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14 せめて親として-2

「それは、何……?」


 ベテルの口から、戸惑いの声が自然と漏れた。


「一緒に行きましょう、ベテル様」


 勇一が差し出した手は、まるで自分の胸に巣食う苦悩すべてを見透かしているかのようで、ベテルは思わず唇をかんだ。


「意味が分からないわ」


「俺は、自分がやるべきことがわかったんです」


(何を言っているの……?)


 まっすぐな言葉だった。

 彼女は心の中で呟くように問いかける。ただ理解できない。故に恐れすら感じさせる。

 彼は続けた。


「ちょっと前、女神さまに言われたんです。俺は魂と身体がうまくつながっていないから、もうすぐ繋がりが切れて死ぬんだって」


「えっ……」


 思わず声が漏れる。


「もしかしたら、次の瞬間には死んでいるかもしれない。だけど、簡単に死んでやらない。俺は俺にできることをやりきってから死んでやる。だから、俺の『やるべきこと』が終わったら、緒に星の元に行きましょう」


(何を言っているの……なぜ、そんなふうに言えるの……)


 言葉の意味を咀嚼する前に、胸の奥がじくじくと痛みだした。彼はすぐに来るであろう死に立ち向かうでなく、残された時間をより良いものにしようと言っているのだ。


「『だから』? 何を考えているの」


 気づけば、そう問い返していた。


「二人に顔向けできないなんて言わないで、向こうで謝るんです。『あんなことしたけど、私は娘を守って、大陸の危機を回避するために頑張りました』……えっと、良心の呵責に耐えきれず。とか何とか言って」


「そんなことができたとして、許されると思っているの?」


 反射的に返した言葉だった。だが、勇一の声は揺るがなかった。


「貴方は後悔している。でも楽になりたいわけではないんでしょう? それを全部口に出すんです」


(どうして……)


 ベテルは彼の差し伸べる手と、澄んだ青い瞳とを交互に見つめた。

 目の前の青年は、避けようのない悲惨な運命を悲観していない。できることを、やるべきことを、良心のままに行おうと言っている。ベテルはその目に、かつて愛したエリザベートの面影を見た。同じ色と同じ意志の強さが宿っていた。


(……同じ、ね)


 復讐者であり、女神の力の保有者。それだけで十分な共通点。

 ――なのにこんなにも違う。そう認めざるを得なかった。


「全く…………終わりの時くらい、選ばせてほしかったわ」


 口をついて出た言葉は、どこか安堵を帯びていた。

 立ち上がりながら、ベテルは勇一の手を静かに払いのけた。

 その眼差しには、再びかつての威厳が戻っている。


「……ッ」


 勇一がわずかにたじろぐ。

 その隙に、ベテルは指先で宙に円を描いた。

 すると、勇一の足に絡みついていた白い糸がするすると解け、やがて霧のように消えた。

 同時に、アイリーンを包んでいた繭もまた、音もなくほどけていく。


「アイリーン!」


 その名を呼び、駆け寄る勇一。

 彼の目には、すでにベテルの姿は映っていないようだった。

 娘の体に服を掛け、上体を抱き起こすその様子に、ベテルはかすかな微笑を浮かべた。


「まだ眠らせておくわ」


 その声に、勇一が振り向く。


「ベテル様、それじゃあ……」


「何? まさか本当に、あなたについて行くと思っていたの?」


 愚問だとでも言うように、ベテルは言い放った。

 驚愕に顔を強ばらせる勇一。だが、その反応すら予想の範囲内だった。


「さようなら。娘の友達」


 そうベテルが告げると同時に、勇一の身体がふわりと浮き上がる。

 全てを放棄して、星の元へ逃げる……それができれば、どれだけ楽だろうか。

 だが――彼女は首をゆっくりと振った。


「私はベテル・ハウィッツァー。たとえ複製であっても、自らの過去から逃げはしない」


「ちょっと、待ってくれ――!」


 青年の叫びと共に、彼の体が閃光に包まれる。

 そしてその姿は、瞬き一つの間にかき消えた。

 残されたのは、眠るアイリーンと、彼女を静かに見下ろすベテルただ一人。


 ベテルは静かにアイリーンの傍らに腰を下ろした。彼女の指先が描く円に沿って、白い繭糸が空中をたゆたうように回っている。その指とは反対の手で、娘の髪をそっと撫でた。


「私ったら一体、何を考えているのかしらね」


 先ほどまで全てを諦めていたのに、今の彼女の表情と心は晴れやかだった。これが月魔法の影響だと思えば楽だろう。しかし、彼女の身体は"複製"であり、月魔法を使う力は持たされていない。つまりこの感情も、この穏やかな静けさも、まぎれもなく彼女自身のものだ。

 勇一の提案は魅力的なものだった。星の元で全てを吐き出せば、僅かでも彼女の心は軽くなるだろう。


「……いいえ」


 首をわずかに振ると、彼女は回していた指を自らの喉元へ導いた。空中を漂っていた白い糸が指先から放たれ、しなやかに弧を描きながら、その褐色の首筋へ絡みついた。


「決着のつけ方くらい、選ばせてほしいわ」


 復讐に突き動かされ、彼女は数えきれぬほどの選択を繰り返してきた。だが、そのどれほどが本当に自らの意思によるものだったのか――そもそも、復讐へ突き動かした最初の感情すら――いまではもう分からない。

 月の女神と出会ってからの人生は、ずっとその手のひらの上にあったのだから。

 しかしオリジンから分かたれた彼女は違う。ごく僅かに残された時間であっても、これからの選択は"初めて"誇りをもって行われるのだと言える。それが、自らを終わらせるものだとしても。

 ベテルはもう一度アイリーンの髪に触れた。

 乾き、ほつれている。


「こんなに痛んで……髪くらい、ちゃんと手入れしなさい」


 苦笑のような、母らしい叱責。それが、彼女の最後の言葉だった。

 首に巻きついた茨のような糸が、肉を、骨を静かに削ぎ落としてゆく。血が溢れ、痛みに蝕まれても、ベテルの心は一点の曇りもなかった。

 周囲の木々も彼女に応えるように静寂を貫き、親子の最期の時間を見守っている。

 そして遂に、糸は彼女の首を断ち切った。

 アイリーンの精神の中で起こった、見送る者のないベテルの死と消滅。その瞬間、景色そのものが崩れ始めた。崩壊はアイリーンを残して周囲に連鎖し、全てが崩れ去る。

 ベテルによって作られた籠の崩壊だった。



 ***



「――勇一、おい勇一!」


 意識の底を這うようにして、ガルクの叫びが勇一の耳を打った。視界はまだぼやけている。だが、空の端がわずかに白み始めているのが見えた。そしてはっきりと見えた、覗き込むガルクの顔。目が合った瞬間、彼の厳めしい顔がほっと緩むのを、勇一は見逃さなかった。


「……ガルク。アイリーンは」


「お前、急に倒れ込んだと思ったら、弾き飛ばされるみたいに吹っ飛んでいったぞ。何があった――いや、まあいい」


 あそこだ。とガルクが顎で示す先へ、勇一は目をやる。

 崖の先端。アイリーンが北の平野を見据えていた。そこにかすかに動く無数の光が、まるで対をなすようにぶつかり合いの時を待っている。


「ユウ」


 アイリーンが振り返った。その顔はいつもの冷たい無表情に見えるが、不安と戸惑いが顔に刻まれいているのが勇一にはわかる。


「……アイリーン、なのか?」


 勇一はベテルがアイリーンの中から消えたことを知らない。しかし先ほどから変わった彼女の様子を見れば、何かから解放されたことは明らかだ。

 アイリーンは勇一の質問の意味が分からないと首を振る。


「目が覚めたら、ここに。ずっと暗闇の中を走っているみたいだった」


 そう言って彼女は、そこに触れていた誰かの名残を確かめるように、自らの銀髪に指を通した。その姿を見た勇一はようやく悟った。彼女の中からベテルは消えたのだ。


「一体何が起こっているんだ。ガルク――といったか」


 アイリーンが震える指で平原を指した。その先には、いまにも激突せんとする二つの軍と、割って入るかのように現れ輝く亀裂。彼女が知っているのは、同盟軍が国境を越えようとしているという情報だけ。だが、もはや全ては一触即発の段階にあった。ガルクはがらりと変わった彼女の様子に戸惑いを覚えつつも、知っていることをかいつまんで教えてやる。

 その間勇一はベテルの事を考えていた。複製されたベテルがアイリーンの精神にいたことも、最期に自らを消したことも。誰にも知られず、彼女は孤独の中で消えることを選んだ。その気高さに、勇一は言葉なく祈った。

 ならば、と勇一は気合を入れた。ベテルが娘を助けようと決着をつけたように、自分がやるべきことをやらなければと奮起した。彼は満身創痍の身体を引きずって側の倒木に背を預けると、二人に声をかけた。


「二人とも聞いてくれ。俺たちがやらなきゃならないことは山ほどある。けど、時間は少ない」


「なんの話だ。俺たちがアレを止める方法があるってのか」


「正直、このままだと不可能だろう。何もしなければ」


 それは他の二人も思っていた。数万の軍の衝突を、たった三人がどうやって止められようか。しかし勇一に諦めの表情は無い。それでもできることはするのだと、二人に力説した。勇一の目には火のような決意が滲み、頬のドラゴンも、呼応するように赤い光を帯びている。


「俺たちができる事も、時間も、あまりにも少ない。けど、まだ終わってない。二つの軍は、まだ衝突していない。それに――ここには双方陣営で最も上に近い人間が二人もいる」


 勇一の言葉に、ガルクとアイリーンは互いに顔を見合わせた。確かに、現ヴィヴァルニアの現政権の頂点には、エンゲラズにいるベテル(オリジン)がいる。しかし、アイリーンはその娘だ。

 一方で同盟には、勢力第三位である獣人族の頭パンテラと、その助言役のゴルガリアが不在。そしてガルクは、第一勢力である蟲人族のマザーマリアの代理人として、続く勢力である有角族の頭ダランに信を置かれている。彼の立場も決して軽くはない。

 お互いを知る運命に無かったガルクとアイリーン。交わるはずのなかった二人が、異世界の勇一によって交わったのだ。


「時間が無い。ガルク、アイリーン。軍がぶつかって、一滴でも血が流れたらおしまいだ。戦いは今度こそ互いを殺しつくすまで終わらないし、あの巨大な亀裂からはゴブリンどもが湧きだしてくる。そうして、あそこでくたばっているゴルガリアの目論見通りに、どこかに上陸しているかもしれないエルフたちがこの土地をかっさらうんだ。そんなことをさせちゃいけない」


 声はかすれていたが、言葉には鉄のような意志が宿っていた。異世界から来た少年のその言葉が、二人の心をゆさぶる。彼らにも誇りがある。ガルクとアイリーンはもう一度、黙って目を合わせた。そして自らを奮い立たせた。


「……どうやら、迷ってる時間はないみたいだな」


「ええ……でも、どうやって? 今さら軍を止める方法なんて」


「運んでくれアイリーン。見たところ、相当な風の魔法を使えるんだろう。オレたちを、両軍がぶつかるど真ん中に運ぶんだ」


「それで、何をするの」


「そんなもん、着いてから考えるさ。おい勇一――」


 立て。と口から出かかった言葉が詰まった。

 勇一はもう立てなかった。

 ゴルガリアとの戦い。アイリーンの魂の救出。彼はその過程で『女神の腕』を使っていた。女神の力を行使する代償は、例外なく彼から奪っていく。

 彼の左脚は――根元から消えていたのだ。

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