表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
166/175

7 選択-2

 

「ゲルドラフは確保できたのかしら」


 地下牢への冷たい石階段を下りつつ、マリアの口からはつい不安が漏れた。手に握りしめているのは、ヴァルカンが内部から、有角の長が外部から集めた証拠――ゲルドラフが行っていた汚職の内容だ。

 彼女は生々しいそれらの前に閉口するしかなかった。そして先代に仕えていた頃の忠実な彼と比べて落胆と失意に苛まれた。


(――我が不甲斐ないから)


 マリアは、急死した先代の遺言に従って9歳という若さでマザーとなった。

 しかし即位した彼女に向けられた感情の多くは祝福ではなく、嫉妬と侮りだった。それらはまるで刃物の様で、最初期は政の中枢が一時機能不全に陥るほどだった。だから彼女は、早々に自分をマザーの器として自負できなくなった。

 そんな中で唯一粛々と仕事を続ける人物がいた。財務を司っていた彼は不正を正し、悪徳の徒を告発し、マリアのいる環境を劇的に改善していった。それがゲルドラフである。

 彼の仕事に対する誠実さと汚職に対する態度に影響されて、マリアは徐々に自信をつけていった。先代が消極的だった対外貿易に力を注ぎ、より蟲人族の影響力を増やそうとした。孤独であることは変わらなかったが、できる限りのことをやったと彼女は自負している。彼女がゲルドラフを代理人に任命するのは、当然の流れだった。

 だから数年後、マリアは有角の長から「蟲人族領土の地方の財政状況を調べさせてほしい」と連絡があった時は面食らった。


(ゲルドラフ……どうして)


「………………!」


 看守は驚いた。マザーが囚人の一人に会いに来ることは知っていたが、まさか護衛もつけずに一人でやってくるとは。しかしマザーに対して口を聞ける階級ですらない彼は、その疑問を言葉にすることも許されない。ただマザーの視線の先にある扉を開くだけである。看守の待機室の古い椅子にマザーが座ると、看守はテーブルを挟んだ向かいに座らせた人物に声をかけた。


「マザーがご来臨された。面を上げよ、ドラーニ」


 ドラーニは不安そうに頭を上げた。部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる程度の灯りが、ゆらゆらと彼の顔を照らしている。


「あなたがドラーニ。反乱事件の生き残りね」


 ドラーニはビクビクとしながら頷く。


「政治に関わる者は常に監視されている。一挙手一投足が観察され、時には弱みにされ、曲解され……。何が正しい事で何がそうでないかもわからない。それでいて、間違いは許されない」


 統治者が間違いを認めれば民は不信を募らせ、権力の安定が崩れてしまう。マリアは先代に、間違うなと言われて育った。しかし幼かった彼女には理解できなかった。

 彼女の悲痛な面持ちはドラーニの目にも映った。雲の上の存在が目前にいることもありえないというのに、自分に向かって言葉を発する姿に大量の汗が噴き出す。


「ヴィタラ家の反乱は虚偽であったと調べがついたわ。本来ならこんなこと、起こりえるはずがない。」


「でも、幼かったのは理由にならないわ。我は行うべき精査を怠り、代理人の言葉を疑わなかった。先代なら、そうしなかったでしょう。故にあの事故は起こった。ドラーニ」


「は、はい。…………ええっ!」


「マザー……!?」


 ドラーニと看守は驚き、たじろいだ。種族の長たる者が下層階級の者に頭を下げるなどあってはならない事だ。深々と頭を下げるマザーの姿は夢か幻か、呼吸も忘れて考える二人。

 看守は自らの階級も忘れて、上ずった声でマリアを制止した。


「ご尊顔をお上げくださいませ、マザー! このような《下層の》者に頭を下げたとあっては、ご自身の御威光に関わります!」


「いいえイジャン、長はまず誠実でなければなりません。あの事件は私の間違いによって生まれてしまった。ゲルドラフの罪は追及するとしても、軍を送った我の過ちは認めなければなりません」


「わ、私のような者の名前を………………」


「ずっと、こうしたかった。これで何が変わるわけではないけど、区切りをつけたかった」


 感極まった様子のイジャンの側で、ドラーニは戸惑いの表情でマリアを見つめている。


「ごめんなさドラーニ。我の浅はかさによって起こされた悲劇はもう取り返しはつかないけれど、償いは必ず――」


 ガタッ。

 ドラーニが立ち上がった。見開いた眼をマリアに向けて、噛みしめていた唇がわなわなと震えている。


「償い、だって」


「座れドラーニ! マザーの御前で――ウッ!」


「イジャン? イジャン!」


 ドラーニは彼を捕えようとしたイジャンの腕を搔い潜り、その喉に何かを突き立てた。見るからに粗末な刃物。錆びた鉄格子から作られた手製の武器。喉に穴を開けられたイジャンは絶命し、それを見たマリアは恐怖で動けなくなった。


「お、おれの、俺の家族は……お前が送った軍に殺されたんだぞ」


「ドラーニ、や、やめて。来ないで」


「俺だけじゃない。アぺレジーナはあれからずっと苦労して、屈辱に耐えてお前に嘆願し続けた。それも無視して……お前は!」


 ドラーニの武器を握る手は爪が食い込み、赤く染まっている。マリアの言葉は狂気を煽り、殺害へのたがを外す。そして彼は憎しみに染まった刃を容赦なく少女に向かって振り下ろした。小さな体がビクッと跳ねて地に転がる。


「きゃああーーーーっ!!」


「全部、ごめんなさいで! 終わらせる気かぁーっ!!」


 逃げようとしたマリアの足が、恐怖と胸の激痛によって縺れる。彼女は何をされたのかも、痛みの原因もまるで理解できなかった。切り付けられた胸元から流れ出た血が熱く、湯が滴るように床へ流れ落ちる。


「皆が受けた苦しみも、絶望だって、お前にはわからないんだ! だから償いとか言って誤魔化すんだ。お前みたいな、お前みたいな――!」


「マリア!」


 ドラーニが刃物を振り上げた瞬間、部屋に一つしかない扉が蹴り破られた。自らの名を呼ぶ声にマリアは正気を取り戻す。ガルクだ。恐怖に喉を押しつぶされ言葉も出ない彼女は、力を振り絞って声のした方へ手を伸ばす。

 ――直後、ドラーニの上半身が宙に浮かび上がった。


「馬鹿やろう……ドラーニ………………」


 ガルクの手から投擲された剣バルーク。それはあっという間にドラーニを両断し、彼は何もわからないまま絶命した。マリアも起こった状況を飲み込めなかったが、自身に向けられた憎しみと狂気が眼前から消え去ったことだけは理解できた。自身に覆いかぶさったドラーニの一部をガルクがどかすと、彼女は静かに涙を流した。




 ***



 騒ぎを聞いて地下牢まで来た兵士たちによって、マリアは保護された。助けられた彼女の胴を斜めに走る深い傷は、見る者に痛々しい印象を与えた。しかしそんな傷も辛うじて致命傷には至らなかった。それが少女を手に掛ける抵抗感から無意識に手が緩んだのか、それとも刃があまりにも粗末な手製のものだったからなのかは定かではない。医者は、恐ろしいほどの幸運であったと目を見開いた。


「ガルク」


「マザー、お体に障ります」


「イジャンと……ドラーニは」


 ガルクは黙って首を振る。マリアは力なく息を吐いて、意識を失った。

 彼女が運び込まれた部屋を守るようにしてガルクは扉の前に立つ。彼はゲルドラフを捕まえた時のことを思い出した。奴の本心はわからないが、言っていたことは中央に来る前のガルクが考えていたことに似ている。


 ――暗君ではそれは難しい。だから今、新しい秩序を迎えなければならない。


 直後、彼の頭の中にアぺレジーナの顔が浮かんだ。


 ――都合が悪くなったら挿げ替えればいいなどという考えは、浅はかが過ぎます!


(オレは自分が言った事がどういうことなのか理解していなかった)


 自分の浅はかな考えが実際に行われるとどうなるのか……省みたガルクは激しい悔恨に苛まれた。


(マザーになれなんて軽々しく言うもんじゃなかった。見えなかったものが見えてようやくわかるなんて、胸クソ悪い)


 マリアの怪我の原因ではないにしても、その考えの恐ろしさが嫌という程身に染みる。さらに胸の中で騒ぎ続ける「何か」が、彼の心を蝕んでいた。


「瘤のような澱みがあるようだな。小僧」


「ヴァルカン――なんだ、それは」


 ズシ、ズシと地響きを伴わせてやってきたのはヴァルカンだった。ガルクがマリアと会って以来姿を消していた人物だ。ことが終わった後の登場にガルクはうんざりする。そしてその姿はまるで先ほどまで虐殺をしていたかのように血まみれだった。


「些事だ」


「この……! 今さら何しに来やがった。今まで何処に――」


「我輩はマザーより特命を得ておるからな、各地の調査で忙しいのだ。それより………………」


 ヴァルカンはガルクの顔とその後ろの扉を見て、ふむ、と目を細める。そしてほとんど察したといった様子で腕を組んだ。


「ここへ来るまでに、ゲルドラフの件は聞いた。それで」


「それで?」


「その部屋にはおそらく、マザー・マリアがいるのだろう。お前の様子とその手に付いた血を見るに、彼女は死ぬほどではない負傷をしている。違うか?」


「察しがいいな」


 ガルクは皮肉を込めて言った。


「だがそれで終わりだ。オレはゲルドラフを追いかけるのに夢中でマザーを守れず、ドラーニも殺してしまった。それでこの一件は終わり、胸糞悪い、恥まみれの終わりだ――グガッ!」


 ガルクの頭に衝撃が走った。ヴァルカンの拳が彼を打ち据えたのだ。強烈な眩暈に彼は膝を付き、思考にも霞がかかる。柱に寄りかかり、ガルクは相手を睨みつける。


「て、めぇ!」


「勝手に終わらせるな。物事に終わりなどないぞ、小僧。一つ一つは独立せず、あらゆる事象が関係しあっている」


「な、なにが言いたい!」


「マザーを襲ったのは誰だ」


「……ドラーニだ」


 頭の霞が徐々に晴れていく。一緒にガルクの中にあった違和感が輪郭をみせた。


「ドラーニを中央へ連れてきたのは」


「ゲルドラフだ」


「何故」


「何故って…………ゲルドラフが保身の為に――」


「それは奴の言い分なのだろうな」


「い、いやちがう。あれはお前が殺した――うっ」


 保身の話はシュテから聞いたことだ。ガルクはまだ、ゲルドラフがドラーニを中央に連れてきた理由を知らない。

 彼は考えた。輪郭を現した違和感が、正体を掴めないまま存在感だけを増していく。彼はそれが本当に不快だった。


「そもそもどうして(ゲルドラフ)は、マザーを殺すのにドラーニをけしかけたんだ。立場的に、暗殺者を招き入れることだってできるだろうに」


 徐々に回復する眩暈と一緒に、思考も澄んでいく。


「そうだ、疑問は口に出せ。頭の中で回しても答えは出ん」


「『反乱を扇動する勢力の一人』ってのも妙な話だ。代理人の立場なら、それこそ中央に連れてくる意味がない。その事案に対処する権限を奴は持っているはずだ」


「我輩がわからぬのなら、お前にわかるはずもない。しかしお前が知っていて我輩の知らぬ情報があれば話は違う」


「オレが?」


「そうだ、精々思い出せ。この件は聞くほどあらゆることが中途半端だ。ゲルドラフには別の目的がある。確実にな」


 理由の分からない移送。殺されなかったマザー。ドラーニが鍵になっていることは確かだ。おそらくドラーニ自身はそのことを知らないだろうとガルクは思った。彼はゲルドラフに最期まで利用された哀れな人だ。


「ゲルドラフはドラーニに接触した後、朝方に逃走した。多分、奴の汚職の証拠が集まっていることを察したんだろう。でもなんでそこまで焦る? 汚職で捕まることと、ドラーニをけしかけることに何の関係が?」


「民から不当に得た金は巧妙に隠されていたが、ヴァパに送られていることがわかった。ヴァパに奴の協力者がいるということだろう」


 ガルクはますます混乱した。ヴァパと言えば同盟の中で一番大きな都市だ。彼も蟲人の領地で過ごすうちに何度もその名前を聞いたことがある。しかしヴァパはゲルドラフと繋がっても、ドラーニとつながっているとは思えない。


「ドラーニはシュテと一緒に他の街で商売をしていた。でもヴァパへは遠すぎる。村から出ると言っても………………村!」


 弾かれたようにガルク頭を上げた。違和感の正体が霧の中から突如姿を現したのだ。


「ほう」


「なんでオレは気づかなかったんだ! 村だ! ドラーニはアぺレジーナと同じ村に住んでる、二人は……二人は反乱事件の生き残りじゃないか! ゲルドラフはあの事件の生き残りを抹消するために、ドラーニを使ったんだ!」


「ここは我輩がおる。行け」


 ガルクは飛ぶようにして走り出した。体中に土の魔法を惜しげもなく巡らせ、四肢を使って、一匹の大きな獣のように地を駆ける。

 ゲルドラフは知っていた。そうでなければ、わざわざドラーニをマザーへ近付けたりしない。さらに言えば、マザーは別に殺されなくともよかったのだ。蟲人族の厳しい階級社会で上位の者へ危害を加えたとあれば、激しい報復が待っている。相手が最上位階級のマザーともなれば、報復はどれだけの規模になるだろう。


(ゲルドラフ)は知っていた、知っていて口実を作ったんだ! )


 アぺレジーナが危ない……その思いが彼をひたすら前に押し出す。

 馬でも二日かかる距離を一日で走破し、心臓が破裂しそうに脈打っても彼は止まらなかった。丘の向こうから立ち上る幾筋かの黒煙が見えても、そんなはずはないと自らに言い聞かせた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ