11 魂剥ぎ
悲鳴は木々の間に吸い込まれていった。勇一は胸を突き破りそうな痛みを耐え走り続ける。早ければ早いほど良い。
――毒を扱う者ならば、自分用に解毒剤を用意しているだろう。
彼が急ぐのは、毒ガスの解毒剤を求めてのことだった。
その希望にすがるしかない。もしハニガンが考えなしに毒物を扱うような人物ならおしまいだ。しかし彼は、それでも足を止めるわけには行かなかった。
「お前……」
自らの麻痺毒に冒され、地を這ってもがくハニガン。一つの村を壊滅させ、瞬く間に百はくだらない人命を奪った人物。しかし大きなナメクジのようにもがく今の姿は、滑稽ですらあった。
ハニガンはのっそりと勇一の方を見ると、痙攣する口角を上げてフンと嘲笑う。
「なん、だ……ブラキアの、ガキか」
「お前は、やったことの報いを受けろ」
「報い? それならまず、あの女に、受けさせなきゃ……ね。ははは」
「なに」
「一回二回助け合ったからって、信じるんだ……まったく何も知らないガキ、らしい」
「……」
「アタシの姿が、面白いか? アンタも、いずれこうなるんだ。それかあの女の仲間みたいに、切り捨て、られる」
(こいつは何を言ってるんだ)
全く理解できなかった。この女は泣くでもなく命乞いをするでもなく、ただ勇一を嘲笑っている。
「あのガス……霧の、解毒剤は」
「さあね……探して、みな、よ」
「……!」
これ以上は待てない。今この瞬間にも、毒は勇一の体を蝕んでいる。彼女の腰には数個の小さな鞄。どれに何が入っているのか、どれが毒でどれが解毒剤なのか、彼にはわからない。
ろくに動けないハニガンの腰から鞄を奪い取ると、勇一はすべてを逆さまにした。バラバラと落ちる包み、小瓶、用途のわからない道具。彼にはどれがなにか想像もつかない。しかしこれだけは確信できた。
(道具の種類が豊富にある……手袋、綿、ピンセットのようなもの…………間違いない、こいつは知識を持ってる。だったらあるはずだ……解毒剤が!)
「うっ……ぐ、うぅ」
「どれだっ、たかな……適当に飲んで、みるかい。はは、ひひひひ…………」
キリキリと胸を締め付ける痛みは更に強く、まるで肺に穴を開けているよう。背を撫でる死の予感と焦りに、彼は叫びそうになった。
「ひひ………………な、なんだそれは」
遂に彼はハニガンを八つ裂きにしてやろうと、マナンを抜いた。しかし直ぐに振りかぶったそれは、彼女のうろたえた声に静止されてしまう。
縦に細くなった瞳が勇一の左腕を……あるはずのない左腕を見ているのだ。
「あ、あああぁーーーーーー!!」
突如ハニガンは絶叫し、弱々しく腕を振った。限界まで仰け反り、よだれを垂らしながらその場から逃げようと足をばたつかせる。明らかに恐慌状態だ。
「これは……」
勇一が自らの左手に目をやった。本来ならそこには、上腕を半分だけ残した左腕があるはずだった。しかし今目の前には、真っ白な腕がある。
エンゲラズで顕現した時と違い、今は失われた彼の左腕に取って代わったように存在している。細く白い女の腕は柔らかな光に包まれ、爪だけが血のように赤い。所々にうっすらと骨のような影が浮いている。最初から自分のものであったかのように自在に動く腕に、ただただ勇一は戸惑った。
(女神の腕……けどこれは、俺の腕みたいに動く? …………そうか、この腕を使えってことかよ!)
しかしすぐに彼は理解した。今出てきたのなら、使えということだと。たとえそうでなかったとしても、解毒剤も見つからない現状、彼にはそうするしかなかった。
導かれるようにハニガンへと歩を進める。目の前で小刻みに胸を上下させている獲物は、これから自分に何が起こるかわかっていない。
「や、やめろ……やめてよ! お父ちゃん!」
「今更……っ!」
勇一はハニガンに馬乗りになると、白い手で作った拳を思い切り相手の頭に叩きつける。すると拳は鱗の並ぶ額を通り抜けて頭蓋の中にするりと滑り込んでしまった。手応えなく肘までめり込んだことに彼は驚いたが、反対側に抜ける気配はない。挿入された頭の中が別の空間であるかのように広い。自分の理解が及ばない超常的な力が作用している……彼はそう直感した。
彼女の頭の中で闇雲に腕を振ってみると、指先が硬いなにかに触れる。頭蓋は透過した手が触れられるものとは一体何だろうか。その見えない何かはすべすべとしていて想像もつかない。ぷちぷちと弱々しい抵抗を断ちながら勇一はとりあえずそれを引きずり出してみた。
「あ……ギッ!」
それがハニガンから引き抜かれると同時に、彼女は小さく呻き……動かなくなった。なんの抵抗もなく取り出されたそれは完全な球体で、女神の手の中で仄かな光をまとっている。
彼自身、訳の分からない事象と目の前にある何かに戸惑った。怒りのままに手を振るったはいいものの、予想すらしていなかった結果にどうしていいかわからない。
――――さあね……探して、みな、よ。
「……!」
扱いに困った彼が球体を凝視していると、くぐもったハニガンの声が勇一の頭に響く。と同時に、球体に映像が浮かび上がった。それは明らかに彼女の荷物で、歪んだ映像はその中の白い小さな丸薬にだけピントが合っている。勇一は空いた手で急ぎハニガンの荷物をひっくり返した。
地面に散らばった雑多な道具や素材は、何に使うか想像すらできない。しかし真っ黒な地面に一つだけの白点を認めると、勇一はそれをひったくるように拾い上げる。
「これが……これが、解毒剤」
それが本当に解毒剤なのか彼にはわからない。だが確認もせず口に放り込み、噛む。この世のものとは思えないような不味さにくしゃくしゃに顔を歪めながらも、彼は無理やり喉を通した。
すぐに胸の痛みが引いていきホッと胸をなでおろす。どうやら球体に映っていた映像は本当のようだ。とりあえず当面の危機は去ったことがわかると、視野を狭めていた闇が引き波のように姿を消していった。
(たす……かった…………)
死体の側に座り込む勇一。緊張の糸が切れ、ドロドロに溶けそうになる意識を持ち直し。今度は改めて左手を見た。男の自分に女の腕があるのは奇妙極まりない。右手で触れようとしてもすり抜けてしまうので、これは物理的な干渉ができないのだと彼は解釈した。
その手が、ハニガンの魂……命とも言えるものを握っている。このまま指に力を込めたらどうなるだろうか、村の人たちを虐殺した報いをどう取らせてやろうか。静かな森は助言などくれない。
「……あっ!」
突如球体の上部がボロリと崩れ落ちた。すぐに光は消え行き、徐々にただの水晶玉のように変化していく。そして大小様々な亀裂が入り始めた。
――――やめてよ! お父ちゃん!
またハニガンの声。
崩れ行く球体には、黄色い瞳を擁した影がかろうじて見えた。それは荒く息を吐きながら、規則的に上下に動いている。
その映像に勇一が戸惑っている間に、球体は完全に粒子となって消えてしまった。肉体という殻を失った魂は、大気を流れるマナのうねりに耐えられなかったのである。しかしそんなことを知る由もない彼は、ただその様子を呆然と眺めていた。
敵対する者同士がそこに居るにも関わらず静かならば、それは勝負がついたということだ。女神の腕はその手から球体が消え失せると、役目を終えたとばかりに消え失せる。そして待っていたのはやはり……。
「ぐうぅっ…………!」
激痛が勇一の左腕を襲った。マナンを落とし、鎮痛剤をザラザラと口に放り込む。効果が表れるまで、彼はその場にうずくまって耐えた。
「ユウ! やられたの!?」
息を切らせたガルーダルが木陰から現れる。彼女は駆け寄ろうとした足を止めて、最初にハニガンの死体を、次にうずくまる勇一見て叫んだ。短い左腕を押さえる彼を見て、すぐさま自らの鞄をあさり始める。
「まってて、包帯があったはずだから……ええっと」
「いや……いい。大丈、夫だから」
「大丈夫なわけ……」
「いらないって言ってるだろ!」
雄叫びのような勇一の声にガルーダルは肩を震わせた。彼の入れ墨は光を失い、ただの模様に戻っている。赤く染まった右手を見て「やっぱり」……と彼女は手を伸ばしたが、制止されてしまった。
「血はもう止まってる、だからいいんだ」
そういう彼はガルーダルに左腕を見せた。先端をべったりと覆っている血液が乱暴に拭われると、そこには傷一つない皮膚があった。彼女はますますわけがわからなくなり、口ごもってしまう。
(血濡れのユウ、外傷のない死体……訳がわからないわ)
ハニガンの目は裏返るほど見開かれ、表情は恐怖で引きつっている。見たところ外傷はないのに、何が彼女をこうしたのだろうとガルーダルは不思議がった。
(ここに来る途中……とてつもなく恐ろしい気配を感じたわ。山すら覆う、巨大な気配。ほんの数秒だったけど…………話したくないみたいだし、黙っていたほうが良いのかしら)
……これ以上考えるのはよそう。ガルーダルは「彼はそういう力」を持っているのだと自分を無理やり納得させた。
「見たことがない……不思議な力なのね」
「ああ。それよりほら……仲間の装備、あるんだろ」
急かす声にあっ、とガルーダルは我に返る。わずかにまごついた彼女だったが善意を断られた気まずさを紛らわそうと、直ぐに装備を漁り始めた。目的のものがハニガンの腕に巻いてあるのを見つけると、尖った指先で丁寧に解き始める。
「ミリーのバンダナ、ああ!」
凝った刺繍が施された赤い布切れ。握りしめたそれを胸に抱き、彼女は声を震わせる。
「ごめんなさいミリー、私を許して……ごめんなさい、ごめんなさい…………!」
呪いのように謝罪を繰り返す姿に、勇一はハニガンの言葉を思い出した。それが頭の裏側に張り付いているような気がして頭を振るが、離れない。
――――あの女の仲間みたいに、切り捨て、られる。
マナンを鞘に収める。敵の言うことなどいちいち聞いていられないのに、気になって仕方がなかった。
しかしどう声をかける?
あんたは仲間を殺した裏切り者なのか……と?
(馬鹿馬鹿しい。いま必要なのは俺たちの結束だ、どうしても気になるなら終わったあとでもいいじゃないか。
けど、ガルーダルにとって俺は……)
何なのだろうか。彼女が必要なのは事実だが、向こうにとって勇一はそうではない。考えても仕方がないことがぐるぐると頭上を回っている。
だがその答えは、直ぐに明らかとなった。




