29 陰謀
「陛下……」
王の寝室。人払いを済ませたそこには、生気の無い表情で臥するアークツルス王。そばで見守るのは妻、ベテル。
痩けた頬とだらしなく開いた口に対して、王の紅い瞳だけが獣のようにギラついていた。
「ベテル」
「お身体はどうですか? 倒れたと聞いたときは、心配で胸が張り裂けそうでした」
「……あまりに、あまりに早い寿命であった。まだやり残したことがあるというのに」
「寿命なんて仰らないで下さい。いつものように、薬を飲んで、一晩横になって……」
「いいや、わかるのだ。鼓動が弱々しく……指先も、動かない。自分の身体が死んで行く様を見せつけられるとは……ゴホッゴホッ!」
王妃は夫の手を取ってぎょっとした。その冷たさは、石の彫像を掴んでいるのかと思ったほどだ。
王の命は幾ばくもない。それがようやくベテルにもわかった。
「……私、お話しなければならない事があります」
「ゼェ……ゼェ…………」
「ジョセフとルーファスの死から、陛下は変わってしまわれました」
紅い瞳がベテルをうつす。身体の自由がきかなくとも、一度見れば二度と忘れない王の眼光は健在だ。
アークツルス王の息子ジョセフとルーファス。双子は父親と似て、小さな頃からその才覚を遺憾なく発揮していた。ある時起こった二人の凄惨な死は、王宮内に暗い影を落とすことになる。
特に父親アークツルス王は目も当てられない程の落ち込みようで、その頃から急激に年を取ったように全身が軋んで行った。今でもその時の記憶が蘇るたび、王の胸は締め付けられるように痛む。
「今も二人が生きていればと、思うことがある。アイリーンにも不憫な思いをさせたな……」
「死んでしまったのは……ひとえに、陛下の子であるから、ですわ」
氷点下の声に、王は目を丸くした。
「ベテル……何を言っておるのだ?」
「三十年前……メイオール………………エリザベート」
穏やかな表情に貼り付けた、狂気を孕む眼光。それが身動きすらままならない王を見下している。
その口から放たれた単語を聞いた途端王は青ざめ、胸を抑え苦しみだした。
「まさか、ベテル…………ずっと!」
目の前にある妻の顔が別人のように歪む。
「待っていました、この時を……私の愛する人を、あんなに………………むごたらしく」
「だから……ハァ、ハァ…………復讐を……っ?」
「復讐?」
声を上げまいと必死に肩を震わせるベテル。涙を浮かべ、嘲笑を王に向ける。誰もが知っている王妃の笑みはどこにもなかった。
「もう復讐は終わっているのですよ。アークツルス」
「なん……ハァッ……ゲホッゲホッ」
もがき苦しむ王。それをまるで見世物小屋の動物を見るが如く嘲笑うベテル。
「アイリーンは…………あなたとの子ではない。名も知らぬ、浮浪者との娘よ」
目前の命の燃えさし。まもなく王は絶望と憤怒の中で息絶える。
息子たちを殺し、身体を汚してまでアークツルス王を奈落に落とす。狂気をまとった瞳で、ずっとそれを願っていたとベテルは言う。
まもなく成就するそれに、彼女の胸は沸き立った。
「アイリーンを育てるおまえの姿。嗤いを抑えるのに必死だった……血もつながらぬ子どもを。下賤の血とも知らず……フフフはははははははは」
「ゼッ……ゼッ……ぐうっ」
「……ふん」
目の前に伸ばされた手をベテルは鬱陶しくはたき落とした。
「全く、わからなかったでしょう? 実はアイリーンが生まれる前、月の女神様が来たんです」
「つ、月……………!?」
「女神様から力を授かり、私は自由を得ました。私がどこにいても誰も不思議に思わない、何をしようとも……………だれに抱かれようとも。ジョセフとルーファスには互いへの嫉妬を膨らませ、殺害への抵抗を消せばあら不思議……………あとは何もしなくとも殺しあう」
「ううっ……………ゴホッ……」
「同盟の人形がこちらに軍を向ければ、強硬派が穏健派を抑え込んでくれるでしょう……………二つの国はつぶしあい、外つ国の侵略者どもがこの地を奪う。おまえの国は綺麗になくなりますね」
土色の肌が震える。
「もしかしたら、おまえの玉座はアイリーンが継ぐかもしれませんが……それはそれで、面白いかもしれません。くくく、浮浪者の子が、玉座に…………? あは、あは、ははははは……っ!」
「血は……」
しかし王は貫くような眼差しで、ベテルをわずかにのけぞらせた。
既に息も絶え絶えで、気力を総動員しなければ指一本動かせない。しかしそんな枯れ枝のような手が、ベテルの手首を掴んだ。その力は凄まじく、彼女はこのまま道連れにされるのかと思ったほど。そして真紅の瞳が相手を捉えると、王は最期の息とともに言い放った。
「血は……重要では……………………ない!」
「こ、このごにおよんで、何を………………アークツルス?」
「…………」
返事は無かった。干からびた身体のアークツルス王は、二度と息をすることはなかった。
「……ううっ」
ベテルがその手を引き剥がすのに、かなりの時間を要した。指の一本一本を、その骨を折りながら開いて行く。完全に開放されると、その下からは痛々しいアザのついた肌が現れた。
しばし呆然とするベテル。見つめた虚空が涙によって歪む。やがてそのべそをかく少女のようなくしゃくしゃな顔から、押し殺した嗚咽が流れた。
「エリザベート……わたし、やったよ。でも、どうして、今なの……」
若くして王位につき、およそ三十年。アークツルスはヴィヴァルニアを治めた。その生涯が、ぷつりと糸が切れたように終わったのだった。
***
「アイリーン、アイリーン! 指示は覚えてるのか!?」
「ああ……わかってる」
「大切な人が亡くなって、悲しい気持ちは俺にもわかる! だけど今は……亀裂に集中してくれ」
「わかってるって言ってんだろ!!」
「アイリーン様……」
深夜エンゲラズの真上に現れた亀裂は、都市全体をほのかに照らしていた。つまりそれだけ巨大で、開けば都市は壊滅的な被害を受けるということ。勇一ら三人は王の訃報を聞いた直後、亀裂への対応の援助を受けた。
「ユウ、覚えているだろうが、終わったら速やかにここを離れるんだ。正直、時間はないと思う」
「そっちも、ウルバハムを頼む」
豪雨降りしきるエンゲラズ、外を歩くには屑水晶の明かりが頼りだ。三人は街を動脈のように流れる水路を前に、指示を確認していた。
「本当にすまない、ウルバハム。自分の生家をも流すのは辛いだろう」
「そうじゃないといえば嘘になりますが……でもやらなければ、エンゲラズが壊滅してしまいます……ですから」
鼻をすすって、ローブの端を握りしめる。
「仕方のない、ことなんです」
亀裂が現れたのは、具体的に言えば貧民街の上空だった。その先端は地上を目指し、徐々に伸びていた。未だその事に気づいていない住人たちを避難させるには、あまりにも時間が少ない。
そこで王宮はやむ終えず貧民街を切り捨てることにした。川の上流で堰き止めた水を一気に流し、街の主要水路を氾濫させる。そうしてゴブリンどもを貧民街ごと一網打尽にしようというのだ。
当然そこに住むホラクトたちも巻き添えになってしまう。しかし彼らの避難を待っていてはエンゲラズそのものが危うい。
「あんなに支援していた貧民街を押し流すなんて……」
「お母様の……本性なんだろうか」
怒りと不安と悲しみに顔を歪ませ、アイリーンは苦々しげに呟く。
「早まったことはしないでくれよ。王妃をどうこうするのは、これが終わってからだ」
「今だけ、今だけは命令に従ってやるぞ……。ウルバハム、行こう」
「は、はい」
白く細い指が勇一の手に絡んだ。冬の豪雨、芯から冷える中で確かに互いの体温が伝わる。今生の別れを予感した彼女は、中々足を踏み出せないでいた。
「ユウ様……ユウ様、必ず、戻って…………」
「……大丈夫だウルバハム。さあ、行ってくれ」
半ばアイリーンに引きずられるようにしてウルバハムは勇一から離れた。そうして指示された通りにアイリーンと互いの手を繋ぐ。
「飛ぶぞ、しっかり握っていろ」
「……!」
ふわりと二人の身体が浮いた。アイリーンの風魔法が渦を巻く形で周囲を飛び、雨粒もつられて落下の軌道を歪めた。
「ユウ様……ユウ様ぁ!」
ウルバハムの叫びはあっと言う間に荒天の向こうへ消えていった。
しばらく二人が消えた方向を見ていた勇一だったが、雨から逃げるように顔をそむける。屑水晶のランタンを足元に置き、すっかり水位が下がった水路を見下ろした。
「星魔法が死霊術みたいなモンだとわかった時、どうすりゃいいかわからなかった……死体を操るなんて、嫌すぎるしな」
勇一は左手に目を落とした。手首から中途半端に生えた手のひらが、彼には異形に見える。
「まさか人助けに役立つなんてなぁ……イメージと反対でちょっと気持ち悪い………………でも、不思議と気分がいいときもある。今回もそうだ、俺の力でみんなを助けられるかもしれないなら……やるしか、ないじゃん」
目を閉じると、闇の世界に白いモヤが見えた。貧民街に重なるようにあるそれは、彼が思った以上に多い。
(頼む……来てくれ)
豪雨がぴたりと止んだ。凄まじい速さで雲が消え、空は満天の星空となった。
左手が削れ始める。その痛みは、凍える寒さが和らげた。




