7 19年前-2
「ああ、哀れな真珠。貴女の心は未だ理解を拒んでおりますね」
ゆったりとした静かな歩みで、彼女は私の前に立つ。
優しそうな老婆にこそ見えるが、その正体は月の女神。幼い私はそこから発せられる巨大な気配に肩を強張らせた。
「わ、私、あ……っ!」
私を中心に世界が回りはじめた。私の意思関係なく今まで起こったことに全て理解が及び、心が現実を拒否する。そして再び私が眠りにつこうとした。
しかし
「いけません。せっかく目覚めたのですから」
女神は杖で床を叩いた。コツ、と硬い音とともに石の床が波打つ。目を閉じようとした私は強制的に覚醒させられた。
同時に、私の知らない景色が頭の中に流れ込んだ。決壊した堤のように
「なにを……して、いる、の」
「貴女に協力していただこうと思いまして。眠っていた間の出来事を、流し込んでいるのです」
訳のわからないといった顔の私は、さぞ滑稽に見えただろう。しかしその「流し込む」行為が始まると、私は悶え苦しんだ。なにせ私の知らない私の記憶を「思い出す」のだ。体感と現実で違う時間のズレが、頭の中心から外に向かって刃物で突かれるような痛みを生み出した。
「常人の精神ではとても耐えられぬ話、よくまあ目覚められたこと」
「があ……う…………」
王の声で作られた魔法院。
サウワン拡張。
ないはずの私の記憶が失われた時間を遡って埋めていく。
見たことのない景色なのに、そこにいたという記憶が、私に空いた穴を塗りつぶしていった。
これが全てなんの事はない平和な記憶であったならどんなに良かったか。私は最後に思い出された記憶に、思わず口を抑えた。
「十年では、こんなものでしょう。さあ、お体の調子はいかがですか」
しばらく頭を抱えてうずくまっていた私の頭の中で、土砂のように積み上げられた記憶が勝手に繋がっていく。やがてその最後の記憶が、私の心に泥を塗った。
「うっ……そ、そんな」
まだ幼い私には、到底受け入れられない出来事。
(女神というのは、本当のことだったの……私がまさか)
「私が、あの方と……?」
「もうそこまで思い出しましたか。長く一つになっていれば、順応も早いようですねえ」
私が眠る直前の記憶。アークツルスが私のエリザベートの命を奪った、その瞬間が鮮明に現れた。
しかしあろうことかその後、私はあの男と結婚していたのだ。
憎き相手と夫婦になるなど、絶対にありえないというのに。途端に胸をどす黒い雲が覆っていく。恨み、憎悪、殺意が全身を満たした。
「しかし今日はここまでです。急いて壊れてしまっては、私としても本意ではない」
混乱と憎しみが吹き上がり頭が破裂しそうな私を置いて、女神は背を向けた。
向けて、消えてしまった。
「な、なに、どこに行ったの? うぅっ……」
「思い出して、心を整理なさい。再びお伺い致します」
それきり女神の声も気配も消えてしまった。
そして次の日から、女神から引き継いだ日々が始まったのだ。
何度も何度も、私は眠るたびにあの時の光景を夢に見た。
(またこの夢……いやだ、いやだいやだ!)
――――すま、ない
目の前で崩れ落ちるエリザベート。時間が巻き戻り、再び私の手を赤く染める。
(エリザベート! エリザベート‼)
――――ふんッ。無様なホラクトは、地に伏していろ。おい、死体は魔物にでもくれてやれ。
(アークツルス……おまえが! おまえが!)
女を後ろから射殺し、唾を吐きかけるその口を引き裂いてやる。
夢を見るたびにエリザベートはアークツルスに殺された。回数を重ねるごとに残虐になり、比例して怒りと恨みが積みあがっていく。
復讐を決意するのに、時間はかからなかった。




