9 3時間前
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ガチャ
私の意識は、急に引き戻された。
音の方を見れば、開かれた扉の前に誰かが立っている。
そうだ。今しがたお前のことを考えていたんだ。
「お母様」
「おやおや、愛娘のご登場ですねえ」
女神の姿は私にしか見えない、私の目が見せている幻覚なのだから当然だが。
忌々しい娘は、許しなく私の部屋に土足で押し入る。女神の幻覚をすり抜けてすぐ、荒れた室内に動揺しているようだ。
そして暗闇に座る私を見つけると、息を呑んで一瞬足を止めた。しかし見えない壁を押し進んでいくようにして私の前に立つと、怒りの目を向ける。
「アイリーン、入れといった覚えはないわ」
「――っ!」
私は胸ぐらを掴まれ、無理矢理持ち上げられた。そして次の瞬間、平手が飛んでくる。
「どうしてあんなことを! もう少し避難が遅れていれば、冷たい水路に彼等が浮かんでいたかもしれないのに!」
「どうでもいい」
「な、なんですって――――う、ああああっ!」
「どうでもいいっていったの」
考えなしに私の前に立てばどうなるか、いい機会だから教えてあげましょう。アイリーンは突如頭を抱えて苦しみだした。嫌いな記憶や感情を一度に思い出させれば、体は拒否反応を起こし身動きが取れなくなる。幾度の実験で会得した、もっとも簡単な無力化の方法だ。
「殺しはしない。おまえには生きてもらわなければ」
「かはっ……! や、やっぱ、り……そう、か」
目を血走らせたアイリーンは、無様にうずくまりながら私を見上げた。さっきとは立ち場が反対ね。
犬のように唸る娘。
確信を持った視線が妙に気になる。
「やっぱり? ふん、お行儀よく質問してあげてもいいけど、そんな気分じゃないの。直接お前の記憶に聞いてみましょう」
「うあああぁーーーーッ!」
力の入らない四肢をばたつかせ、距離を取ろうとする姿……死に際の虫みたいでとても滑稽。お前が感情をはっきりと表に出したのを久しぶりに見た。
彼女の後頭部を掴み、ひれ伏せさせる。肉体的な強さなど全くの無意味だとこれで知ったでしょう。
私は反対の手を上にかざし、想像した。月の魔力を針金の形に。それを適当に丸めて……ほら、小鳥でも簡単に逃げられそうな籠ができた。でもお前はそうではない。丸めたそれをアイリーンの後頭部に当てる。物理的な干渉をせず、それはするりと彼女の頭に入って行った。
「これで全ては私のもの。さて、お前が隠しているものをさらけ出せ」
「やめ、て……お母様っ」
「私を母どころか疎ましく思っていたくせに、今さら娘ぶるな」
「ど、どうして……っく!」
知っているの? そんな思考が読み取れる。当たり前でしょう、今お前の記憶と感情を全て掌握しているのだから。私が記憶に触れる度、彼女にはその出来事が鮮明に思い出される。
説得も時間稼ぎもさせない。
「なるほど」
(あのユウというこ……女神魔法使い。彼とはどこで……そうか、ゴルダリアとも会っている。亀裂の対処後に行方不明……いや、生きている)
その記憶を見て、私はあることを思いついた。これは私だけが知っておいた方がいい秘密。月の女神に知られるのは少々まずい。
「うう……ああああぁ……」
「おまえは確かに私の娘ねアイリーン。目的のためなら自らの身体も使う。卑しく、下品で、愚かな娘。でも媚びる相手はもう死んだ……ああまったく!」
急に腹立たしさが込み上げてきた。同時に、あのユウという男への奇妙な感情も。
原因はわかっている、彼は最優先で消さなくてはならない。
「だからおまえに生きる理由を与えます……ユウ・フォーナーを殺しなさい」
「い、やだ……ああああぁーーーーッ‼」
渾身の力で拒否しているのが分かった。意志ではない、彼女の本能がそうしている。私は押さえつけた手に力をこめ、精神に絡ませた籠を締め付けた。魔力が絡みついた精神は既に私の制御下にある。私は直ちに抵抗の意志を削り取った。他の人にはどう見えているか知らないけど、私にとってそれは柔らかな雪から一部をすくいとる程度の容易さだ。
「おまえはそれでいいの? 命令を聞かなければ、陛下は悲しむでしょう」
「……へいか……が」
するとアイリーンはたちまち静かになり、ただ言葉を繰り返すだけになった。籠が相手の意志を閉じ込め、私の声だけを通すようにしている。
「今度こそおまえは、用済みになってしまうかも」
抵抗の意思を削り落とし、そこを命令で埋めていく。こうすることで私の命令を自分の意志で行っているように思いこませるの。
「だ、だめ、ころさ……なければ」
「そう、それはアークツルスの意志。ユウという男が大陸の平和を脅かしている」
「へいかの、いし」
「そう。陛下の意志」
「――――ッ!」
「なにっ!」
突如それは起こった。突風が吹き、部屋を荒らし始めたのだ。暴れる家具はそこらじゅうを破壊し粉々にしていく。窓は割れ、鏡は砕かれ、私はその一部に頬を裂かれた。
「アイリーンっ、何を!」
「う"う"う"う"う"う"…………ああーーッ‼」
絶叫したアイリーンは、信じられない力で私を振りほどく。焦点の合わない視線は怒りと抵抗に満ち満ちて、ゆらりと立ち上がった。立つことなどできるはずがない、ましてや魔法を使うなんて……。
「アイリーン、やめなさい!」
「いやだ、いや、だ……ころす…………さないィ!」
「だめ、殺しなさい。王はそうしろと仰っている」
うなり、食いしばり、動物のような目を向ける娘。いまだ風は吹き荒れ、ついにアークツルスが横たわるベッドまでがたつかせ始めた。
私はこの異常事態への対処手段を持っていなかった。風切り音と、渓谷に吹く海風のような彼女の叫び。絡みつく衣服を払いのけ、ただ何度も「殺しなさい」と言葉を繰り返すことしかできなかった。そして次に彼女に起きたことを、信じられなかった。
ドカッ!
「ぐぁっ!!」
「きゃっ! あ、アイリーンッ!?」
凄まじい衝突音が一度したかと思うと、びゅうびゅうと吹いていた風は嘘のようにぴたりと止んだ。空中を舞っていた家具たちも死んだように倒れ、傷つき、欠損している。だが私はそんなものが気にならなくなるほど、目の前で起きたことに驚愕していた。
部屋中を飛び回っていた家具の一つがアイリーンにぶつかり、それごと窓から飛び出したのだ。慌てて外を見れば、はるか南の夜空に人の影が見える。そこで初めて、あの家具は私ではなく最初から彼女自身を狙ったものだったと気づいた。渾身の力でも体を動かせないと知るや自らの負傷も恐れず、私からの逃走に成功したのだ。
「…………」
あっという間に砂粒よりも小さくなり見えなくなった影を見て、私は思った。これでよかったのだ、と。
荒れ果てた室内を進む。鋭い痛みが足先に生まれたが、確認しようとも思わなかった。
隅にうずくまる。
もうすぐヴィヴァルニア軍と同盟軍が衝突するだろう。これでようやく、私の役目も終わる。
「よろしかったのですか?」
きし、という音。窓辺に目を向ければ、しゃんとした佇まいの老婆が椅子に座っている。月明りに照らされた横顔は、ひどく邪悪なものだった。
その人ならざる目が、私を見下ろしている。
「私が余計なことをしなくても、あとは籠がやってくれる……。もう昔話はいいでしょう? あとはそっちの計画とやらがうまくいくよう、祈るといい」
女神は唸るような声で静かに笑った。
「どちらかと言えば、私は祈られる側にございます」
「ふん」
今のうちに笑っているがいい。私の反抗がおまえの首を飛ばしうると知った時、その石造のような顔がどう崩れるのか楽しみだ。でも今は、事の成り行きを見守ることしかできない。
「……」
ユウ・フォーナー。せめて私が見ていないところで死んで。
もう一度でもその目で見られたら、私は、耐えられない。
――――――五章「月の女王の記憶」 終




