12 その後
勇一は白く染まり始めた空を仰いだ。復讐を終えたという実感が、徐々に胸を満たしていく。彼はため息をつき、視線を足元に戻した。そこに横たわっているのは、短い間だけ彼を突き動かした復讐の終着点だ。
彼はマナンを鞘に収め、胸に手を当てた。強く脈打っていた“もう一つの心臓”が、徐々に静寂を取り戻していく。
(終わった。ああ終わったんだ。これで――)
そう考えた瞬間、自分の手に目を移す。かつてそこにあった腕輪――サラマの形見――がもう無いことを思い出した。それは今、ガルクの指に嵌っている。勇一は満たされた胸に、急に冷たい風が吹いたような寂しさを覚えた。
「おい勇一、呆けてんじゃねぇ! 早くこいつをなんとかしろ!」
鋭い声が彼を現実に引き戻した。声の主はガルク。余韻に浸る暇など無いらしい。彼の腕にはアイリーンが押さえつけられていた。勇一はすぐに状況を思い出す。声の調子から、ガルク自身に深刻な怪我は無いと察しつつも、勇一は押し寄せる疲労を振り払い声の元へ駆けつけた。
「ガルク、アイリーンは……どうしたんだ」
「知らねぇ! でも、こいつを離したら自分がぶっ壊れるまで戦うから、こうやって押さえ込んでるんだよ!」
アイリーンは拘束されてなお、凄まじい力で暴れようとしている。彼女の負荷を考えれば、ガルクの慎重な押さえ方が必要だということが容易に理解できた。勇一は彼女の顔を覗き込む。アイリーンの金色の瞳が勇一を捉えた瞬間、彼女はまるで獣のように咆哮を上げた。
「アイリーンしっかりしろ! どうしたんだ!」
「お前でもだめか」ガルクはうめくように呟く「オレの力も魂は治せないみたいだし……くそっ!」
項垂れるガルク。しかしその言葉を聞いた勇一は、何か思いついたように目を見開いた。
「魂……そうか、魂だ!」
「ああ?」
「アイリーンを地面に押さえつけてくれ。考えがあるんだ」
「考え? 何言って――」
ガルクは目の前の光景に目を奪われ、言葉を途中で飲み込んだ。勇一の、存在しないはずの左腕が、淡く発光しながらそこに現れていた。それは骨の影が透けて見える不気味な姿だったが、同時に神聖さすら感じさせるものだった。
「あ、しまった。ガルク、大丈夫か」
「ああ? 何がだ」
女神の腕を見た者は本能的に恐怖し、心の弱い者はそれだけで廃人になる。しかし、ガルクは平然としていた。その様子に勇一は驚きを隠せない。
「これを見ても平気かって――」
勇一が言いかけた瞬間、視界の端に稲妻のような光が走った。ガルクも同時に気づき、二人の視線がそちらに向かう。向かい合う軍勢が睨み合う平原を挟んだ北側に、暗い空を断続的に走る稲妻。その光は次第に頻度を増し、ついには大きな一本の光がうねりながら地上に落ちた。
夜明け前の澄んだ空に、その異様な光景は不気味さを際立たせている。消えるはずの稲妻が、地上へのうねりを残していることに、二人は強烈に嫌な予感を覚えた。
「稲妻じゃねぇ、あれは……」
「あれは、亀裂だ! 特大の!」
亀裂。それはこの地に住む者たちが恐れる共通の敵。神出鬼没で、破壊と混乱をもたらす存在だ。しかも今回は、あろうことか双方の軍のただ中に現れた。
ガルクと勇一の表情はさらに曇る。共通の敵である亀裂が出現したにもかかわらず、両軍は止まるどころか、依然として進軍を続けている。方向を変える気配すら見せていない。
「あんなでかい亀裂、見たことねぇ……三つ巴どころじゃ済まねぇぞ……」
「ガルク、今は!」
勇一の叫びに、絶望の表情を浮かべていたガルクがはっと我に返る。
「今はアイリーンだ、ガルク」
「そんなこと言っても、お前っ!」
ガルクはアイリーンを拘束する手を思わず離しそうになったが、堪えた。そのとき、膝をついた勇一の足元に血だまりが広がっているのが目に入る。彼の胸はゴルガリアに貫かれたはずだが、太陽の力で塞いだはずだった。
「どうしたんだ勇一、お前まだ」
「俺はいい! 亀裂も軍も、止められるかもしれないのは俺たちだけだ。でもここでアイリーンをどうにかしないと、それすらできないだろう!」
痛みに耐えながらも冷静さを保つ勇一の姿に、ガルクは渋々頷くしかなかった。
勇一は女神の腕をそっとアイリーンへ向けた。それが彼女の額に触れたかと思うと、抵抗なく滑り込んでいく。
「信じられねぇ。勇一、何してるんだ」
「この手は触れた相手の魂に触れられるんだ。アイリーンがこうなった原因がもし魂にあるなら、これでどうにかできるはずだ」
そう言いながら、勇一はかつての戦いを思い出す。リザードマン、ハニガン・ムルスァーとの一戦。彼女の魂は、女神の腕によって身体から剥がされた直後、砂のように崩れてしまった。
(多分あれは、身体との繋がりを絶ち切ってしまったからだ……今回は、アイリーンの魂を外に出さずにどうにかできれば!)
彼に確信はない。女神の腕が触れた途端、アイリーンの魂が崩壊してしまう可能性もある。それを確かめる術はない。あまりにも危険な行為だったが、今は他に手段がなかった。
勇一は慎重に女神の腕をアイリーンの額へ沈めていく。ガルクは険しい表情で見守る。腕が肘にまで達した瞬間、突然、勇一の体が糸が切れたように力を失い、アイリーンの上に崩れ落ちた。
「……おい。おい勇一? おい!」
勇一は応えない。人形のように動かなくなった彼を起こそうとして、思わずアイリーンから手を離したガルク。「しまった」と身構える彼の予想に反して、アイリーンも動かないままだった。
「ど、どうするんだ。これ」
寝そべった二人を見つめ、ガルクはただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
***
勇一は鬱蒼とした森の中で目を覚ました。手をついた地面には雑草が茂り、湿った土の感触が掌に伝わる。頭上を見上げると、木々の葉が重なり合い、太陽の光は完全に遮られていた。それでも周囲は不思議と淡い青白い光に包まれており、彼の視界を辛うじて保っていた。
「……ここは……どこだ?」
目覚めたばかりの頭を振り、状況を整理しようとするが、答えは見つからない。光が周囲を照らしていることに気づいた勇一は、その光源を探そうと辺りを見回した。そして振り向いた瞬間、思わず息を呑んだ。
背後には、山のようにそびえ立つ巨木。その根元に、一人がすっぽり収まるほどの大きさの繭が一つ。淡く青白い光はその繭から発せられており、周囲の薄闇を押しのけている。勇一は思わず繭に駆け寄り、その中を覗き込んだ。そして、言葉を失った。
「アイリーン!」
繭の中には、一糸まとわぬ姿で膝を抱え込むアイリーンが眠っていた。彼女の穏やかな表情はまるで安らかな夢を見ているかのようだが、勇一の声にも微動だにしない。その姿は神秘的でありながら、どこか不気味でもあった。
勇一は恐る恐る繭に手を伸ばした。指先が触れた瞬間、鋭い痛みが走る。反射的に手を引っ込めた彼は、繭をよく観察した。糸の一本一本がまるで有刺鉄線のように細かな棘を備えており、触れた者を拒絶するかのようだ。
「これで閉じ込めている……ってことか?」
眉をひそめた勇一は、咄嗟にマナンを思い出した。あの短剣なら、この繭を切り裂けるかもしれない。彼は腰のあたりに手を伸ばしたが――空を掴む感触に、動きを止めた。
「無い……」
唯一の武器が消えている。驚愕と焦燥が胸を締め付ける中、背後から静かな声が響いた。
「ようこそ、ユウ・フォーナー。」
繭を前に途方に暮れる勇一は、その声に振り返った。一人の少女が立っている。彼はその姿を見て表情を強張らせた。少女は森に似つかわしくない、一目で高い身分とわかる服装をしている。しかし勇一が驚いたのは、その容姿がアイリーンに酷似していたからだ。
(ここはアイリーンの魂の中か、それに近い場所だろう。繭の中にいるのが本人なら……この少女は一体誰だ?)
「悪いけど、覚えがないんだ。」
「この姿を見るのは初めてでしょうね。でも、心当たりはあるのではなくて?」
アイリーンに瓜二つだが、彼女ではない。ならば親族だろうか――そう考えた勇一は、少女の微笑みに既視感を覚えた。周囲の異常な光景と相まって、不安が胸の奥で静かに膨らんでいく。深い森の中、まるで舞踏会へ向かうような無垢な衣装。その裾にすら土埃はついていない。
「……ベテル王妃」
「よかった」
そう言って微笑むその表情は、かつてエンゲラズで勇一に菓子を振る舞ったときとまるで同じだった。しかし、ベテルにはネティを唆してハロルドを殺害させ、さらに、呪文書輸送の情報を漏らした疑いがある。過去に感じた彼女への違和感が、今ようやく形を成していた。
勇一は平静を装いながら周囲を見渡す。
「俺をここに引き込んだのは、貴方ですか?」
ベテルは静かに頷いた。
「アイリーンを、こうしたのも?」
警戒と怒りを含んだ勇一の声にも、ベテルの穏やかな表情は崩れない。彼女は勇一の横を通り過ぎ、アイリーンの眠る繭の前に立った。
「アイリーンをこうしたのは元の私。」
(元……?)
「私は、月の力を除いた元の複製。籠に閉じ込めたアイリーンの監視役よ」
(月の力! 星の女神が言っていた月魔法の使い手、それがベテル王妃だったのか……。でも、なぜここに?)
勇一の脳裏に、通信筒を送ったアイリーンの姿が浮かぶ。彼女がゴルガリアとの戦いに乱入する可能性はあったし、実際そうなった。しかし、今目の前で魂を拘束されている彼女と、代わりにここにいるベテル。母と娘の間に何が起きたのかはわからないが、アイリーンをこんな非情な手段で利用したことだけは許せなかった。
「そして、見届ける役」
「見届ける? ――うっ!」
突然、勇一の両足に鋭い痛みが走った。気がつけば白い糸が彼の足元に絡みついている。それは繭を作る糸と同じもので、動けば皮膚を深く切り裂くだろう。
「俺はっ、アイリーンを……!」
「動かない方がいいわ、ユウ。傷を受けすぎると、精神の損傷に繋がってしまうから。それに、貴方の復讐は終わったわ。帰る必要はない。ここで一緒に、大陸の滅びるさまを眺めていましょう」
ベテルの声は冷たく平坦だった。その瞳には、諦観だけが静かに宿っていた。




