1 悲劇の犠牲者、アぺレジーナ・ヴィヴィ
ガルクは勇一を抱きしめ、これから何をするべきか考えようとした。
しかしいざそう思っても、なぜこうなったのか、止められなかったのか、どうすればよかったのか……そんな考えても仕方のないことが土石流のように押し寄せ、思考を混乱させた。
(また、間違ったのか)
かろうじて残っていた彼の意思は、そんな錯綜とした思考に混じって現れた過去の記憶を拾い上げた。
それは二人が再開する半年前、ガルクが滝に落ちたしばらく後のこと。流れ着いた先で彼は、とある蟲人の女性と出会った。彼女は後に起こる悲劇の犠牲者の一人として、永遠に彼の記憶へ刻まれることになる。
彼女の名は、アペレジーナ。
***
「うぐ……ゲェェッ! エホ、ゴホ」
ガルクは大瀑布の奇跡的な生還後、河原で目を覚ました。意識を取り戻すと同時に、彼は大量の水を吐き出した。
重い体を上げて這いずりながら水辺を離れる。彼が辺りを見渡すと、そこが人の手の入っていない河原であるということがわかった。流木とともに長い旅の果てに岸に打ち上げられたのだ。青々とした木々が日の光を遮り、上陸する者を阻もうとしているかのように生い茂っている。
黒い巨体が側の岩に預けられると、彼は大きく深呼吸した。すると少しばかり余裕が生まれたのか、自分の現状について考え始める。
(オレ、生きてんのか。それとも魂がとっくに星になってて、今見えてんのは幻なのか)
彼は息を整えつつ静かに落ち着くのを待つ。体が冷え切っているせいで確認に時間がかかったが、複数の打撲痕以外に大きな怪我はないと分かって安堵した。
(いてて、とりあえず生きてる。首飾りも、バルークも……よかった、全部ある。何も流されてないなんて信じらんねぇ)
村から出る前に身に着けていたものは何一つ失われていない。彼はふらつきながら立ち上がると、木々の中へ分け入っていく。
(ひとまず、もっとまともな所で休もう。ここがどこだかも――)
彼はハッと頭を上げた。ざわめく草木の音の中に悲鳴が混じっていたのだ。充血した目を見開き、反射的に声の方へ駆け出す。
「幻じゃねぇな。よし、待ってろよ!」
めまいも痛みも、既に彼の頭からは消え去っていた。
一度しか聞こえなかった悲鳴の方へ向かって、ガルクはとにかく走った。草木を踏みつけ、打ち払い、突き破って一直線に走る。生い茂る自然は彼にとって障害にならない。
やがて彼の目は草葉の間にそれを捉えた。よだれをたらす一匹のゴブリンと、その視線の先に数人の蟲人。腰を抜かしてひと固まりになる蟲人たちの前には、彼らをかばうようにして別の蟲人がゴブリンに対峙していた。
「なんだあいつら、丸腰かよ」
ゴブリンに向かって木の棒を振り回す蟲人を見て、ガルクはさらに速度を上げる。仲間を守ろうとする気概は立派だが、それを適切な装備もなしに行うのはただ死にに行くようなものだ。
そうして悲鳴の現場に到着した彼の目に、黒に縁取られた透き通るような青色の翅が飛び込んできた。
「みんな、大丈夫よ。私が、私が何とかするから!」
獣を殴りつけるにしても頼りない棒きれだ。しかし彼女は震える手でそれを振り回している。決死の思いでいることはガルクにも伝わってきた。
彼は叫んだ。
「そこの! 伏せろ!」
「ひっ!」
蟲人たちは突然の怒号に反射的に身をかがませる。直後、彼らの耳にタンッという短い破裂音が聞こえ、その後静けさが周囲を包んだ。
数秒して彼らが恐る恐る顔を上げると、地面に転がる両断されたゴブリンの体が目に入った。さらに視線を上げると、今度は彼らを睨みつける黒い鱗の竜人立っている。
ゴブリンの死体とガルクを交互に見る蟲人たち。しばらく漂っていた静寂を破ったのは、先頭で棒を持っていた蟲人だった。くたりと下を向く触覚を揺らして、霞んだような声を出す。女性だ。
「どなたかは、存じませんが――」
「護衛も武装もないのかよ! 死にたいのか!」
「うっ……」
蟲人の女性は立ち上がろうとして再びへたり込んでしまった。棒を握った手は死を目前にした恐怖にまだ震えている。その背後には、より小さな蟲人が数人。ガルクにもそれが子どもであることはわかった。女一人に子ども数人。明らかに旅をする装いではない。
途端にガルクはむかっ腹が立った。気づけばへたり込む蟲人の女性を怒鳴りつけていた。
「ゴブリン一匹殺せねぇ奴が、ガキ何人連れてんだよ!」
「うっ……」
「手の込んだ心中か、どっかから逃げてきたか……どっちにしろ命知らずなことしやがって」
「やめろー!」
女性の後ろから小さな影たちが飛び出してきたかと思うと、彼らは黒い触角を揺らして女の間に立ちはだかった。
自分の半分にも満たない大きさの影が足元に来たものだから、踏みつぶしてしまわないかとガルクは後ずさる。
「お、お姉ちゃんは、僕たちをさ、探しに来てくれたんだ!」
「ひどいこと言わないで!」
「ペトラス、ハニクサ、フィレオン!」
女性は黒い腕を伸ばして子どもたちを抱き寄せ、今度こそ立ち上がった。細い体と六肢が、風に吹かれても折れない葦の様に立っている。その姿と落ち着いた雰囲気を前にしたガルクは、自らの高ぶった感情が萎えていくのがわかった。
「私は大丈夫ですよ、まずは助けてくれたことにお礼を言いましょうね」
子どもたちもその声に従い、渋々とガルクから離れていく。
「いや……頼まれたわけじゃねぇんだから、礼なんて」
「いいえ、こんな時だからこそ感謝はすぐに伝えなければいけないんです」
女性と子どもたちは感謝の言葉と共に深々と頭を下げた。装いに反してとても礼儀正しく、感謝されたガルクの方が戸惑ってしまった。
「それで、事のついでと言っては何なのですが……」
「あん?」
「先ほどあなた様は、護衛も武装もなく……とおっしゃいました」
「ああ」
「私たちを村まで護衛して頂けないでしょうか」
あまりにはっきりとした申し出にガルクは面食らった。彼女らはなんの装備もないので、元居た場所へ戻るには護衛が必要だ。ここで断れば、ガルクは彼女らを再び危険な道のりに放り出すことになる。それは彼の良心が許さない。
「あんた、なかなか強かな奴だな」
「そちらも遭難の様相ですし、お礼に食事と寝床くらいでしたら提供できます。それと――」
女はガルクを待っすぐ見つめ、四つある手の内の一つを出した。
「私は蝶種の蟲人、名前をアペレジーナ……えっと、アペレジーナ・ヴィヴィと申します」
自分の気持ちを利用されているような気がする。そうガルクは思ったが、この後自分に行く当ても無い。彼は一呼吸だけ考えるふりをして手を差し出す。
「ああ、そうか。わかったよ。あまり長居する気はないからな……ガルク・フォーナーだ」
小さな手と指先で握手して、ガルクも名乗った。
「フォーナー……ああ、これは何かの巡りあわせでしょうか。英雄様のご親族と会えるなんて」
「家族の話をするつもりはない。あまり深入りするなよ」
「……申し訳ありません」
「フン。案内しろ」
戸惑うアペレジナの表情を伺う余裕などガルクにはなかった。ゴブリンの死体に目もくれず歩き出した彼に、慌てて蟲人たちがついて行く。
湿気の混じった不快な風から逃げるように、五つの人影は消えて行った。




