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1 蟲人(セクトリア)の伝令、ガルーダル・ウォレンズ

 冬の刃に切り刻まれる痛みで、転生者・上野勇一は目を覚ました。

 仰向けになれば岩の天井。風が流れていく方を見れば、木々に遮られた夜空が見えた。徐々に自分が生きていることを思い出し、彼はそんな幸運にまず安堵した。

 体にかけられた粗末な布を退かし、背骨のきしみを感じながら上体を起こす。ゴツゴツとした岩の寝床の冷たさは、冷えた指先ではわからなかった。そして目の前には焚き火……否、既に赤い炭となったものが折り重なっている。


「うぅっ……さむ、い」


 まさかこの焚き火は自然にできたものではないだろう。つまり誰かが彼をここに運び、焚き火の前に寝かせ、せめて寒さを和らげようと布を被せたのだ。

 しかし勇一はそんな事実をひとまず脇に置き、目の前にある熱源を蘇らせようとそばに転がる薪に手を伸ばした。


「う……あ」


 左手が空を切る。

 がくりと突っ伏した彼は、体のバランスを崩した原因に目をやった。

 おかしい。そこにあるはずの手が見えない。彼が自分の左手を見た最後に記憶によると、間違いなく親指だけは残っているはずだ。しかしいま目の前にある現実はそうではなかった。

 彼の左腕は、前腕の半分から先が無かった。そこで初めて、彼は気を失う直前の行動を思い出した。


(エンゲラズで……そうだ俺、できるだけ多く助けようとして……)


「やあ、目が、覚めたのね」


 すべてを思い出そうとした彼は、ビクリと身を震わせた。くぐもった女の声だ。焚き火跡を挟んだすぐそばに、何者かがいる。

 勇一は震えを押して、薄暗いそこを見ようと目を凝らした。汚れた布にくるまった蛹のような何かがモゾモゾと動いた。


「ごめんね、私も怪我を、していて……動けないの」


 弱々しい女の声は続ける。


「河原で、倒れていたあなたを、どうにか連れて、きた……あのままだったら、死んでしまうと、思ったから」


 一言言葉を発する度に、ヒューヒューと呼吸音が響く。それを聞いた勇一は察した。この人はもう長くないと。


「ありがとう」


「ふふ、いいの。同盟軍人として、当然の、ことを、したまで、だから」


(軍人なのか……)


 軍人。

 彼女は同盟軍に所属する兵士だった。周りを見れば、傍らに剣が落ちている。くすんだ銀色をした簡素な鎧と、荷物が少々。他になにもない。


(いや、それより……まさかここは黄金同盟の……?)


 同時に勇一は自分の幸運に驚いた。彼はエンゲラズで、追い求めていた仇が同盟の人物だと知った。直後、その同盟軍がヴィヴァルニアとの国境へ進み始めたとの知らせを受ける。

 エンゲラズに出現した亀裂に対処した際、彼はゴブリンを処理する水流に巻き込まれてしまった。そのまま河を流され、気を失ったままここに流れ着いてしまったのだ。

 状況把握に奮闘する勇一にかまわず、「でも」と女は続ける。


「ねえもし、あなたが本当に、感謝しているなら、どうか、わた、しの……頼みを…………ゲホッ!」


 小刻みに震えるそれからでる呼吸音は、一層強くなった。何度も咳き込み、たまに液体が地面に飛び散る音がする。

 くるまった布から手らしきものが現れ、側にある小さな筒を指さした。


「どうか……どうかそれを…………届けて、くれないかな」


 勇一は息が詰まった。なにせもうすぐヴィヴァルニア軍と同盟軍が衝突してしまうのだから。いくら命の恩人とはいえ、あまり悠長なことはしていられない。

 どれだけ時間があるかもわからない。しかし戦闘に入ってしまえば、仇であるゴルダリアへ報復するチャンスも潰えてしまうかもしれない。ただでさえ厳戒態勢が予想される戦闘前、奴へ近づく手段は、既に限られている。

 彼は寒さと罪悪感に押しつぶされそうな気がした。


「その、本当にごめん。助けてもらったのは感謝してる。けど俺には時間が――」


「ヴァパに、いるはずの、ダラン様に、渡し、てほしい」


「――――え?」


 勇一の震えが一瞬止んだ。行き先がヴァパだからではない。その名前が、あまりに唐突に出たからだ。

 彼は痛みを忘れて聞き直す。


「だれにだって?」


「ダラン・ウェイキン様……あの、方に…………お渡しできれば、戦争は、回避……できる、はず」


 有角族の長、ダラン・ウェイキン。もしかしたら彼と会えば、ゴルダリアへの道が開けるかもしれない。幸いにも彼とは面識がある。ならば会うためにも、彼女の頼みを聞いた方がいいのかもしれない。


「わたしは、もう……だめ、だから。君だけが頼り、なの…………」


「おい、しっかりしろ!」


 目の前で終わろうとしている命。勇一はろくに言うことを聞かない脚で踏ん張り、相手の元に倒れ込んだ。助けてくれた恩人に対し、できることは少ない。ならせめて誰かに伝えたいことはないか。そう聞こうとして、残った右手で相手を掴む。


(なんだ、この感触)


 冷えた指先からは、妙に硬い感触が伝わってきた。

 丸みからは、そこが肩の部分だと推測できる。しかし指で押しても沈まない。およそ彼の知っている人の肌とはかけ離れた印象に、思わず手を離してしまう。


(甲冑? にしては金属の肌触りじゃない)


「ごめんね……頼み、事をするのに、無礼だった、ね…………」


 丸まっていた布がのそりと起き上がった。ゆっくり、その中から荒い息遣いが聞こえてくる。死を前にした体を起こしているのだ。その苦痛は筆舌に尽くしがたいだろう。

 やがてそれはあぐらを安定させたのか、動きを止めた。そして姿を覆っていた布がはだけると、中から勇一が全く想像できなかった外見が現れた。


「同盟の軍人で、伝令。ガルーダル・ウォレンズ、よ」


「……うっ!」


 ぎょっとした彼は体の不調も忘れて反射的に飛び退く。心臓が跳ね、全身に震えが走った。

 彼は彼の世界で、想像上の生物は知識として知っていた。様々な媒体で見聞きしたそれで、大抵の種族ならば、少なくとも外見が原因で否定的な先入観を持つことはないだろうと。そう思っていた。

 しかしいま目の前にいる「彼女」の外見は、彼自身の世界で見る機会の多いものだ。それなのに彼は内心に抱いた嫌悪感を表に出さないよう必死だった。

 多くの人が年齢を経るごとに関わりを意識的に避ける機会の多くなる「それ」に似た外見は、彼を後退させるのに十分すぎた。


(む…………虫!)


「そっか、蟲人セクトリアを見るのは、はじめて、なんだね」


 大きな二つの複眼が、無数に勇一を映している。薄緑色の甲冑を着込んだような外見は、ひと目見て人間ではないと勇一に印象づけた。だが彼の驚きはそれだけではなかった。

 彼女の腹には大きな穴が空いていたのだ。貫通して背部に抜けたのだろう、向こう側が見えている。誰が見ても致命傷だ。彼女の肩が上下する度に、茶褐色の液体が傷口たらたらと流れた。こんな状態で生きている方が不思議だ。

 慌てて口元を隠す勇一を気にした風もなく、ガルーダルは左右にゆっくり顎を開く。

 勇一にはそれが不思議と、ぎこちなく笑っているように見えた。

 薄緑色の甲殻に覆われている四肢はやたらと細く、長い。しかし所々にヒビが入り、そこからも胸から出ているものと同じ茶褐色の液体がにじんでいる。


「ご、ごめん」


「いいの。姿を、見た途端、攻撃してくるより、はる、かに……マシよ」


 人の形をした「虫」。視覚的に強烈な印象を与える姿を前に、勇一は頭痛を覚える。声と態度からするに、だいぶ温和な女性のようだ。幸いはっきりと意思疎通ができるという事実は、彼が受けた衝撃を幾分か相殺した。

 冷たい風が洞窟から駆け出していった。空が白み始めている。冬の明け方に舞う空気は、濡れた勇一の体を震わせる。彼はかじかむ手に息を当てると、ガルーダルから落ちた布を拾い上げた。


「待っててくれ、いま手当を……荷物はこれ?」


 ガルーダルのそばの鞄に目を向ける。しかし彼女はゆっくりと頭を振った。


「だめ。私はもう、助からない。たのむ、たのむ、から! 行って、ちょうだい!」


 彼女は震える指で再び筒を指差す。もう手を動かすので精一杯のようだ。

 古ぼけたそれには、解読不能な文字が書かれている。おそらく筒の役目だろうと勇一は思った。


「わかった、わかったから……あまり動かない方がいい」


 彼女の気迫に押され、彼は頷くしかない。


「あぁ、よかっ……た」


 がくりと項垂れたガルーダル。彼女はそれから動かなくなってしまった。


「………………おい?」


 返事は無かった。

 察した勇一は彼女を寝かせてやる。冷たい風が邪魔しても、決して彼は杜撰な扱いをしなかった。

 横になった彼女に再び布を被せ、彼は適当な倒木へ身を預ける。

 彼女の大きな複眼が、山際から現れた太陽を写していた。

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