9 暗殺者、ハニガン・ムルスァー
ハニガン・ムルスァーに母親はいなかった。物心ついたときには窃盗や死体漁りをしてその日を生き延びていたが、別に自分の置かれた環境が特殊だと考えたこともなかった。口を開けば金、酒、飯だと怒鳴りつける父の世話をするため、二人分の食い扶持を盗み、必要ならば自分を売って稼ぎ、幼少の日々を過ごした。
(ああ、やっぱりここが一番落ち着く)
黄褐色の霧の中、ハニガンは悠々と歩いていた。その頭は下半分をマスクが覆い、口元に空いた蜂の巣状の穴からは呼吸音がする。マスクの中に入れられた香草を通して得られる空気だけが、死の世界の中で彼女を生かしていた。
無音。
そこには多くの民家があった。みすぼらしくもささやかな営みは、永遠に失われた。
シュー、コォ…………シュー、コォ………………。
ある時彼女は、父親を殺した。
別に恨みがあったわけではない。前日に窃盗の報復で袋叩きにされていた彼女は、その日もかわらず父親の食事を作っていた。その際、疲労か痛みかその両方か、震えた手はいつもより材料を多めに入れてしまう。どれを多く入れてしまったのか彼女は今も思い出せない。
とにかく彼女もそれに気付いてはいた。いたが、かまどの横にある自分の寝床を見ながら、頭の方はこう考えてしまっていた。
……まあ、いいか。
と。
幼いハニガンは最初、何が起こっているのかわからなかった。しかし父親が泡を吹いて椅子から転げ落ち、血を吐きながらのたうつのを見ている内に特別な感情が生まれる。
彼に目もくれず、興味を持ったのは食事の方だった。物陰に隠れていた彼女は自分の出したそれをこっそり回収した。そこらを走るネズミたちに与え、それらが同じように血を吐いて動かなくなるのを確認する。
彼女が「毒」を知った瞬間だった。
(ざっと百人ってとこか……ま、あの二人もこれで死んだろう。まずは死体の確認からだ)
シュー、コォ…………シュー、コォ………………。
手近な家屋を観察し、慣れた手付きで窓板を割る。音も無くするりと窓をくぐり抜ける体捌きは長年培って体得したものだ。
屋内に入ってすぐ、彼女は獣人の死体を見つけた。喉元を抑え苦悶の表情で息絶えている。床や壁には大量の血液が擦り付けられ、死ぬ直前まで暴れまわったのがわかる。
――ハニガアァァァン!
「……っ!」
ハニガンの脳裏に過去の体験が蘇る。倒れている獣人の格好は偶然、父親の死にざまそっくりだった。父親が完全に動かなくなるのを見届けると、彼女は家を去った。サンブリア大陸東部グン湿原、年中足元がぬかるむ土地に彼女の村はあった。
細い管を空気が通るような呼吸音と、酒焼けした声、そしてけたたましいいびき、冷たい床、寒さを竈門の残り火で耐えた日々。ハニガンの家にある全てだった。
――てめぇ育ててやった恩を返しやがれ!
――すまねぇ。本当にごめんよおハニガン…………こんなオヤジを許してくれぇ……………………。
酒を飲めば必ず出てくる口癖だった。そのあとは決まって愚痴、暴言、物を投げる。そして酒が抜ければしおらしく娘に許しを請う。繰り返し。毎日が繰り返し。しかしハニガンは特に反抗するでもなく、父親の世話をし続けた。
父親はどんな仕事をしていたのか、何故酒浸りになったのか、何故そんな父親を世話していたのか……今となっては思い出せない。しかし経験だけは、いつまでも彼女を縛り続けた。
(忘れたと思っても、記憶の戸棚はいつの間にか開いている。けどこれが終われば十分な金が入って、この大陸ともおさらばできる。アタシの知らない場所に行けば、きっと逃げられる)
シュー、コォ…………シュー、コォ………………。
一通り手際よく部屋を確認し、勇一とガルーダルの死体や痕跡がないことを確認すると、入ってきた窓から出る。次の家、また次の家と同じように確認して、彼女は広場に足を向けた。簡素な広場の向こうにまだ、調べていない家がある。彼女の視線はまだ霧に包まれていないそこに向けられた。
「まだ覆われてない家がある……霧の粘性が強すぎたか」
(だがまあ、ほっとけば他と同じようになる。それまでは……)
ギィ
木のきしむ音。ハニガンは咄嗟に壁に張り付き弓を構えた。先程の、霧に覆われていない家の戸が開いたのを確認する。
(戸が開く音は嫌いだ。きしみをあげてゆっくり動く音はもっと嫌だ)
「ガルーダル、外に出るな! この霧……毒だ!」
彼女はすぐに、なぜか蟲人と行動を共にするブラキアを思い出した。引き絞った矢から手を離す。ブラキアの青年は標的ではないが、数を減らすに越したことはない。ハニガンの判断は早かった。
「くそ、風か」
距離にして五軒、離れた先に狙った相手がいる。ハニガンの狙いは正確だったが、突然の突風が邪魔をした。狙いはわずかにずれ、開けられた戸に当たった。
「うっ、霧の中にいる……気をつけろ!」
即座に閉められた戸を睨み「運のいい奴だ」とハニガンは弓をしまい短剣を抜いた。物陰から物陰へ、地を這う影は素早く距離を詰める。仕事を終える瞬間を想像し、彼女はマスクの下で冷酷な笑みを浮かべた。
***
勇一は必死に考えた。足元でこと切れているアリーナは、おそらく戸の隙間から入り込んだ毒の霧によって命を奪われてしまったのだろう。戸の向こうでは集落のほとんどを飲み込んだガスが視界いっぱいに広がっていた。そして今まさに勇一らのいる家にも手を伸ばしている。
「アリーナさん……」
(どうすれば、どうすればいい!!)
彼女の死を嘆きたいのは山々だったが、状況はそうもいっていられないのが現実だった。勇一の頭は悲しみと迫りくるガスへの恐怖、そして非道な手段を取った敵への怒りに満たされ、溢れた分が涙となってこぼれ落ちた。
「ユウ! フィーニィが……」
「な……」
母親の異常に訳も分からず泣いていたフィーニィには、ガルーダルが寄り添っている。今度はその彼女が今にも泣きそうな、動転した声で勇一を呼んだ。
「フィーニィ、しっかりして!」
「うっ…………ゲエェェ」
フィーニィは小さくうめいたかと思うと、突如大量の血を吐き出した。二人は同時に互いを見た。フィーニィもガスを吸ってしまったのだ――もはや一刻の猶予もない!
ガスは勇一らがいる家を取り込もうとしている。密閉など期待すらできない室内、ここにいては誰も助からない……しかし事ここに至って勇一は幾分か冷静さを取り戻した。
「ガルーダル、フィーニィと一緒にこい。裏から出る」
「裏? 裏口なんて……」
そう言いかけたガルーダルは、勇一の持つ剣を見て口をつぐんだ。震える黒い刀身には怒りがこもっているのがありありと見て取れる。彼女は恐る恐る視線を上げた。暗がりで表情は見えなかったが、頬の入れ墨が彼の怒りを代弁するかのように仄かに赤く光っていた。
「空ける!」
勇一は、すぐさま二人が休息していた部屋へ駆け込んだ。保存食が並ぶ棚を蹴り倒し壺を割る。正面入り口とは反対側に位置する壁がすぐ露わになった。血を吐き衰弱したフィーニィを抱き、心配そうに見つめるガルーダル。勇一はそれをよそに貧相な土壁にマナンを突き立てた。
まるで水流を切り裂くように、容易く壁に穴が開いた。十分に人が通れるほどに空いた穴を前に勇一は叫ぶ。
「行け! 森だ!」
「う、うん!」
とにかくガスから離れる。二人の頭はその考えでいっぱいだった。幸い壁の向こう、腐って崩れた柵を乗り越えて少し走れば森に入れる。
フィーニィを抱えたガルーダルが柵を飛び越え、勇一が後に続く。彼が振り返ると、黄褐色のガスが二人がいた家を飲み込んだ所だった。ガスはさらに勇一らを絡め取ろうと、その触手を伸ばしてくる。しかしその先端は、見えない何かによって逸らされた。
「ユウ、早く!」
「風魔法!」
「急いで! 私の魔力では霧を払うほどの風は起こせない」
ガルーダルは連続して風を起こすが、ガスはゆっくりと二人を追い詰める。彼女の魔法では、自分たちを追いかけるガスの侵攻を遅らせる以上の効果は期待できなかった。
月が足元を照らしているとはいえ、夜の森。冬の風に枯らされた枝先が肌を擦っても、二人は脚を止めなかった。動くたびにぱきぱき、がさがさと森中にこだまする。しばらく走った二人はやがて、岩肌が目立つけもの道にたどり着いた。ガルーダルはフィーニィを降ろして寝かせ、勇一は適当な木にもたれかかる。息の切れた勇一が険しい顔で言った。
「あいつら……追ってるのは俺たちだけのはずだろう!? なんであんなことができるんだ!」
たった二人を仕留めるために、リザードマンは民間人の暮らす集落に毒ガスを撒いた。例え人道という価値観がない者であっても、やっていいことと悪いことの判別くらいできないのかと彼は憤った。
「アリーナさんも、多分、村のみんなも死んだ…………こんなこと許されるはずがない。あいつらはどうかしてる! …………ガルーダル?」
「……」
「お、おい」
まさか。息を整えた勇一は、頭をよぎった最悪を振り払らおうとした。しかしそれを確かめずにはいられない。
「フィーニィは、無事なのか」
「…………息、してない」
「え?」
「フィーニィ、息、してないの」
横たわったフィーニィはぐったりとしてピクリとも動かない。悲痛なガルーダルの呟きに勇一は一瞬呼吸を忘れてしまった。
「は、運んでる途中から…………震えて、咳がひどくなったの。それで、急に重くなったと思ったら」
勇一は震える手をフィーニィの胸に当てた。何かの間違いだ、そんなことあるはずないと懇願するように何度も確かめる。
しかしどこを触っても静寂が帰ってくることがわかると、彼は拳を握りしめた。爪が食い込み血が流れても、手を解くことはなかった。
「この子、霧を吸ってないでしょう…………こんなに小さいのに……どうして死ななきゃならないの」
(いや……吸ってはいたんだ、ほんの少し。身体が小さいから、大人よりもずっと少ない量を吸っただけで…………!)
「死んだ……死んだ…………!」
叫びたい気持ちを必死に抑えたガルーダルの声は、消え入りそうなほどか細かった。
一方の勇一は頭からつま先まで溶岩のように煮えたぎっていた。今なら人一人を素手で引き裂けそうなほどの怒り。しかし万物を焼き払うような怒りに包まれても、その中心にはひどく冷静な自分がいる。彼が「良心」と思っているものだ。その良心が今自分が何をするべきなのかを説いている。
「アーーーーッハッハッハッハッハ!! またお前のせいで人が死んだねェ!」
夜の静寂を狂気的な笑いが引き裂いた。
「ハニガン…………!」
「かわいそうに。お前がかくまってほしいなんて言わなけりゃ、あいつらもその子も死なずに済んだんだよ」
「ひどい…………あなたたちが罪もない人たちの命を奪ったんでしょう! 出てきなさい、恥知らず!」
ガルーダルは闇に向かって叫んだ。しかしハニガンの声は二人の混乱を誘うかのように四方八方から聞こえてくる。ガルーダルは全身を震わせ、勇一は険しい顔で黙っている。
「罪があろうとなかろうと関係無いのさ。しょうがないのよ、遅いか早いかでしかない。もっとも、アンタの仲間もその子が死んだのも、アンタのせいだけどねェ! アッハハハハハ――――!」
「言わせておけば!」
「ちがうって言うのかい? 残念だけどねぇ、お仲間がひき肉にされてるときアンタが何をやってたのか知ってるんだ、ええ?」
「や、やめて」
「アンタは正しく、裏切り者のクズさ! 恥知らずの方はアンタの方だよ!」
「やめてぇーっ!」
「罪のないやつが死ぬのが許せないなんてずいぶん傲慢じゃないか。その傲慢さがその子を巻き込んで、殺したんだ。もうすぐ隣のやつもそうなる! アーッハッハッハッハッ!!」
「隣の? ……ゴホッ、ゲホッゲホッ…………っ!」
「ユウ!?」
勇一の胸は突如締め付けられるような痛みに襲われた。息を吸っても肺が十分に膨らまない。そのうち気道が焼かれるように痛み始めた。
「そいつも霧を吸ってるんだ、そのうちくたばったガキと同じように血を吐き散らして死ぬ。アタシは遠くからその様子を見学しておくよガルーダル。ゆうぅぅっくりね」
「ユウ、ユウも…………私のせいでみんな、死ぬ……」
フィーニィの手は動かない。それを肩を震わせながら握りしめるガルーダル。勇一は彼女の背中を見て口をつぐんでしまった。
彼女は勇一と会う前に仲間と何かがあった。それが彼女の重しになっている。
ハニガンのガスを吸ってしまったせいで徐々に体を蝕まれていく勇一。彼はまだ蟲人の代理人となったガルクの話を聞いていない。当然復讐を終わらせるまで死ぬわけにもいかない。ガルーダルは任務完遂はもとより、剥ぎ取られた仲間の装備品を取り戻したいと思っている。
しかしここに留まっていてはそのどれもが叶わない。
…………二人には迷っている時間などなかった。
「…………ガルーダル」
「…………」
「ここに、いろ」
ガルーダルは全身が震え上がり、思わず「ひっ」と声を漏らした。目の前の青年からよどみない殺意が溢れている。逃げるでも嘆くでもなく、彼は直ちに報復を選んだことを彼女は悟った。
勇一とて当然、フィーニィたちの死が悲しくないわけがない。しかしその悲しみは、敵の非情さに対する頭がおかしくなりそうなほどの怒りが覆ってしまった。完全に無差別で残虐な行為だ。虐殺だ。目の前で行われた所業を彼は一度経験している。それからずっと、どうしても許せなかった。敵も、何もできなかった自分も。腹の底に収めていたあの時の憎しみを、彼は掘り起こした。
「どこに行くの……まさか」
振り返る勇一、その頬にはドラゴンが佇んでいる。彼の体内に渦巻く怒りの奔流を表すかのように、仄かに赤く発光していた。
「あいつの魂は、星々に輝くことはない」
「なにを……あ、待って!」
勇一は踵を返し闇へ消える。ガルーダルは握ったフィーニィの手を離せなかった。




