1 少女の初恋
心を強く持ちなさい。
そうしなければ、奴らの餌食になってしまうから。
貴方が希望を持っているから、奴らが貴方の元に行くのを抑えられる。
竜人たちの村から離れた貴方は、歩き続けたこの数日間ずっと悪夢を見ていましたね。
悪夢で目覚め、夜通し歩き、昼に微睡み、また悪夢を見る……。
孤独な環境は貴方の心を荒ませ、あの男への復讐心も育て、完全に殻に閉じ籠る寸前でした。
……あの時、貴方は死を選ばなかった。
死ねば楽になるのに、死ななかったのは恐怖から? それとも復讐心から? ……あら
――……カエセ……カエセ!
それにしても……これは偶然かしら。それともこういう場合に引き寄せられている……?
…………なぁに?
……私?私の名前を聞いてどうするの。どうせ、起きたら何も覚えていないのに。
――カエセ!カエシテヨ!
――……ボクノ!
――……オレノ!
――……ワタシノ!
……。
…………。
………………そうね。そういうことも、あるかもしれないわね。
………………私に名前は無い。でも
………………『星の女神』と……人は、呼ぶわ。
***
勇一が目を覚ますと、高い天井があった。
一度目を閉じ深呼吸してから、もう一度ゆっくり瞼を開く。天井は布製の屋根で、地面ではなく板の上に寝かされていることに気付いた。
右手を額に当てる。自分は何故ここにいるのだろうかと直前の最後の記憶を掘り返す。寝起きの頭は中々通常運転に移行せず、のろのろと回転を続けている。
――悪夢……そう、悪夢を見た。……気がする。
相変わらず悪夢を見た記憶はあるのに、その内容が記憶から抜け落ちている。
しかし直後に勇一は違和感を覚えた。いつもは疲労感と寝汗でひどい不快感とともに目覚めるのに、今回はそれがない。それどころか妙にすっきりとして、快適でさえある。
違和感の正体を考えていると、不意にかちゃかちゃと陶器の触れ合う音が彼の耳に入った。
のっそりと音の方向に顔を向けるが、そこには木箱と敷物を巻いた束だけ。その中の目に映りこんだ収納箱の大きさが気になった。こんなに大きいものに、一体どれだけ入れるつもりだろうとぼんやりとした頭で思考する。それに立てかけてある幾何学の模様が彫られている鞘に見覚えがある……ショートソード。とりあえず、大切なものの一つが手の届く場所にあることに彼は安堵した。
同時に、どこからか人の気配を感じ呼吸を僅かに止める。
できるだけ静かに上体を起こすと、また物が軽く触れ合う音。どうやら音は、この狭い空間の外から聞こえているようだと勇一は考えた。それは確かに、布一枚挟んだすぐ外に誰かがいることを示している。
「あーもう、仕事がないからってなんで私が……」
高く涼しい声がして、ぎしり、と床が軋んだ。間もなくして重なり合った布が払われ、木箱が入ってきた。戸惑う勇一をよそに、木箱はずんずんと彼の寝ていた範囲を圧迫して行く。再び床が軋み、次に入ってきたのは……褐色の肌と僅かに波打った黒髪をした少女だった。
「もしもーし、起きてますかー? 昨日もその前もそのまた前の日もずっと寝てますけど、いい加減起きないと川に流、し……」
「お、おはよう」
重そうな木箱を挟んで立つ少女の時間は、停止したように見えた。つり目がちの大きな目が更に大きく開かれると、深淵の様に黒い瞳が勇一を捉え、瞬きを二、三度。そのまま少女は後退する。
姿が見えなくなると、ゴトッと荷物を置く音がした。
「お父さんお母さん! ……起きた! 起きたー!!」
余程急いだのだろう、見た目相応に甲高く張りのある声は一瞬で遠ざかってしまった。
褐色の少女が出て行ってすぐにドタドタと複数の足音が近づいてくる。騒々しく、勢いよく飛び込んできたのは、これまた褐色の肌をした髭面の男だった。男が何か言おうと口を開けると、彼を押し出してまた一人。今度は濃い金髪で、ホラクト特有の長身と灰色の肌をした女性が。そして彼女の服を掴んで先ほどの少女と、三人がなだれ込むように勇一の前に現れた。
少女以外の二人の目尻には皺が刻まれ、相応の年齢を積んでいることがわかる。
「ああ! よかった……本当に! グスッ」
開口一番、灰色の女性が男を押しのけ一番前に躍り出た。そして勇一の手を取り震える声で言葉を絞り出しす。握られた手は、白く細い指からは想像できない握力で圧縮された。
凄まじい握力で握られた手はミシミシと悲鳴をあげ、勇一は思わず叫ぶ。
しかし女性は感極まってか俯いて泣いてしまい、痛がる彼の声が聞こえないようだ。
「いだだだだだだ!!」
「ラ、ラシアタ。彼が痛がっているだろう……ちょ、ちょっと落ち着きなさい!」
男はラシアタと呼ばれた女性の肩に優しく手を置くと、ゆっくりと勇一から離す。彼の手を握っていた彼女はその手を解放し、今度は髭の男に抱き着いた。
彼女の握力からすると、その細腕からでる腕力も相当なものかもしれない。しかし抱き着かれた褐色の男は顔色一つ変えず、愛おしそうに抱いた彼女の頭を優しくなでている。褐色の少女はそんな二人に呆れた目線を送っていた。
勇一は困惑した。目が覚めたと思ったら知らない場所におり、女性に泣かれ、手を握り潰されそうになった。自分が覚えている最後の記憶と照らし合わせると、今の状況はあまりに暖かい。
三人に話を聞こうと口を開きかけ、すんでの所で思いとどまる。何故だかわからないが、彼らを前に「懐かしい」という感情の"しずく"が勇一の心に滴ったからだ。そして彼は、二人が落ち着くまで待っていようと思った。
***
「ラシアタ、落ち着いたかい?」
「……ええ、ごめんなさいね」
うつむいて頷いたラシアタを抱きながら、男は切り出した。
「ああ。……さて、私はオーダスカ。オーダスカ・メフィニだ。彼女は妻のラシアタ。そして……」
「アドリアーナよ」
オーダスカを遮り名乗ったアドリアーナは、凛とした声と大きな目で勇一を見つめている。いや、睨んでいるつもりなのだろう。しかし幼い顔立ちと可愛らしい声で迫力は皆無だ。
オーダスカは一瞬苦笑いし、今度は勇一に人懐こい笑みを向け手を差し出す。勇一は一瞬戸惑ったがそれが握手の動作だと理解すると、ぎこちなく応じた。
「上……ええと」
「?」
本名を名乗ろうとして、勇一は言葉が喉に突っかかった。旅先で目立つのは良くないと言われた記憶が頭の中に浮かび上がったのだ。警戒すべき相手には見えないが、彼は一度咳払いして言葉を続けた。
「ユウ……ユウ・フォーナー、です」
「ユウ、か! なるほど、いい名前だねぇ」
男は腕を組み「ユウねぇ……」と一人うんうん頷いている。
頷きながら一瞬男が戸惑いの表情をしたのを勇一は見逃さなかった。本人は隠しているつもりなのだろうが、語尾や口の端にそういった雰囲気が見え隠れしている。自分の身体に何か原因があるのだろうかと目線を落とすと、左手の中の金細工が目に入った。
「あ、あれ……?」
目覚めてから勇一は、初めて自分の身体を見渡した。今までボロボロになった布を重ね着していたものは、ゆったりとした生地の服装に変わっていた。布の質からしてこちらの方が上等で、まるで彼の為に用意されていたかのように身体に馴染む。かわっているのは服装だけで、細工は手の中にあるし、剣は手の届くところにある。
「服がびしょ濡れだったから、着替えさせてもらったよ。それとそれ、大事な物なんだね。眠っている間ずっと離さなかった」
「はい……」
「……」
愛おしそうに細工を撫でる勇一を見て、オーダスカは何か考え込んだ。彼の手は顎髭を撫でている。
四人のいる空間に、僅かに静かな時間が流れた。
何かを言おうとしたオーダスカはしかめ面をして言葉を詰まらせた。開いた口を閉じ俯いて二、三度首を振り、今度は儚げな微笑みを携えて顔を上げる。
「立てるかい?もうすぐ食事ができる時間だ」
胡坐をかいていたオーダスカは膝を叩くと、すっくと立ちあがった。ラシアタとアドリアーナも同じようにして、「あなたも一緒に」と雰囲気で訴える。
手の中の金細工を腕に巻きなおすと、勇一も膝を立てた。足裏から伝わる木の弾力……異世界に来てから久しい感触に、思わずぐりぐりと硬さを確かめた。
「お父さん、この人本当に大丈夫?」
勇一の奇行をみてアドリアーナは父を見上げ、不安そうな声を隠そうともしない。そんな彼女をラシアタはたしなめる。
「コラ、そんなこと言ってはダメよ」
「さ、さあほら。皆も集まっているだろうから、早く行こう」
三人が入ってきたところか出ると、湿気が肌を撫でた。妙に目線が高いことに気付き、彼はそこではじめて自分がいたのが幌馬車の中だったと理解した。街道と思われる草のない道から少し外れた場所に、焚き火とそれにかけられた鍋がある。
三人の他にも数人が外で作業をしているのが見え、彼らは一目見て全員が同じ種族ではないことがわかる。
「ああ! オーダスカさぁん! もうすぐメシが出来るところですよォ!」
猫の顔をした人物が鍋をかき回しながらオーダスカに向かって叫ぶと、それを聞いていた他の者たちが作業を中断し、わらわらと鍋の元に集まってきた。
オーダスカは手をあげて答えると勇一に向き直り、満面の笑みを見せた。
「彼らは私の劇団の団員さ。後で紹介しよう」
「劇団?」
「そう。私たちは大陸の西側を巡業しているんだ」
オーダスカは屈託のない表情で続ける。その肩にラシアタが片手を置き、反対の手でアドリアーナを抱き寄せた。
「ようこそ、『メフィニ劇団』へ!」




