25 脱出-3
「ドウル……さん?」
倒壊し、崩れかけた壁が屋根を支えている。空から落ちる無数の水滴は、そんな家も容赦なく叩き壊そうと躍起になっていた。
ジズに言われた通り勇一は「自分が落ちた川」に向かう途中、不思議とゴブリンどもには遭遇しなかった。どこかに行ってしまったんだろうかと一瞬考えたが、だからと言って探しに行こうとは間違っても思わなかった。
しかしいつ遭遇するかもわからないので、常に姿勢を低くする。目の前のかろうじて全壊を免れた家屋の中を通ろうと身を屈めた時、雨音の中にわずかにうめき声が耳に入った。
「ド、ドウルさん……うっ!」
目の前で腹部のほとんどを失い壁にもたれかかるドウル。屋根を通してピタピタと頭に落ちる水滴など気にもとめず、吐き気を抑えながら勇一は駆け寄った。
眼を凝らすとほんのわずかに肩が動いている。死を待つだけとなったドウルは、ゲホゲホと赤い泡を吹きだし頭を勇一の方へ向けた。その顔を見て彼は初めて、そこにあるはずの彼の目が無くなっていることに気が付く。思わず息を飲んだ勇一を、眼のかわりに赤黒くぽっかり空いた二つの穴がじっと見つめている。
彼の手を取りせめて声を掛けてやりたい。しかしそんな時間も残されていないかもしれないという思いに頭がいっぱいの勇一は、傍で立ち尽くすしかなかった。
「ああ……あんちゃん……、かぁ」
ドウルは一言だけ呟くと、ゆっくりと上下していた肩が動きを止めた。最期の一息を吐き、そして事切れた。
あまりにも呆気ない別れ……何故こんなことになったんだろうか。あと数日で勇一たちは皆に見送られ、まだ見ぬ世界へと足を踏み出すはずだったのに。自分の力の正体を見つけるという、本にでもなりそうな冒険が始まるはずだったのに。思い描いていた未来が表なら、これは裏だろうか。
ドウルの遺体を前に勇一はがっくりとうなだれた。泣いている時間などない。だが目の前で失われた命を前にして、簡単に切り替えられるほど彼の心は擦れていないのだ。
「なぜここにブラキアがいる」
ドウルに冥福を祈ろうとしたとき、背後から低い男の声がした。いつの間にか背後に立っていた大柄な人物が、振り向いた勇一の眼に飛び込む。
気配もさせず、まるで最初からそこにいたかのように彼はいた。
「『扉』の様子を見に来てみれば……。まぁ、いい」
幾分か亀裂に近いこの場所は、そこから出る光によってわずかに視界が通る。
突然の来訪者に混乱する勇一を無視し、瓦礫の隙間から亀裂を観察するその人物を光が部分的に照らした。
大きなローブは肩幅の広い全身を覆い、深くかぶったフードの奥に見えた仮面で顔は全く分からない。しかしその仮面で覆いきれないほどにボサボサに伸びた髭が、何となくその人相を想像させた。
「まだだ、まだ足りん……。せっかく開いたものがこの程度とは……」
「『扉』?『開く』……?何を言って……」
「ふん、知ってどうする。……いや、まて」
謎の人物は問いかけにこたえると、一呼吸おいて勇一の方を見た。仮面の穴から見える金色の瞳がじっと勇一の顔を見ている。次の瞬間、男は勇一の首を皺だらけの節くれだった手で鷲掴みにした。わずかにさす光が、その手についた無数の傷跡をはっきり映す。
男はギリギリと凄まじい力で締め上げ勇一を押し倒した。勇一は仰け反るような体制で必死に抵抗するが、男はまるで彫刻のように微動だにしない。
「貴様、私の言葉がわかるだと……!」
勇一はハッとした。相手が異なる言語で話していても、彼にはすべて日本語に聞こえるのだ。無暗に声を掛けず、様子を見るべきだったのだ。
仮面越しでも聞こえる荒い呼吸。目の前の男は明らかに動転している。締め付ける力が更に強くなり、勇一の意識は段々とぼやける。
もがく手足が痺れ、男の手から勇一の手が剥がれ落ちた。
だが肌で感じるほどの殺意を目の前にして、勇一は諦める所か抵抗の意思を燃え上がらせた。
(この亀裂は、まさかこいつが!?クソッ、こんなところで……!!)
地を這う手の指先に何かが当たる……「マナン」だ。ふれた瞬間、勇一は「立て」と剣に言われたような気がした。最後の力を振り絞りつかんだそれに、もう片方の手を向かわせると導かれるように柄へたどり着く。
男もそれに気づき抜かせまいと剣を取り上げようとした、その時
「ガアアアァァァーー!」
壁を突き破って現れる一匹のゴブリンが、勇一を押さえつける男の背に飛び乗った!
男は突然のことに思わず勇一から手を離した。両手を背に回しどうにかゴブリンを引きはがそうと身悶えている。
勇一は咳き込みながらも深呼吸し、思考が霞を振り払うのを待った。幸いにもそれは数度の呼吸で終わり、立ち上がった彼は改めて「マナン」を鞘からスラリと抜く。
彼が最初に感じたのは「軽い」だった。それほど長い訳ではないが、この軽さはまるで羽を持っている様に感じた。これなら勇一でも重さを気にすることなく振るうことができる。
目の前の男が誰かわからないが、今自分は彼に殺されかけた。人に刃を向けるなどこれまでの人生で一度も無い。しかし勇一は、今ここでこの男をどうにかしなければならない気がした。
(とにかく、こいつを押さえて話を聞く!)
頭に血が上った状態にあって、なお勇一は「殺人」をするという行為にためらいがあった。だからだろう、「殺す」よりも遥かに困難な「取り押さえる」ことを選んでしまったのは。
勇一は鞘を腰巻に差し、両手でマナンを振り上げ男に斬りかかった。
「わあああぁーーっ!!」
勇一が斬りかかる直前、男はまとわりつくゴブリンを引きはがした。
半ば奇声をあげながら斬りかかってくるブラキアめがけ、手に持ったゴブリンを投げつけた。とほぼ同時に男も前方へ跳ぶ。
突如時間の流れが、遠くから見る雲のようにゆっくりとなった。勇一の意識だけが落ちる雨の一滴一滴をはっきりと認識できる。彼自身なにが起こったか理解できなかったが、迫る危機を目の当たりにした時「とにかく剣を振り下ろさなければ」と考える余裕があった。
勇一に激突するように飛ぶゴブリンは、振り下ろされたマナンによって何の抵抗もなく両断された。まるで幻覚を斬ったかのような切れ味に、斬った本人が驚愕する。
そして間髪入れず、勇一は背後に飛び退いた。彼自身何故自分がこうしたかわからない。脚が勝手に動いたのだ。
目の前にゆっくりと何かが近づいて来る。恐ろしく速い拳が、勇一の顔面をとらえようと突き進んでいるのだ。投げられたゴブリンで遮られた視界をたどり、強襲する拳だ。
(こんなもの、反応できるわけが……!)
だが勇一の思考に反して、彼の腕は既に迎撃に移っていた。
強烈な打撃が彼の顔面に届くまえに、振り下ろしたマナンが切り返される。
その往復の速さたるや、水面が光を反射するが如く……当の勇一ですら、上昇しきったマナンを見て振り上げた事実に気付いたほどだ。
「ぬうぅっ!」
空中を、主人を失った手首が舞う。両断されたゴブリンが後ろの壁に叩きつけられるのと、男の腕から鮮血が噴き出すのはほぼ同時だった。
そして最後に飛び退いた勇一の足が地上に帰り、時間の流れが元に戻った。
「くっ……!」
男は素早く右手首にローブを巻き付けると、数歩後ずさった。雨音の中でも仮面の下から荒い息づかいがはっきりと聞こえる。
形勢は完全に勇一へ傾いた……しかし彼はそんな状況にあって、次の一手に移ろうとしない。
いや、できないのだ。彼は全身を無数の何かが這いずり回る感覚と戦っていた。
自分がしたはずの動きに嫌悪感を抱く。自分がこんな体術を使えるはずがない。誰かが「上野勇一」という服を着て彼自身を演じているかのようなぞわぞわとした感覚を覚え、強烈なめまいに襲われた。
視界がぐにゃりと歪み一歩を踏み出せないでいるのを、目の前の男を睨めつけることでごまかしている。
段々と全身をめぐるおぞましい感覚と目眩から回復していくのに比例して、次に自分はどうするべきか考える余裕が生まれる。勇一は最初に、先ほどからずっと動かない男に聞き耳をたてた。男が動き出さないのは、単に隙をうかがっているからではなかった。
「種子、噂、疫病、翼……運ぶもの、気紛れなるもの」
男は仮面の奥でぶつぶつと何かを喋っている。しかしここには勇一と男の二人しかいないはずだ。
誰かに話しかけているのではない、書かれた文章を読み上げるように頭の中の言葉を口から出して並べているのだ。
一見意味のない言葉を羅列させる行為。しかし行為自体は見たことはないが、勇一はこの意味を知識として知っている。
(……詠唱!)
男が何をする気なのか勇一は想像もつかない。しかしそれが何であれ、実行される前に男を捕まえなければならない。マナンを片手に踏み出し、はためく男のローブに手を伸ばす。
だが勇一が自らを立て直す時間は、男にとって長すぎた。せめて伸ばされたのが手ではなく、ショートソードだったなら……。
「囁く暴風、竜巻の包容……我は雲。今こそ突風となりて北へ運べ!」
男に触れようとした指が身体ごと弾き飛ばされた。衝撃波を伴って急上昇した男は瓦礫の屋根を突き破り、ローブは荒天に翻る。闇の空に、男の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
人間一人を弾き飛ばすほどの衝撃を受けた勇一の身体は軽々と宙に浮かぶ。そのまま後方に跳ばされ、その先にあるドウルの亡骸に激突した
……はずだった。
そしてその場に、生きているものはいなくなった。
次回で一章最終話です。




