1 はじまり
「では、貴方を転生させます……上野勇一」
上野勇一の思考を眩ませていた霧が晴れた直後、彼の目前に浮かぶ女性は言い放った。一切の闇が覆う世界に漂う彼は、ほのかに光をまとう長身の女性から目を離せなかった。真っ白な肌をした彼女は勇一がどこかで見た服装で、手を伸ばせば届く距離から哀れみの視線を送っている。
「転、生……いきなり、何を……言って…………?」
「ごめんなさい、説明している時間はないの」
ズン――――
分厚い壁の向こうで何かが爆発したのか、衝突したのか。それは空気ごと勇一の内臓を震わせた。彼は今の状況を理解しようとしたが情報は少なすぎた。常識外の事態が起こっているのと、もう時間がないらしいことしかわからなかった。
「ちょっと! いつまでやってるのよ!」
どこからか聞こえてきた甲高い声。女性は悲しそうな表情をそちらへ向ける。
「太陽……そうね。上野勇一……貴方は向こうで、寂しい思いをするでしょうね……もっと時間があれば」
「な、何が起こってるんですか?」
「言ったでしょう、時間がないと。ここにいる間の記憶は、向こうに持っていけません。さぁ、行きなさい」
ズン――――
今度は耐えきれなかったらしい。勇一が闇だと思っていたそれが崩れ、そこで初めて闇ではなく壁だったと気づいた。壁はその強度を遥かに越えた力によって引き裂かれる。女性の後方で崩れ現れた隙間、そこから何かが飛び出し彼女を襲った。
「ああっ! だ、大丈夫、ですか!?」
「行きなさい。目的なんてなくて良い。今はとにかく、生きて……貴方が無事なら、私も大丈夫」
胴を引き裂かれた彼女の身体からは、一滴の血も流れなかった。腰を抜かす勇一とは対照的に、女性は今度は優しい微笑みを彼に向けた。
燃え盛る火炎の髪を振り乱して慌てる少女が、女性の後ろに現れた。見下した目付きで勇一を睨み付け、彼を指差しながら上半身だけの女性に訴える。
「本当に、本当にこんな弱そうなやつで良いの!?」
「太陽、彼に私の一部を預けました。癒着は……うまくいっていると、信じるしかありません」
「な、なにがどうなって……」
「あんたは黙って、さっさと行きなさいよ!」
「う、うわあああぁーーーーーー!!」
ズン――――
遂に壁が崩れ去った。と同時に、重力の様な力が勇一を後ろに引く。彼が数度瞬きしただけで、二人の女性ははるか遠くに行ってしまう。その間にも壁の穴は広がり、巨大な裂け目となった。
そして勇一は確かに見た。裂け目から見えた星々、巨大な月。引き裂かれた金属のような悲鳴、視界を支配し始める地表、無数のくぼみ。気高い黄金の輝きが、二人を圧殺した。
(転移門は開きました、地表のどこかに送ります。もう一度言いますね……生きて)
頭の中に響いた声は、それっきり消えてしまった。
そうして上野勇一は、転生を果たした。
……。
…………。
………………。
彼は異世界にいた。
どうやってこちら側に来たのか、何故こちら側に来たのか知る由もなく、ただ投げ出された。
彼が異世界に来て最初の不幸は、投げ出された場所が急勾配の坂の上だったことだ。そのまま重力に従い、勢いのまま彼は山肌を転がり落ちる。
余程の勢いがついていたのか、それは軸から外れた車輪の如くただ転がっていた。
そこは一面木々でおおわれた山であった。管理等と言う言葉とは縁もなく、無秩序に植物が生い茂り動物達の楽園でもある。
所々の岩や木の根にぶつかる度に
「うぐっ」
とか
「あがっ」
だとか、不意の衝撃で肺の空気が押し出されるがままに声をあげる。
やがて彼は止まった。
大きく足を開いて岩を背もたれにして止まった。
彼の名は上野 勇一
これから彼は、この世界で多くを経験するだろう。
せめてその旅路に、祝福のあらんことを。
***
「いっ……つつつ……………さ、さむっ!」
うつ伏せに止まった体を起こし、ぼんやりとした頭を持ち上げる。月明りで夜だということはわかったが、どこにいるのかわからない。見渡してみると、名前もわからぬ草木が鬱蒼と生い茂っていた。
ついた手に触れる葉先のチクチクとした感触や、時々野生動物の鳴き声が聞こえる。誰かに説明されなくとも、彼はここが森の中だと気が付いた。
「ここは……ックシュ‼ は? なんだこの服……」
次に彼は、自分が見慣れない服装をしているのに気が付いた。広い一枚の布をどうにか着られるようにしましたと言わんばかりのみすぼらしい恰好。ただ身体を覆うだけのそれは、山の中を歩くのには向いていない。
何度目かのくしゃみをした彼は、自分は遭難しているのだと理解した。それならばと、とにかく人里を探そうと立ち上がる。
「……うん? 何の音だ?」
一歩踏み出す直前、視線の先で茂みが動いたような気がした。人の手が入っていない山、うごめくもの……獰猛な野生動物だったらどうしよう。そう思いつつも勇一は興味のまま音の方へ向かった。足の裏をつつく小石の痛みを我慢し、姿勢を低くする。
「なんだ……………あれ?」
「ヴルルルルルル……………」
それは小さな影だった。勇一の腰より低い大きさで、二本足で立ち、一心不乱に土を掘っている。薄暗闇の中でかろうじてわかる口の中に、何かをつまんでは放り込んで行く。およそ人間らしさなどとは程遠い雰囲気でぎらつく目をせわしなく動かしていた。
勇一が実際にそれを見るのは初めてだったが、過去に読んだ様々な媒体を思い出した。輪郭と獰猛な雰囲気から、記憶を検索し答えを思い出す。
「ゴ、ゴブリン? ……………うっ、オエェッ!」
鼻を何かが腐ったような刺激臭が襲う。それは間違いなく目の前の生き物から発せられていた。
「ウ、ウウ……………グヴゥッ!」
ゴブリンは勇一が出した音に敏感に反応した。四つん這いになって彼の方へ鼻先を向ける。自分に向けられて初めて、勇一はゴブリンの目が白濁しているのが見えた。
臭気はゴブリンの全身、とりわけ口内から特に吐き出されている。見るだけでも不快な様相。勇一の本能が逃げろと告げている。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――ッ‼‼」
「うわあああーーーーッ‼」
耳をつんざく奇声とともにゴブリンが地面を蹴った、勇一も咄嗟に身をひるがえす。かつて自分がいた草むらに身体を打ち付けるゴブリンを見て、勇一は脱兎のごとく逃げ出した!
「な、何なんだよ、何なんだよここぉっ!」
「キャアア――ッ‼」
奇声が背後から聞こえたが、勇一は振り返らなかった。
夜の森、頼りになる灯りもなく、月は雲に隠れて、足元は木の根が血管のように敷かれている。
摺り足で歩こうにもつまずき、転び、体を何かにぶつける。何度そうなったかわからないが、いつしか彼の服も体も泥にまみれていた。
走って、走って、走って走って走って……………一時間は走ったかもしれない。
家に帰ったら誰かに話そう、その前に警察……などと考えていたとき、下の方で灯りが見えた気がした。
目を凝らすと、確かに焚き火が見える。少し急な坂の下、数十メートル先に焚き火がある。もしかしたらここは、どこかのキャンプ場なのかもしれない。更に焚き火の周りには、複数の人影がみえる。
(助かった!)
こんなに遠くに見える火でも、彼の心を安堵させるには十分な効果があった。そして、足元の注意をそらす効果も。
足を木の根が掬った。前のめりに転倒し、坂を転がり落ちる。
やがて地面に叩きつけられる形で焚き火のもとにたどり着いたが、疲労困憊の彼はそのまま意識を手放した。そしてまぶたが完全に閉じる前に確かに見た。
焚き火の前に座っている、人間にしては大きすぎる複数の人影。その内のひとつが彼に近付く。逆光で影の形しか確認できないが、その人影には人間には付いているはずのない、太く長い尻尾のようなものがついていた……。