6 選択-1
ゲルドラフの最後の一日は、逃走から始まった。早朝の城内には不穏な空気が漂っていた。妙な胸騒ぎを感じた彼は、従者を呼ばずに急いで身支度を整える。捕縛のための兵士たちが部屋に突入してきたとき、ゲルドラフはすでに中庭に繋がれた馬を目指して窓から飛び降りていた。
バルコニーに着地し、屋根を滑り落ちて地面に体を打ち付ける。警備兵の詰所を横目に見ながら走り、中庭へ突き進んだ。
自分に向けられる怒声と悲鳴。逃走がそう長く続かないことは容易に想像できた。それでも彼は目的のため、できるだけ長く、遠くへ逃げようと決意する。
ゲルドラフが馬に飛び乗り、手綱を振るうと同時に、離れた扉から大勢の兵士たちが現れた。彼らが見たのは、風のような速さで馬を巧みに操り城門へ向かうゲルドラフの姿だった。
「ガルク殿、お願いします!」
ゲルドラフは馬を全速力で走らせつつ心の中で悪態をついた。ガルクという名前には聞き覚えがある。あの厄介者ヴァルカンに付き従う竜人族だ。マザー・マリアの専横により行動が制約される中、あの男のせいで計画を急がなければならなかった。ドラーニとの接触は成功したが、そのために何か他の問題が生じたのかもしれない。
彼は城門を抜け、大通りへと向かった。夕方ほど人通りは少ないが、それでも馬が進むには邪魔だった。それでも彼は住人たちを気にせず、手綱を振り続けた。
「ゲルドラフ! 止まれーっ!」
爆発に似た怒声が響くと、彼の乗った馬は怯えて速度を上げた。住人たちはすくみ上り、声のした方へ一斉に振り向く。しかしゲルドラフは制御の利かなくなった馬を操るのに必死で、それどころではなかった。大通りを街の外へ向かって走り、その距離が長くなるほど跳ね飛ばされる住人も増えていく。
「ああクソッ大丈夫か! ゲルドラフ!」
(ガルクとかいう竜人族か。お前では大通りは自由に動けまいよ)
ゲルドラフは逃げ切れると確信していた。
しかし、すぐに迫ってきた気配に背筋が凍った。重量物が滑り跳ねる音が連続して響く。
ガルクが大通りに連なる家々の外壁を登り、屋根伝いに追いかけてきている。彼の体重も、石造りの壁なら耐えられた。土属性の魔法で強化された彼の肉体は、容易に自分の体を宙に投げ出す。
そして、ガルクは屋根の上からゲルドラフと並走するまでに追いついた。
「逃がさねぇぞ……うおおおっ!」
「うわああっ!」
ひときわ大きく飛び上がった影に人々は一斉に悲鳴を上げ、散った。ガルクの踏みつけた地面に彼の魔力が伝播し、強烈な地響きが周囲を襲う。人々は手を付き、石畳は割れ、飛び上がった馬は側の壁に激突した。
ガルクは追跡を緩めない。横たわる馬、そしてすぐ脇の路地に入っていくゲルドラフの姿を確認すると、即座に走り出した。
「あ、あの竜人族、なんて無茶なことを」
ゲルドラフは服に付いた汚水を払う暇もなく、裏路地を縫うように走った。財務を司る家に生まれた彼の身体は、主にペンを走らせるためにあった。息を切らしながら城からできるだけ離れようと走り続けるが、そんなことが長く続くはずがない。適当な物陰で腰を下ろし、小休止を取る。
ガルクが路地に入ると、すぐに相手の足音が聞こえなくなった。ゲルドラフが隠れていると判断した彼は、泥状の地面を目を凝らして観察した。特徴的な足跡が廃屋の影へと続いている。耳を澄ますと荒い息遣いが聞こえてきた。彼は思い切り、廃屋の壁に拳を叩きつけた。
「逃がすか!」
「ひいいっ!」
土属性で強化されたガルクの拳は土の壁を突き破った。背にした壁が吹き飛ばされ、地に伏す間もなくゲルドラフは彼の手に掴まれる。
巨人のように大きな拳は硬く、ゲルドラフは逃げ出せない。地面に叩きつけられた彼の身体は、恐怖と激痛で指一本すら動かなかった。
「捕まえたぞゲルドラフ。お前を縛るに足る証拠はもう揃ってるんだ」
「わ、私は蟲人だけを守るつもりはない」
「ああ?」
言い訳をオレにするな、とガルクは縄を取り出しゲルドラフをきつく縛り上げていく。その間もゲルドラフはブツブツとうわ言のように呟いた。
「竜人族よ、わかるでしょう。今のマザーは国を治める器ではないのです。この通りにある酒場に行ったことがありますか、皆先々代を称える歌ばかり歌っている」
「器でなくたって、課せられたらやらなきゃならないんだろうが」
「それで不幸をこうむるのは民の方です。蟲人族は秩序をもって生活と歴史を紡がなければならないのです。暗君ではそれは難しい。だから今、新しい秩序を迎えなければならない」
「なに訳の分からないことを。自分の地位が危なくなったからって、ドラーニみたいな奴を何人も葬ってきたんだろう!」
「ドラーニを? ははは竜人族よ、お前は何もわかっていない」
ゲルドラフの嘲笑に腹を立てたガルクは、とりあえず相手を再び地面に叩きつけた。
「処刑が長引いて痺れを切らしたお前が、ドラーニが余計なことを話すのを恐れてあいつを殺すために接触した。違うか」
「ド、ドラーニ、ドラーニか……哀れな農民階級だ。何も知らず、私の眼に映らなければよかったものを。低層の者は目の前の仕事をこなし、ただ蟲人族の為に生を捧げていれば」
「なに」
「ただ不運だったのですよ、彼は。しかし偉大な未来の為に命が使われるのだから、彼も光栄でしょう――ぐぅっ」
ゲルドラフの体格は平均的な蟲人とそう変わらない。しかしガルクにしてみればあまりにも細い。首など指で弾けば折れてしまいそうだ。
石像のような重さと硬さの手で、ガルクはゲルドラフを拾い上げた。
「さっきからゴダゴダと」
「私は何もしていない」
「横領と虚偽の報告は証拠が上がってるんだ。妙なことは――」
「ただ『望みを叶えろ』と言っただけです。平和の為に……後の世の為に」
「望みを叶えろ?」
それが一体どういう意味なのかガルクは問いただそうとしたが、ゲルドラフは以降頑として口を開かなかった。ガルクは嫌な予感がして城へ向かう。適当な衛兵にゲルドラフを預けると、その足は速さを増して彼を運ぶ。何か不味いことが起こっていることだけは彼にもわかった。胸に穴を開けるような焦燥感は、ガルクをまっすぐに城へと向かわせた。
***
城に戻ったガルクは、マリアの姿が見えないことに一層の不安を募らせた。適当なマザーの家臣を捕まえて彼女の居場所を聞き出す。鬼気迫るガルクの表情に家臣たちは震えあがって地下牢に行った事を話した。
「地下牢……ドラーニか!」
そこへ至る階段を飛び降りながら、ガルクはゲルドラフの妙に余裕がある態度を思い出す。あれは、自分や兵力を城から引き離すためではないか――。そんな考えが浮かぶ。だとすれば、今が一番危険だ。怪物の腹の中へ誘われるような螺旋階段は、下方が闇に覆われている。それがガルクの不安を無限に増幅させる。
「――!」
ガルクが下層に付いたと同時に、静かな牢に甲高い悲鳴が響いた。「マリアだ!」ガルクはそう直感したが、同時に「マリアじゃない!」と祈った。きっと吹き込んだ風だ。建付けの悪い格子戸が起こした金属音だ。そんな懇願にも似た思いは、看守の待機部屋を蹴り開けた瞬間脆くも崩れ去った。
「マリア!」
刃物を振り上げるドラーニと、冷たい床に倒れ伏すマリアがガルクの目に飛び込む。倒れたろうそくが、傍らに横たわる看守の死体を照らしていた。
背を向けたドラーニの表情はガルクから見えない、しかしその手を見れば彼が殺意に支配されていることがわかる。
マリアが部屋に飛び込んできたガルクに気付く。助けを求めようとした手が彼に向いた瞬間、狂気の切っ先が振り下ろされた。




