13 せめて親として
「ここは、アイリーンの魂の中」
「…………」
勇一は唇を噛みしめた。魂の中とはどういうことなのか。思考が一瞬、疑問へと向かいかけたが、すぐにそれを振り払った。これまでにも何度か、異質な空間で女神たちと対話した経験がある。今の状況がそれと似たようなものなら、帰る手段もあるはずだ。そう自分に言い聞かせ、このベテルを名乗る存在の言葉を受け止めることにした。
しかし、異変は明らかだった。マナンがない。森であるはずなのに、風に枝葉が揺れる音すらしない。ただ、張り詰めた静寂が広がるばかりだ。この場が現実ではないという事実を、勇一は否応なく突きつけられる。
エンゲラズでの出来事が脳裏をよぎる。アイリーン、ウルバハムと共に考えた結論――事件の裏にはベテルがいるのではないか。しかし、決定的な証拠がない以上、推測の域を出なかった。しかし、今目の前にいるベテルは、自分と年の変わらない少女の姿をしている。その幼さすら感じる姿と、これまで積み上げてきた疑惑との食い違いが、勇一の思考を乱した。
なぜ彼女はそんな姿をしているのか。
そもそも、自分はここから戻れるのか。
ベテルは何を企んでいるのか。
本当に、今までの事件に関わっていたのか。
疑問が次々と浮かび上がる。しかし、それらは喉の奥で引っかかり、言葉として外に出ない。焦りが募る。思考は加速するが、身体はまるで硬直したかのように動かない。
そんな彼の様子を観察するように、ベテルはゆっくりと目を細め、口元に笑みを浮かべた。
「聞きたいことがたくさんある顔をしているわね。言ってごらんなさい」
眠るアイリーンを挟み、ベテルは静かに促した。戦意の欠片も感じさせない彼女の振る舞いに、勇一は一瞬だけ安堵しかける。しかし、それをすぐに振り払った。彼の脚には、今も有刺鉄線のような糸が絡みついたままだ。気を抜けば、次の瞬間には動きを封じられるかもしれない。
「何をしようとしているんですか」
「何も。言ったでしょう? もう終わったの。何もする必要はないわ」
ベテルは視線を落とし、足元のアイリーンを見つめる。
「復讐は終えた。私はアークツルスを、あなたはゴルガリアを。――復讐を遂げて、心は澄んだ?」
(王様を!?)
アイリーンやウルバハムといたときに飛び込んできたアークツルス王の訃報。あれは、やはりベテルの仕業だったのか。彼女がどのように手を下したのかは分からないが、事実として彼は葬られたのだ。勇一は驚愕しながらも、表情を崩さないよう努める。
「……ええ」
「よかった。私もなの」
ベテルの言葉には、ひどく満ち足りた響きがあった。それは、エンゲラズで出会ったミュールイアの最期を思い出させた。復讐を果たした彼女は、その瞬間から急激に老い、そして死んだ。目的を失った人間の結末。まさに、「復讐を終えても虚しいだけ」という言葉の体現だった。
だが……と、勇一は考えを振り払う。
確かに、本懐を遂げたことで目的は消えた。だが、それは虚しさとは違う。むしろ、余計なものが削ぎ落とされ、心が軽くなるような感覚だった。それは解放感と言えるものだ。
そして、ベテルもまた同じように感じているのだろう。
しかし彼女はこのまま終わるつもりなのかもしれないが、勇一は違う。復讐の先にまだ命がある。だからこそ、彼は生きなければならないのだ。
「でも、まだ俺は生きたい。あなたの言う終わりなどでは断じてない」
「そうかしら。同じ女神の力を持ち、同じように復讐を遂げた者同士でしょう?」
「俺は……復讐を踏み台にして、大切な人の死と思い出を背負って、新しく生きるつもりだった。でも、あなたは違う。終わりにしたがってるんだ。それに親しい人に……ましてや親が子どもに、こんな仕打ちをするか!」
勇一の視線が眠るアイリーンへと向かう。彼女は獣のように暴れ、ガルクが助けなければ自らをその力で破壊していただろう。そして今、この場では触れるだけで傷つく繭に包まれ、眠らされている。
親が子にする仕打ちとして、あまりにも非道だ――勇一は心底、衝撃を受けた。
怒りと嫌悪が衝動となり、思わずベテルに反抗した瞬間、絡みついていた糸が締め上げた。無数の小さな棘が皮膚に食い込み、じわじわと彼の脚を切り裂いていく。
「ぐあぁ…………っ!」
「大して知りもしないくせに」
「うっ……! なら、どうしてわざわざ俺を!」
「……ただ無策に戦ってきたわけではないのね。そう、アイリーンが気に掛けるわけだわ」
幼い姿のベテルの眉がわずかに動き、金色の瞳が勇一を映す。アイリーンは依然として繭の中で動く気配を見せない。勇一は痛みに耐えながら、どうにかこの空間から脱出できないか思考を巡らせた。
「――あの人は、私の愛する人を奪った。ベテル・ハウィッツァーは、あの人を愛したことなんてなかったわ……ようやく本懐を遂げられて、清々した」
「スクロールが強奪されたのも、ハロルドが殺されたのも、ゴルガリアも……」
「厳密に言えば、それは『オリジン』がやったことだけども……まあ、私だと思っていいわ」
ベテルは再び視線を足元のアイリーンへと落とした。
「娘も、そう長くはないでしょう。一つの魂に三つも精神を詰め込めば、自我が曖昧になって、やがて何も分からなくなるわ」
勇一の胸に、焦りが込み上げる。もしベテルの言葉が本当なら、自分がこの場を脱することができたとしても、アイリーンは助からない。ベテルの精神に侵され、彼女は失われる。
背を焦がすような焦燥感の中で、勇一は改めて目の前の少女――ベテルという存在について、思考を整理し始めた。
「ここにあなたがいるということは、元の王妃様はどうなってるんです? 『オリジン』……でしたか」
「オリジンは……今頃どうしているかしら。アークツルスの傍らで、彼を嗤っているでしょうね」
少女の金色の瞳が一瞬曇った。
「女神の力は、使った者から奪っていく。あなたの左腕もそうでしょう? ベテルは二十五の時に月の力を手に入れた。使うたびに正気が削がれていく。呪いの力をね」
勇一は違和感を持った。彼が星の力を手に入れておよそ一年、本格的にこの力を使い始めたのは半年ほど前からだ。
(確証はないけど、女神魔法の使い手は早死にする。種族による寿命の差はあるだろうが……)
目の前の少女ベテルは、現実世界では四十を過ぎている。月の力を持ってからおよそ二十年。王妃という立場で、正気を失わずそれだけの時間を過ごせるのだろうか。
「どうやって正気を保っていたの? って顔をしてるわね」
「…………」
「とても、わかりやすいわ」
勇一が無言で見つめると、ベテルは儚げに笑い、背中で手を組んだ。
「月の力は精神に作用する力。操り、欺き、覗き込む力よ。そして――『オリジン』はそれを利用して、精神の複製を思いついたの」
「……複製?」
勇一は焦りを忘れ、思わず聞き入った。しかし、意識の片隅ではなおもアイリーンを助ける手段を探っている。
「オリジンは月の魔法を使って、アークツルスへの復讐心が最も強かった私の精神を複製したわ。精神が十五の時の私を。それらを無数に――魂の中に眠らせておいたの」
「……どうしてそんなことを?」
「入れ替えるためよ!」
少女の手が震え、強く握りしめられる。
「月の力は、使い手自身も狂わせるわ。正気を失うと、複製されていた精神が目覚め、記憶と身体を引き継ぐの。そして、前の精神は消去される……! 周囲に気付かれることなく、ベテルはベテルのまま…………!」
やった覚えのない記憶を持って目覚めた十五歳の少女は、自分の身体を見て何を思うのだろうか。
歳を重ねた身体と、変わらぬ復讐心。
精神的な負担を、復讐へと向けることでしか振り払えなかったのではないか。
そう考えた瞬間、勇一はいたたまれなくなった。
「じゃあ、オリジンっていうのは」
「月の力を持ち、ベテルとして生き続けている精神をそう呼んでいるだけ。本当の意味での『最初』のベテルは、もういないわ」
「……」
「最初の頃は、一年に一度くらいだった。でも、最近は何日も経たずに交代が起こるの。長く生きるほど、引き継ぐ記憶と感情も増え続ける。
そして目覚めた瞬間、それが一気に流れ込むのよ。精神への負荷は、計り知れない」
「じゃあ、あなたも…………」
「ええ。私という精神は、生まれた瞬間から崩壊に向かっている」
淡々と語るベテルの言葉を聞きながら、勇一の胸に奇妙な違和感が生じた。
これは見過ごしてはいけない感覚だと直感がそう告げている。
彼は一旦、脱出のことを忘れ、頭の中でその正体を探り始めた。
「……復讐だから、そこまで?」
「ええ。復讐だからよ」
「でも――アイリーンまで巻き込む意味は?」
ベテルが怪訝そうに顔を上げる。
嫌な予感がする。
だが、感じた矛盾を解決するためには、口にしなければならなかった。
「――アイリーンも、復讐の一部なのか?」
「あはは。思ったことを何でも口に出す人は、長生きできないわよ?」
ベテルは笑った。だが、それは自嘲の色を含んでいた。
「この娘は、夫との子ではないの。名も知らぬ者の血が流れている。ハウィッツァーの血は、もはやないわ。
……月の女神にとっては、どうでもよかったみたいだけど」
「でも、あなたはアイリーンを娘だと言ったでしょう!」
勇一は声を張り上げた。
すると、脚に絡む白い棘がさらに締め上げられる。
「ア、アークツルス王は俺と会った。アイリーンの知り合いだっていう、それだけの理由で。
本来なら、家臣にでも任せれば済むことなのに――本人が、わざわざ」
勇一は息を整え、目の前のベテルを見据える。
「あなたと同じ理由で!」
ベテルの表情が険しくなる。
「それ以上続けたら、二度と体に戻れなくするわ」
「黙りません!」
激痛が膝を襲う。だが、勇一はそれを必死に堪えた。
同時に、確信に変わりつつある――彼が理解しなければならないこと。
「アイリーンが復讐の一部なら、ヴィヴァルニアを滅ぼすのも復讐だって言うなら……もっと早く手を下せたはずだ」
わざわざ時間をかける必要などない。
政に関わる者を排除し、さっさと同盟に攻め込ませればよかった。
そうすれば国は勝手に疲弊し、荒廃するのだから。
勇一の言葉に、ベテルは明らかに動揺していた。
「そうしなかったのは、道具と思いながらもアイリーンを見ていたかったんでしょう。アークツルス王と一緒に!」
「やめなさい!」
「あなたは王様を――」
「やめてっ!!」
勇一は口を閉じる。ベテルが耳を塞いでうずくまる様子は、ようやく見せた年相応の姿だった。
いままで沈黙を守っていた森が、動揺したようにざわめいた。少女は肩を震わせる。乱れた髪が遮り、その表情を伺うことはできない。
――そして長い長い沈黙の後、ベテルがゆっくりと口を開いた。
「…………そんなこと、わかっていたわ」
彼女の声は震えていた。ゆっくりと立ち上がったその顔は、苦悩と後悔に歪み、流した涙が袖を濡らしている。
「ええ、わかっていますとも。でも、私がそれを認めてしまったら……私を守って死んだエリザベートは? メイオールを支援した罪で処刑されたお父様はどうなるの? 二人がいる星空の下で、私はどんな顔をして生きればいいの?」
濡れた手のひらに目を落とし、ベテルは唇をかんだ。そこに落ちた涙に、赤い雫が混じる。
「もうだめなのよ……もう遅い……。私は夫を殺した。自分の体も、心も、殺しつくした……。もうできることといえば……すべてを終わらせるしか……」
彼女は顔を上げる。そして、これから目の前の青年と共に終わりを迎えるのだ。そう覚悟しかけた、その瞳に――不思議な光景が映った。
両足に絡む白い糸の塊は赤いまだら模様になり、傷口から血が滲んでいる。それでも彼はまっすぐにベテルを見つめている。その彼から、力強く、迷いのない手が差し伸べられていた。
(過去の章の出来事)
ベテルが十五歳の時、アークツルスがエリザベートを殺害。
↓
ショックで十年間精神を眠らせ、その間は月の女神がベテルとして過ごす。
↓
ベテルの精神が目覚めたのは彼女の身体が二十五歳の時(この時点で精神はまだ十五歳)
そこから月の女神の洗脳を受け、アークツルスを激しく憎むようになった。
↓
彼女が複製したのは「洗脳を受けた直後の精神」なので「精神が十五のときの私」という表現になります。




