14 女神の腕
「王宮の尖塔が見えるな……ということは、貧民街が近いはずだ」
「貧民街?」
「あそこなら、奴らもそう簡単には追ってこれないよ」
「なぜ?」
「……疫病があるから」
狭まる包囲網。まるで誘導されるように二人の青年は走る。
家々の屋根から頭を覗かせる王宮の尖塔。ハロルドはそこから、自分たちの大雑把な位置を割り出した。突き当たった場所は水路だった。飛び込めば這い上がるのは不可能な深さ、その向こうに貧民街と思われるあばら家が連なっている。
悪党と戦うか、疫病の残っているかもしれない貧民街に身を隠すか。
「水路沿いに行けばもうすぐだ。橋がかかっているはずだ。ベテル様が直された橋が……」
すぐ近くで二人を捜索する声が上がった。
迷っている時間はない。既に勇一の脚は限界を迎えようとしている。動けない者を庇いながら戦える技量も無い彼は、即座にハロルドの指示した方向へ走る。
家々の先に見える水路をまたぐ橋。それが終点と信じて、勇一は汗だくの身体に鞭打った。
***
「ハァ……ハァ……うそだろ」
「なんてことをするんだ、橋が……」
橋はあった。疫病が流行った際に焼き落とされ、のちに再建された橋が。できてまだ一年も経っていないそれはまだ若く、使われている木材はまだ明るく茶色がかっていた。
しかし二人は貧民街へ渡ることができない。何台もの横転した馬車が橋を塞いでいたのだ。
「向こうから渡ってこれないようにしたんだな。王妃様の直した橋を破壊するのはまずいからって、ここまでするか」
一旦ハロルドをおろした勇一はどうにか入れる隙間はないかと探る。しかし念入りに塞がれた橋を人を担いで乗り越えるというのは、結論から言えば不可能だ。
しかし、勇一一人なら難なくこえられるだろう。
「ここまできたんだ。頼む、おいて行かないでくれ」
先程まで普通に話していたハロルドの声が急に弱々しくなったので、勇一は何事かと顔を覗き込んだ。
彼の顔は真っ青になって大量の汗が流れている。
「おいハロルド、どうした!」
「ゆ、ゆらさないでくれ。食べたものがまずかったみたいだ……手足が、痺れる」
「はあ? こんなときに……」
腹を抑えてうめく貴族。
完全に動けなくなった彼を前に、どうにか二人で渡れないかと思案する勇一。
しかし、時間は待ってくれなかった。
「いた! 橋だ、橋にいる!」
野太い怒声が背後から聞こえ、勇一は振り返った。
複数の男たちが仲間の到着を待っている。完全に追い詰められてしまった。
目をギラつかせ、ゆっくりと距離を詰める男たち。
動けないハロルドをどうしようかと考えあぐね、彼はマナンの柄に手をかけた。
(どうする……殺しは最後の手段だ。それと無事にここを出られたら、こいつをぶん殴ってやる。約束なんてしるか)
まだマナンは抜かない。それを抜いてしまったら、後戻りはできなくなってしまう。
男たちは数を増やし、その数は二十人をこえていた。どう考えても一人で対処できる数ではない。
勇一は手負いの猛獣のように集団を睨みつけ、その気迫で男たちを威嚇する。しかし一人ならともかく、集団の相手には効果が薄い。
「倒れた方は後にしろ、まずはあのガキだ……そら行けっ!」
男たちが一斉に襲いかかる。一人や二人ならどうにかなる勇一も、十人をこえる数にはどうしようもなかった。しかし最初の数人を殴り倒し、頭突きでまた相手の鼻っ柱を叩き潰す。彼の抵抗は苛烈だった。
「オオオッ……! っつあ!」
が、それも一瞬のことだった。後ろから迫った棍棒をまともに受けた勇一は、遂に膝をついた。
丁度いい位置に下がった彼の頭を、誰かの膝が打ち抜く。そして彼が完全に倒れたにも関わらず、男たちは容赦ない蹴りと殴打を加えた。
「や、やめろ! ユウ!」
一方的な暴力がしばらく続き、やがて静かになった。男たちの足元には、ボロ切れのようになって動かない勇一。わずかに吹いた風が灰色の髪を揺らす。
特に大柄な男が最後に一発を勇一に決める。完全に動かなくなったそれにつばを履きかけると、今度はもう一人の方に向き直った。
ハロルドは手足の痺れと戦いながらも、辛うじて上体を起こす。
「ユウ……!」
「はっ、抵抗するからこうなるんだ。おいお前、貴族の坊やを連れていけ……っギャアアアアアーー!!」
およそ男から出たとは思えない甲高い声が通りにこだまする。
大柄な男が膝をついた。何事かとその仲間と戸惑うハロルドの視線が集中した。
勇一がマナンで男の足を地面に縫い付け、そして引き裂いたのだ。膨大な魔力によって鋭さを増したマナンは、地面ごと肉と骨を容易く断つ。二股に裂かれた足からはおびただしい量の出血、周囲の男たちもうろたえる。
「まだ……まだだァ!!」
全身に殴打を受けた勇一は立ち上がった。殴られるなど経験済みの彼はこの程度で折れはしない。それどころか、どうやって奴らを痛めつけてやろうかと怒りを燃やしている。
「平気で一人をリンチしやがって、わかってんのかお前ら…………」
「あ、あああ、あ」
「ユウ……?」
ハロルドには勇一の周囲の空間が、まるで高温をまとっているかのように歪んで見えた。彼は何度も目をこすり、それが本当であることを理解する。
しかしそんなことがあるわけがない。周囲を歪ませるほどの熱など、人体が耐えられるはずがない……。ハロルドは目の前で起こっている現象を、どうにか自分に理解させようと必死だった。そして次第に、自分の心に言いしれぬ不安が生まれ、それが増幅されていくのを感じた。
「覚悟しろよ……」
「ユウ、君は一体……」
「ひ、ひ、ひいぃぃ!」
男たちは足がすくんで動けない。しかしその理由は、生傷が痛々しい勇一の睨みによってではない。突如現れたそれを見てしまったが故だ。
「ユウ!」
「黙ってろ! コイツら全員ぶっ殺して……」
「ちがう! 君の、それは、なんだ!」
絶叫に近い声を上げるハロルドにたまらず怒りの拳を止める。彼の怯え切った表情と震える指先の向かう先は、勇一自身に向けられていた。
「それぇ? ……!」
それはいつの間にかあった。勇一の左肩を根本に、細く白い腕が生えている。霧が形を持ったようなそれは、まるで意思を持っているかのように指先を彼に向けた。
(女の……腕!?)
その腕は指先の赤い爪で勇一の唇を優しくなぞった。それだけで彼はそれがどれだけ危険かを悟る。次の瞬間にはハロルドへ怒鳴りつけていた。
「目を閉じろ、ハロルドォ‼」
叫んだ。
これはまずいものだ。
自分以外が見てしまったら、大変なことになる。と。
「な、何だこれは……ユウ、い……ったい、どう……かはっ」
「見るな! ……っ!」
勇一は男たちへの怒りも忘れて叫んだ。びっしょりと背中に汗をかき、呼吸は浅く、心臓はありえないほど脈打っている。とっさに地面を蹴った。巻き上がった砂埃がハロルドの目に直撃し、彼は痛みに目を閉じる。
「うわぁっ!」
「そのままだ! そのままでいろっ!!」
彼の周囲にいる男たちは今までしていたことも忘れ、足の甲を裂かれた大男もその腕に見入っている。勇一とハロルド以外の全員が、生きていることも忘れただ固まっていた。
***
男は恐喝と誘拐で生計を立てていた。親しいものも家族もいない彼は、誰かを殴って得たわずかな金を酒に変えては夜を明かす。誰も信用しない……そんな男だった。
強欲な偏屈ババァの食堂に今しがた入っていった貴族を誘拐しようと持ちかけられたそんな話も、現地につくまで信じていなかった。男は自分が取り分を全てもらおうと張り切った。何も難しいことじゃない。金を受け取る直前に関わったやつを全員殺せばいい話だ、と。
貴族の護衛らしき青年を袋叩きにし、さてどうやって金をせしめようかと考えたときにそれは起こった。仲間の一人が足を刺されのたうち回るのを内心大笑いしながら見ていると、背中に冷たいものが走った。
子どもの頃、父親にひどく殴られたあと、夜の通りを歩いていたとき。数匹の野犬に襲われたときのことだ。地を這うような唸り声と、ギラギラ光るいくつもの眼。少年の彼には決して逃げられない絶望そのものが、形を持って追いかけてきたように思えた。
あのときどうやって逃げ切ったか思い出せない。背後に迫る土を蹴る音、よだれを泡立たせながらする激しい呼吸音、全てが自分の命を断つために発せられていた。
(思い出せない……? ち、ちげぇよ、こんな記憶覚えがねぇ! なんだ、なにが、どうなってやがる……こえぇよ…………ちくしょう、こええよぉ!)
彼の目線はいつの間にか、白い腕にとらえられていた。
心臓の中心から凍りつく感覚、そこから送り出される血液もまた冷たい。血管は凍てつき、全身が震え、しかし目線は白い腕からそらすことができない。男の感情は増幅され、彼はもはや自分が何に対して恐怖を抱いているのかわからなくなった。
大人気なく涙を流しても、情けなく助けてくれと懇願しても、恐怖は男を嘲笑した。形のない、正体のつかめない恐怖そのものが、男と、その仲間たちを包んだ。
***
「い……いや、だ。いやだぁーーーー‼」
「はっ……はっ……はっ……はははは……はっ」
「助けて……だずげで……ああっ‼」
突如始まった阿鼻叫喚の事態に、勇一は困惑と白けた感情に支配された。
骨のように白い腕が現れてから十数える間に、固まった男たちが突如叫び始めた。泡を吹いて気絶し、失禁しながら脱兎のごとく逃げ出すものもいる。寂れた家々の通りは男たちの悲鳴で満たされた。
勇一から生えた白い腕は、その間何もしなかった。存在そのものが脅威であるがごとく、ただそこにあるだけだった。
男たちがほうほうのていで逃げ出す。そしてあたりが水を打ったような静けさが戻ると、役目を終えたとばかりに腕は消えていった。
(一体なんだったんだ、この腕は女神の……? いや、そんなことより……きた!)
「うっ、ぐうううううう……‼」
腕が消えた直後、指先から針を差し込むような痛みが彼を襲う。それは稲妻の如く腕を伝って全身に広がった。
「ぐああああああああああああーーーーっ‼」
「ユウ……もう、目を開けていいのか? って、おいどうしたんだ!」
地面には二つの血だまりが出来上がっていた。一つは足を貫かれた男のもの、もう一つは勇一の代償によるもの。女神魔法を発動した彼の身体は、身体の端から文字通り削られていく。
しかし事情を知らないハロルド・ガリアバーグにはそんなこと知る由もない。彼の目には突如勇一が苦しみだしたようにしか見えないのだ。手足の痺れをおして駆け寄るも、相手の状態がわからないからどうしようもない。
神経を焼き切るような激痛に、ついに勇一は意識を手放してしまった。
「…………」
「おい、おいユウ! 気を失っている……」
「何やってるんだぃボンクラども! あいつら捕まえるのは今しかないよ、さっさと行くんだ!」
通りに面した廃墟から食堂の老婆が現れた。彼女は数人の護衛らしきものたちを引き連れ通りに躍り出る。隅で体を丸めて震える男を蹴飛ばし、二人の方へ杖を向けた。
「っく、後で説明してもらうからな!」
ハロルドは震える脚を立たせ、迫る男たちに向かって構える。体勢を維持するのがやっとで戦える状態ではないことなどわかりきっていたが、それでも彼は立った。
「君一人なら逃げ切れただろうに、私を置いていかなかったな。全く……これで私が一人逃げ出したらどうするつもりなんだ」
気絶した勇一を後にやり、馬鹿にしたように呟く。しかし自分の発言を嘲笑うかのように鼻を鳴らす。
「なんてね……私は貴族だ。不義理を良しとするような男ではない。あんなクズどもや、ホラクトのようなケダモノとは違うんだ」
結果的にとはいえ自分を守ってくれた。そんな相手を捨てることなどできるはずが無い。彼も男という性に縛られた者の一人。しかしそれを煩わしいと思ったことなど、一度たりともない。
(せめてユウが目覚めるまでは……)
迫りくる敵に覚悟を決め、彼はふらつく足で土を掴んだ。やがて最後の抵抗が始まろうとしたとき、それは頭上からやってきた。
「うわあっ! なんっ、誰だっ⁉」
突如後ろから首根っこを掴まれたハロルド。彼が驚き抵抗する前に足が地面から離れた。
問われた何かは答えない。しかし彼の視界に勇一を掴んだ白い腕が見えると、彼はまたあの腕かとギョッとする。
「あ、いや……これはホラクトの腕!? ああ、なんてことだ!」
「畜生! ホラクトがガキどもを連れていく!」
不自然に腕が長いのはホラクト特有の高身長故だ。二人はそれぞれ、倒れた馬車の向こうからやってきた腕に持ち上げられた。そのまま軽々とした動きで橋を塞ぐ馬車を飛び越えてしまう。
「は、離せっ! 誰に何をしているのかわかっ……うわああ!」
二人を持ち上げたのは一人のホラクトだった。背が高く、灰色の肌に、細い四肢。そんな身体から考えられないほどの怪力。そして、女だった。
「こちらへ。あの人たちも追っては来られませんよ」
ホラクトの女は持ち上げた二人をそのまま肩に担ぐ。そして塞がれた橋の向こうで騒ぐ男たちを一瞥すると、広い歩幅で貧民街へ入って行った。




