8 嘘と本当
――上野勇一。
「僕、小説家になるのが夢なんだ」
そういう同級生の彼は病気がちで、身体を動かすのが苦手だった。かわりに、読書がことのほか好きだった。
極端な猫背になで肩、青白い顔。彼が自分の気持ちを言えるようになったのはごく最近のことだ。
(知ってる、けど思い出せない。ああイライラする)
――上野勇一、起きて。
「どうかな、勇一君を真似てみたんだけど」
彼は徐々に明るくなっていった。友人となって、自分の夢や悩みを打ち明けられられる程度の間柄にすぐなった。しかし何度も話すうちに、彼を取り巻く環境の悲惨さが明らかになる。彼に味方はいなかったのだ。
(俺が初めてで、ただ一人の、友達だった……もちろん大事だ。大事な友達なのに)
――上野勇一。今は、だめ。
「父さんも母さんも駄目だって。わかってたのにさ、悔しい」
(なんで思い出せないんだ、なんで思い出せないんだ!)
「勇一君、僕は……僕は君に――――」
(思い出せ、俺はあの時なんて言ったんだ。大事なことだったじゃないか!)
――上野勇一!
***
「……痛っ!」
「ユウ?」
軽い衝撃で勇一は目を覚ました。ほんの少し前まで肌に触れていた木の感触はなく、今は冷たい土が彼の意識を迎え入れる。体中にきしむような痛みが走った。やはり固いものの上で寝るのは負担だ。忘れようもないエンゲラズのベッドを思い出し肩を回す。
起き上がって声の方を見ると、暗がりに蟲人の輪郭が浮かんでいた。心臓に悪い。これが創作だったら自分は最初の犠牲者だ……などと考える。夢のことなど、頭から消えていた。
「ご……めん。起こした?」
「ううん、さっき起きたとこ」
聞き覚えのある声が聞こえたことで勇一は悟られないように胸をなでおろす。
小さな窓の向こうには、深い青で満たされた山々が連なっていた。
アリーナらと食事を取った部屋からは人の気配が感じられない。あまり迷惑になってはいけないと二人は声を抑える。
ガルーダルはおもむろに自分の腰からベルトを取り外した。ここに来る前に倒した、エドゥという名のリザードマンの物だ。それを勇一の前に掲げて暗がりから現れた。
「ああ、それ……」
使い込まれ傷だらけのベルト。勇一は彼女が死体から抜き取る光景を思い出した。確かに死体には必要ないだろうが、だからといって奪い取るのは彼の倫理観が許さなかった。
しかし明らかに彼女の体に不釣り合いだというのに、どうしてベルトなんだろうか。この家で休息する直前まで彼が考えていたことだ。そんな表情を見抜いてか、彼女は回答から口にした。
「これ、仲間のものだったのよ」
勇一の息が詰まった。
「私は元々、四人いた隊の一人だったわ。隊長のマシュ、ローブラン、ミリー、そして私。このベルトはローブランがつけていたもの」
ガルーダルに見せられたベルトの金属部分には、無骨に文字が刻まれている。尖ったもので刻まれたそれは、おそらく「ローブラン」と読むのだろう……と彼は思った。
「マザーの御言葉が書かれた書簡を平原の同盟軍に届ける、それが私たちの任務。最初はこんな任務楽勝だと思っていたわ。だからといって気を抜くなんて、しなかったけど」
「…………」
「出発してから三日目の夜だったわ。私が見張りをして、他の皆は眠っていた。草むらで物音がした気がしたから調べに行って、戻ってきたら」
自分の軽率な行動を悔やみ、ガルーダルは頭を抱えた。彼女がおびき寄せられている間に、仲間たちはあのリザードマンらによって静かに始末されていたと言う。そして彼女も最後に殺される筈だった。
「私も襲われてこの傷を負ったとき『死にたくない』って思ったわ。伝令もまともにできない、不名誉なまま死にたくないって。でもエドゥのあの剣が振り下ろされようとしたとき、ゴブリンの叫びが聞こえてきたの」
「混乱に乗じて、運よく逃げられたって訳か」
「そう。奴らが慌てふためいている間にマシュの持ち物からこれを取って、一目散に逃げたわ……本当に、情けない」
ベルトは死んだ隊員の持ち物で、ヴェイロンらが彼らを殺害したあとに死体から剥ぎ取った……彼女はそれを返してもらっただけという訳だ。
勇一はそういうことかと納得したが、その頭は納得と同時に生まれた新たな疑問に支配された。
彼女は叱責も慰めも飛んでこない妙な空気を察して勇一を見る。相手のぼんやりとした顔は、自分よりも大きなエドゥに切りかかった人物と本当に同一だろうかと思った。
「ユウ?」
「……俺を拾ったのは襲撃の後すぐ?」
勇一は腕を組んで虚空を見つめる。
「襲われた翌日の夜よ。意識も朦朧として、とにかく体を暖めようと火を起こして水を汲みに行ったの。あなたを見つけたのはその時」
「ただの野盗が、ただ一人逃げた者を追いかける……」
兵士三人を殺害し、一人は逃げた。あのリザードマンらにとっては十分な戦果だ。後は直ちに略奪し闇に紛れればいいものを、彼らは執拗にガルーダルを追った…………つまり、明確な目的があった。
「ま、まあ考えてみれば妙ね。一人逃しても死体は三つあるわけだから――」
「あいつらの一人」
勇一が言葉を遮った。垂らされた糸を引いてみれば、巨大な何かが引っかかっている。彼は臆することなく口を開いた。
「『それをよこせ』って言った。その、マザーの書簡を」
「……!」
室内の冷たい空気が二人を震わせた。あのリザードマンたちは「それ」が何か知っている者たちだ。当たり前だが、ただの野盗が知っているはずがない。
「……ユウ、君は『これが何なのか知ったあいつらが、儲け話のために狙っている』って言いたいの」
「『これが何なのか知っている何者かの依頼で、あのリザードマンたちが襲ってきた』のかもしれない。どっちも可能性はある……そもそもその書簡はそんなに大事なものなのか? いや大事なのはわかってるけど」
「…………」
ただの連絡や命令ではないと言いたいのだろう。ガルーダルは即座に頷き、筒の蓋の部分が勇一に見えるようにした。もし開けられればそれがわかるように封がされている。
「ここまで厳重にするのは、それくらい重要だということよ。開戦を良しとしないマザーの御言葉がここにあるの。マザーは領地を動けないから、信任された代理者がこれを持つことでマザーの御言葉は効果を持つ」
「そんなに大事なものなんだ。責任重大だな」
書簡を持つ手が震えている。彼女は自らに課せられたものの重さを再認識したようだ。
勇一はまだ考え込んでいる。リザードマンたちは偶然ガルーダルの隊に目をつけたわけではないことは確かだ。しかしその正体や目的もなにもわからない。深く推測するにはあまりに情報が少なすぎてどうしようもない。彼は苛立ちにため息を漏らす。
「少し前までは別の代理がいたんだけど、もう歳だからって別の人に変わったのよ」
「じゃあその新しい代理者も新人なんだ。お互い新人なのに、いきなり重い責任を背負って……」
ガルーダルも新人、彼女が書簡を渡すマザー代理も新人。人選を行うタイミングというものがあるだろうに。勇一は少しばかり苛立ちも忘れて呆れた。
「うん。彼は少し前にマザーの所にやってきてね……内容は知らないんだけど色々話したみたい。それでマザーに気に入られちゃって」
随分とやり手のようだ。しかもガルーダルの話しぶりからするに、蟲人ではないようだ。勇一は率直な疑問をぶつける。
「まるで同族じゃないみたいな言い方だ」
「うん、竜人。もし竜人じゃなかったら、ああも簡単に話は進まないわ。しかも、大陸戦争の英雄の息子らしいし」
『大陸戦争の英雄の息子』。適当に聞き流そうとしていた彼がそれを聞いた途端、心臓が槌で叩かれたかのように跳ね上がった。耳の奥が熱を帯び、一瞬今が冬であることを忘れるほどだった。彼も偶然、同じような人物を知っていたのだ。
「そっ、そっれっ……ゴホン」
「どうしたの」
「いや、その竜人の名前は」
「ええ? どうしたの突然」
「いいから、教えてくれ!」
リザードマンの脅威など忘れたかのように前のめりになった勇一。その様相に驚きつつ、ガルーダルはこくこくと頷いた。鋭い牙を持つ顎がその名前を口にする。
「……ガルク。そう、ガルク・フォーナーって言ったわ。確かあなたも同じフォーナー性よね、なんだか運命的な偶然ね」
ガルク・フォーナー。勇一がその名を口にした途端、彼の脳裏に記憶が蘇ってきた。
黒曜石のような黒い鱗。
気に入らない、鬱陶しい、そんな感情を隠そうともしない目つき。
自分を怒鳴りつける声。
決闘を挑んできたときの複雑な表情。
友と言ってくれたあの日の夜。
彼との思い出が一気に色を取り戻した。
――ガルクが生きている! 勇一は途端に熱くなった目頭を押さえた。
「もしかしてユウ、ガルク・フォーナーを知っているの?」
「知っているも何も――――!」
友人だ。その言葉はけたたましい音に遮られた。食器が割れ、家具が転倒し、最後にどうという何かが倒れる音、そして――
「おかあさん、おかあさぁん!」
泣きじゃくるフィーニィの金切り声に、二人は弾かれたように立ち上がった。
「アリーナさん!」
ガルーダルが一番に部屋を飛び出す。友の生存に喜んだのも束の間、勇一は吐き気を催す予感に一瞬たじろいだ。しかし一度頭を振ると、すぐに彼女の後を追った。




