り返った彼の眼に、町の方を指さす彼女が飛び込んだ。その方向を見るように促す彼女に従い再び町の方を見やると、完全に闇に覆われた大地の先にゆらゆらと光る球が見えた。彼がそれを凝視するとそれは何かに乗っているようで、更に段々と近づいてくるのがわかった。
「……ユウーー!!」
「オーダスカさん!?」
疲弊した馬にまたがり松明片手に現れたのは、オーダスカだった。もしかしたらすでに食い殺されているかもしれない……まだゴブリンどもがいるかもしれないこの場所に、彼はたった一人でやってきたのだ。
「キミを心配する人はいる。だからあまり、軽率なことはやめて」
「そう……だね…………」
自分の身を案じて危険な場所に来てくれる人がいる。それは、孤独を味わった彼にとって胸を打つには十分すぎる事実だった。
「アイリーン……帰ろう」
彼は振り向くことなく背後の人物に声を掛けた。……しかし応答はなかった。
かわりに強烈な突風が彼の背中を叩いた。思わず前のめりに転びそうになるところを堪え後ろを振り向くと、そこには誰もいなかった。
「……アイリーン?」
まるで最初から勇一しかいなかったかのように、周囲は静寂に包まれていた。
戦いが終わった場所に漂う微かな残り香を感じる彼の頭に、段々と大きくなるオーダスカの声と蹄の音が響く。何故彼女が消えてしまったのか考える前に、腹が鳴った。
「……」
食事の話をしたアイリーンの気持ちが、少しわかったような気がした。