18 師の正体-1
「よくここまでたどり着いた、ガルーダル。しかしお前の姿を見るに、相当厳しい道のりだったのだろう」
ようやくたどり着いたヴァパ。頼りになるはずの師を前にしてガルーダルは視線を泳がせていた。暖炉では炎が踊り、ちらちらと揺れる影が不安を煽る。外はすっかり日が暮れていたが、部屋では人工の光が闇を払っている。
目の前に座る恩師ナミル・シャッハは、彼女にスープを飲むよう促した。
「本当にその怪我は大丈夫なのか」
「え、ええ。然るべき所で治療いたしますので……」
ヴァパへ到着したのも束の間、二人は「迎え」と称した者たちに半ば誘拐されるように連れてこられた。二十人は暮らせそうな石造りの建物……「ここは安全だ」とナミルは労った。
「あの、えっと……」
有角族に変装していた勇一は屋内に入るなり別室へと連れて行かれてしまった。薪が纏う炎が衰え始めても彼が現れることが無かったので、ガルーダルは玩具をなくした子どものような不安に駆られてしまう。
ここは私が管理している兵舎だ、とナミルは深く椅子に腰掛けた。彼女の部屋には二人だけだが、廊下を彼女の仲間たちがせわしなく行き来している。彼らの姿がどう見ても正規兵には見えなくて、ガルーダルは何となく縮こまってしまった。
(なんだか居心地が悪いわ……ナミル様って、こんな悪趣味な、いや……特徴的なものが好みなのかしら)
彼女が通された最奥の部屋は、豪華絢爛な装飾に埋め尽くされていた。赤い絨毯に背丈ほどもある水晶の置物、机の上には金細工、壁にも金、金、金、金……。訓練時代には見たこともなかった師の趣味に少なからず辟易の感情を覚えてしまう。
「ナミル様、遠くから見ていた黒煙が居住区を焼いているものと聞いて驚きました。ここであれほどの被害が出るなんて、一体何があったのです」
ヴァパに到着した二人が見たのは、通りのあちこちに座り込む煤にまみれた人々と、その向こうにそびえる黒煙だった。ヴァパほどの巨大な都市でどうしてこれほどの火災が起きたのか、人々は泣くか呆然とうずくまるばかりで二人が欲しい情報は得られなかった。
彼女の問いにナミルははっきりと顔をしかめる。
「二日ほど前だ。突如、ここの真上に亀裂が現れたのだ」
「亀裂⁉」
ありえない話にガルーダルはわずかに前のめりになる。
「し、しかし亀裂は人がいない場所に出るはずでは」
「現にあったのだ。居住区は恐ろしい被害を受け、大勢が死んだ」
「それではどうやって」
ヴァパに到着した時点でゴブリンどもの姿も声もなかった。では奴らはどう殲滅されたのか、昇る黒煙が物語っていた。ナミルは険しい視線を炎に向けると、ぴんと張った髭を一度なでる。
「被害が広がる前にな、兄上が焼却の命令を出した」
「兄……パンテラ様が。って、焼却!?」
亀裂から土石流の様に現れ、周囲を食い尽くすゴブリンども。居住区からの避難を待っていれば被害はさらに広がるだろう。ナミルの兄、獣人族首長パンテラ・シャッハは、逃げ遅れた住民共々焼き払うことを選んだとナミルは説明した。
「兄上は一度決めたら頑として譲らぬ人だ。間の悪いことに、焼却直後にヴィヴァルニア軍が国境へ迫っているとの報告がきてな」
「!」
「他の賢者たちを説得し、兄上はヴァパ周辺の同盟軍を率いてカパル平原へ向かった。各地へも檄を飛ばし、万を超える兵が集まっていると聞く」
「そ、それではダラン様は」
「他の賢者もともに向かい、すでに陣に居られるはずだ」
「そんな……間に合わなかった…………」
同盟軍は国境を越えようとするヴィヴァルニア軍と衝突する。そうなってしまったらもう、どちらかが絶えるまで止まらないだろう。ガルーダルはうなだれ、拳を握りしめた。
言うならば「第二次大陸戦争」……サンブリア大陸は尽く赤く染まり、崩壊する。せっかく勇一がくれた命が無駄になってしまった事実に彼女はうろたえ、涙をにじませた。
今にも消えてしまいそうな様相でいるガルーダル。ナミルはそんな彼女を見て「ふむ」と腕を組む。
「……ここから同盟軍陣地まで、およそ一日か」
ナミルへ救いを求める視線が向かう。
「それでは間に合いません、戦いが始まってしまったら……。ああ、どうすれば」
「戦いの空気が伝わってこない……まだ猶予はある。早馬を乗り継いでいけば、おそらく半日か……もっと縮まるやもしれんぞガルーダル」
ナミルは立ち上がると、自身の机から一枚の札を取って来た。うずくまるガルーダルによく見えるよう目の前に差し出す。
「三賢者が居ないだけで混乱がこれほど長引くとはな……私は引き続きここに残って、混乱を収めなければならない。お前は一番の早馬が使えるこの札を持って行きなさい」
彼女はガルーダルの手を取り、紋の描かれた木札を握らせる。輸送や移動の際に使える馬の中でも、一番良いものを使える証。ヴァパを治める一部の者にしか与えられない特別なものだ。パンテラ・シャッハの親族であれば持っていても不思議ではない。それはすっかり擦られ、縁を囲う金属の装飾はくすみ、暖炉の光を反射している。
希望がつながった……わずかな可能性ではあったが、ガルーダルは飛び上がって泣いてしまいそうな感情を抑えるのに必死だった。受け取った手は震え、まじまじとそれを見つめる。
「さあ早く行け。時は待ってはくれんぞ」
「ありがとうございます……ありがとうございますナミル様!」
ガルーダルは立ち上がると即座に踵を返し、扉へと向かう。しかし取っ手に手をかけたところで振り返った。何となく心に穴が開いたような気がして、すぐに勇一の顔が浮かんだのだ。彼は知り合いのつてでヴィヴァルニアに帰ると彼女は聞いている。彼がいなくなってしまったら、彼の魔法で蘇生した自分はどうなってしまうのだろうと一抹の不安を覚える。
「ここへはユウと言う名の青年と共に来ました。彼と話をしたいのですが」
「彼なら、もう帰した」
「え?」
「彼は我々とは無関係だ。軍人でもない者を、いつまでも置いておくわけにはいかん」
そんなわけがないとすぐにガルーダルは思った。彼とは一緒に戦った仲だ。ここへ来た時の様子を見れば、ナミルだって二人の関係は想像するのに難くないだろう。彼女はここへ来てから感じていた不安が一気に広がっていくのを感じた。目の前の師が、とてつもなく恐ろしい怪物に見えた。
「ユウを……どこにやったのです」
ナミルの琥珀色の目が光った。
***
――上野勇一、起きなさい。
「な、なに……うごぁっ!」
――上野勇一、起きて。
勇一の背に、物理的な衝撃が走った。
まどろんだ意識が一気に覚醒へ向かう。彼は自分の体が乱暴な扱いを受けているのだと直感した。
やがて瞼の向こうで揺れるのがランタンだと認識できるようになると、勇一は眼を開いた。その視線が最初に捉えたものは、今まさに自分へと振り下ろされようとしている巨大な包丁だった。
「――うわああぁっ!!」
彼は反射的に身をよじらせると、勢いそのままに乗せられていた台座から転げ落ちた。直後、先ほどまで自分の頭があった場所に刃が突き立てられる。ゾッとした勇一は台座を挟んで立つ人影に目をやった。と同時に、鼻を貫く腐臭と室内の光景に顔をしかめた。
部屋の壁を覆うように小さな檻が積み上げられている。子どもが一人丸まってようやく入れるような檻だ。彼が目を凝らすと、それに入れられた犬や豚のような動物に紛れて、本当に子どもが入っている檻があるではないか。
「ここは……⁉」
「んがぁ、う、うご、うごくなぁよお」
台座だけを照らすように天井に備え付けられたランタンの光は頼りなく、かろうじて部屋の大きさがわかる程度だった。弱弱しい明りが声の主を明るみに出すと、思わず勇一は息をのむ。
天井に付くほど大きな体躯の男。薄暗い明りの下でもその人物が豚の皮を被っているのだと分かった。でっぷりと突き出た腹は血と脂で汚れ、ひどい悪臭を放っている。生まれてからずっと体を洗ったことすらないような臭いだ。豚皮の目を通して覗くつぶらな瞳が勇一を見つめていた。男は台座に刺さった包丁を引っこ抜くと、ふしゅうふしゅうと鼻息荒く勇一に迫る。
勇一は常に台座を二人の間に入れるようにして距離を取った。そしてマナンを抜こうとして手が空振り、全身から汗を噴き出した。
(……マナンが!)
「そ、そこ、そこを、う、ご、く、なあぁぁぁー!」
「くっ、だったら!」
武器すらない状況で一体どうやって生き残ればいいのか。彼は考える前に行動する。近場にある檻の山を手当たり次第に崩し始めたのだ。覚醒直後の一撃で豚面の男は敵だと断定した。この部屋も敵の領域なら、とにかくめちゃくちゃにしてやる……と暴れまわる。
「動くに決まってんだろ! ついでにぶっ壊してやる!」
「あ”ぁっ! や、やめ、やめろっ! やめてぇ!」
ランタンが揺れ、部屋の広さがわかる。床一面の赤い色が見える。小さな檻に閉じ込められた小さな影がさわさわと動く。勇一の崩した檻たちはあっけなく壊れ、中の影たちも興奮した様子で飛び出してくる。何人もの子どもたちが奇声を上げながら周囲の檻に飛びついた。勇一と同じように檻の壁を上から崩してく。
足元を駆け抜けていくそれらの姿が目に入ると、改めて勇一は胸が痛くなった。彼らは一様に瘦せこけていて、腕がなかったり一部の皮が剝がされているのだ。闇雲に手を振り回す子どもの両目は縫い付けられていた。そんな彼らが半分、もう半分は豚やら犬やらが糞尿にまみれて閉じ込められている。
ここがどんな部屋かなど勇一は知りたくもないが、完全に台無しにしたところで悲しむのは豚面の男だけだと彼は思うことにした。男の腕をすり抜け逃げ回る子どもたちを見て、彼は叫んだ。
「扉を開けろっ! 生きたいなら走れ! 走れ走れ走れ!」
「は、はし、走るな! と、とま、とまれ! とまってよおぉ!」
この部屋唯一の扉に殺到する子どもたち。巨体を揺らして悪臭を振りまき、逃走を阻止しようとそこへ体当たりする男――鈍い衝突音――粗末な扉にはあっという間に大きな亀裂が入り、痩せた影たちはみるみるうちに流れ出る。そんな光景を横目に、勇一はさらに檻の破壊に勤しむ。解放された動物たちは滅茶苦茶に走り回り、子どもたちは立ち上がった男の股をくぐってさらに扉の向こうへと消えていった。
「わああああ! お、おし、おしご、おしごとおおおおぉーーっ! や、やめ、やめでよおおーーっ!」
「このっ! こんなものっ!」
豚面は巨体を震わせて起き上がる。彼は振り返ると、出て行った子どもたちに目もくれず破壊をやめない勇一に襲い掛かった。
勇一は自分を捕えようと振るわれる腕を一回、二回と避けていく。その間も破壊の手は止めない。格子を引っこ抜き、蹴り飛ばし、力いっぱい檻の山を崩していく。死臭が充満し、ぶら下げられた肉塊にハエが集り、真っ赤な床と窓一つない壁、まるで怨念のるつぼのような室内を縦横無尽に駆け回る。
しかし不運にも赤い染みに足を取られ、豪快に転倒してしまった。その足を遂に掴んだ男は、意味不明な言葉をわめきながら涙を流し、凄まじい力で勇一を玩具のように振り回す。
「やべてよおおおォォォォーーーー!!」
「うおああああああーーーーーーッ!!」
勇一の服は遠心力でめくれ上がり箒のように振り回された。このままでは上ってきた血液が顔の穴という穴から飛び出てきそうだ。檻の山、扉、檻の山、檻の山、檻の山、扉……彼の視界はそれらを高速で延々と繰り返している。
ズルリ。
しかし突如、不潔極まりない男の手から勇一の足がすっぽ抜けた。一瞬の浮遊感、直後に衝突。それらか視界が一気に明るさを取り戻し、彼はしばし瞬いた。
(ぐは……扉を突き破って、廊下に出たのか……)
忌々しい部屋から脱出した先は、石造りの廊下だった。飾り気のない灰色の通路は片方にだけ伸び、ここは廊下の突き当りであることがわかる。あの部屋よりも照明が機能しているのがわかり、脱出の第一歩がなされたと分かった彼の顔はわずかに緩んだ。しかし
「……っ!」
部屋の出入り口を挟んで、豚面の男が彼を見つめている。勇一は即座に立ち上がろうとするが、投げ飛ばされた衝撃が彼の体の自由を奪っていた。
男が少し腕を伸ばせば勇一に届く。もう一度あの呪われた部屋に入るのはごめんだと、勇一はギリと男をにらみつけた。
「お、おし、おしご、おしごと、しないと…………」
豚面はまるで何事もなかったかのように落ち着きを取り戻すと、部屋の奥に消えてしまった。そしてすぐ骨を砕くような音が響き始めた。
勇一はゆっくり立ち上がりつつ、不可解な豚面の態度を怪訝に思う。どうも男は自分の領域から出たくないらしい。それこそ彼の城を滅茶苦茶にした勇一を無視するほどに。それならば、と彼は埃を払った。子どもたちは全員脱出できたようだし、いつまでもとどまる理由はない。今すぐに移動しよう……そう息を整えたところで、ガルーダルを探さなければと廊下の奥を見やった。
(ガルーダル……)
「ね、ね、兄ちゃん」
子どもの一人が勇一の肩をつつく。
「だれか、いっぱいくるよ」
茶色い毛むくじゃらの指が廊下の先を指した。耳を澄まさなくとも複数の誰かがやってくるのわかる。ガチャリガチャリという金属の擦れる音は鎧らしい。状況は彼らに考える時間すら与えてくれなかった。
(迷いなくこっちに向かってくる……敵!)
「お前、名前は」
「ダーリュ」
「ダーリュ、この子はお前が導け」
勇一はダーリュに、目を縫い付けられた子を託した。そして壁に掛けられた剣を手に取る。
「生きて出られないかもしれない……けど、あそこで死を待つよりはるかにマシだ。そう思い込め。そうしなきゃやってられねぇ」
ずっしりと重い模造刀を担ぐと、勇一は身を屈めて走り出した。
「走れ!」
怒声は現れた者たちの先頭を一瞬ひるませた。その開いた面頬に、深々と模造刀が突き刺さった。




