10 月を隠す雲のような
枝の擦れる音は、静寂が支配する夜の森で耳障りな程に響いた。
当然ハニガンの耳もそれを捉え、発信源を特定する。同時に矢をつがえ、いつでも発射できる体勢で待機した。
「なんだい、あれ」
思わず構えを解き、戸惑いが声に出てしまう。狙撃手が潜んでいるのに身を晒す阿呆がいるものかと、彼女は再び狙いを定めた。
(いや、まて…………誘っている? アタシに撃たせて、場所を探る気か)
セクトリアの一部は異常に目が良いとされる。それこそ飛来する矢すら捉えられるらしいし、着弾地点を正確に予想できる者もいると彼女は聞いたことがあった。あの緑色のセクトリアがそうではないという確信はない。
彼女はいったん落ち着いて、深呼吸した。
(わざわざ反応しなくても、放っておけばガキの方は死ぬ。それからゆっくり女の方を追い詰めればいいさ)
自分から仕掛ける理由などないのだ。ブラキアの青年は毒に侵され、セクトリアの女の方も負傷している。ハニガンは自ら手を出さなくてもよい。二人を補足できる位置で悠々と待っていれば、そのうち報酬の方からやってくる。
(これだよ、この優越感。死に行く者が最後の希望にしがみつこうと足掻き、やがて無意味と悟り、醜く血反吐を吐きながら死んでいく。アタシはそれを安全な場所から眺めるのが大好きなんだ――――)
彼女は堪えきれず、腹の中でくっくっと笑った。
実際、勇一も焦りがないかと言えばそのようなことはなかった。一歩進むたびに自分の命が消えていくような気がしていたし、身体も徐々に重くなっていった。刺すような胸の痛みと舌の痺れ……そのままでいればハニガンの目論見通りに死ぬだろう。彼はアリーナの口から留めなく流れる血も、風に攫われるように命を失ったフィーニィも見ているのだ。自分がいずれそうなることも予想はついている。だからこそハニガンの狙い通り希望に縋った。
そしてその行為は、彼女に自らの終わりを予見させた。
「……おかしい」
ハニガンは違和感に気付いた。彼女は既に何度か移動している。それは相手の観察が容易で、かつ安全を確信できる場所。しかし移動後に獲物の方を見て、背中にヒヤリとしたものを確かに感じた。
(こっちに向かってきている!)
ありえない。直後に彼女は頭を振った。枝を踏む音、木を揺らす音、およそ森の中で立てられるすべての音を響かせて彼は歩いている。素人だ。それに比べて自分はほぼ無音で、相手の視線を入らないように移動している。闇の広がる森の中、向こうにばれるはずがない。しかし事実、あのブラキアは相変わらずまっすぐにこちらへ向かっているじゃないか――ハニガンはぎり、と奥歯を嚙み締めた。
「…………っ!」
目が合った。彼女はエドゥとヴェイロンと旅をする際、斥候の役割を担っていた。敵がいればいち早く発見し、可能ならば狙撃によって排除する。弓と毒を使う彼女が自然と身に着けた技術だ。敵の存在を想像すらしていない相手の間抜けヅラを見るのも、彼女の楽しみの一つだった。
だが今はどうだ。隠れているはずが、丸わかり。狙撃者にとってこれほど恐ろしいことはなく、さらにハニガンは深くプライドを傷つけられたと感じた。
彼女は何かの間違いだと半ば祈りつつ、再び位置を変えた。細心の注意を払って窪みに滑り込むと彼の方を見て、今度ははっきりと息をのんだ。
やはりあの男は距離を詰めてきている。暗闇の中でぼんやりと赤く光るそれは、勇一の頬で怒るドラゴンである。そう認識できるまでに距離が狭まっている。
「アタシを、嘲笑いやがって!」
手が震える。息が詰まり、肩がすくむ。彼女はベルトの小瓶を開けた。その中には毒のしみ込んだ綿が詰まっている。矢じりを突っ込めば、即座に毒矢の完成だ。彼女は恐怖を振り払い、依然として向かってくる勇一を狙い――放った。
***
(殺してやる……絶対に殺してやる!)
勇一は胸の痛みを堪え、まっすぐに前を向いた。怒りが野火のように全身を焼く。「時間がない」とか「星魔法をいつ使うか」などという問題を彼は意図的に考えないようにした。何もかもを怒りで塗りつぶし、マナンの柄も握りつぶしそうなほど力を込める。
するとその感情に呼応するように、彼の視界に変化が訪れた。
暗い森の中で小さく一点だけ、仄かに光る靄がかかっている。それは木の上でじっとしていたかと思えばスルスルと地上に降り、勇一と距離を取って音もなく枯葉の山に移動した。
――命の残滓。
死んだ者が残す心残りを認識できる彼の目は、本来瞼を閉じなければならなかったはずだ。しかし女神に近づいている彼の魂は今、その影響を更に強く受けていた。
ハニガンの手によって命を奪われた者たちが今、報復せんと歩む自分にその場所を知らせているのだ。そう彼は直感した。
靄がまた動く。先程と同じように、音もなく地を這って移動している。最早勇一にとってハニガンは、彼の足元で寝そべる石や枯れ葉以下になり果てた。障害物も透過して見えるそれは、暗闇でもはっきりとした存在感を放っている。
(……目が合った!)
姿が認識できるほど接近すると、勇一は駆け出そうとつま先に力を込めた。しかし彼が行動するより早くハニガンはまた移動する。これではいつまでも追いつけない。
(だけどあいつにはわかったはずだ……逃げられないと。今度は星魔法で……っ!)
そう思ったときである。
ハニガンの居場所を知らせる靄から突如、さらに小さな靄が分離した。細長く形成されたそれはゆっくりと、真っ直ぐに彼へ向かってくる。
(何か向かって……いや、あれは……矢!)
信じられないほど低速で接近する矢。明らかに物理法則に逆らった動きは、極限まで研ぎ澄まされた勇一の集中力によってもたらされた現象だ。思考が圧縮され、彼は森中に自分の五感が広がったように思えた。
掴めそうだ……そう思った彼の手は自然と伸びていた。風に舞う木の葉すら数えられる今なら、飛来する殺意を掌握出来そうな気がしたのだ。そして
――パシッ。
果たして彼は、見事に矢を掴み取った。手中に収まったそれからはもう殺意も靄も消え、ただの棒切れになっていた。
さてこれからどうしようか。自分がやってのけたことを当然相手も見ているだろう。それなら次はどう出てくるか……。
「ユウ、投げて!」
これからどうハニガンに追いつこうか考えようとしたとき、後方のガルーダルの気配に勇一は気付いた。返事を聞く前に続けざまに彼女は叫ぶ。
「ヤツの居場所はわかった、私が矢を誘導するから! 早く!」
応答している時間も惜しい、勇一は握りしめた矢を構えた。槍を投げる要領で、思い切り、できるだけ遠くに飛ぶように願う。それが手元から放たれた瞬間、彼の背中を突風が叩いて行った。
風は踊るように絡み、すぐに下降を始めた矢を持ち上げる。
「いけ、いけえぇっ‼」
ガルーダルが叫ぶ。仲間を殺し、村人たちを虐殺した怒りと悲しみを魔力に絡ませる。
その風に乗った矢は、来たときよりもずっと速く飛んだ。飛んで、暗闇の中に電撃のように飛び込んでいった。
ドウッ
「ぎゃあああーーーーっ!」
けたたましい動物のような悲鳴が辺りに響き渡る。勇一は終わりを確信し、すぐさま悲鳴の元に走り出した。




