2-1 ナスナは匂いが気になる
「フジくん! 部室に行きましょう!」
帰りのホームルームが終わるなり、タカミは大きなポニーテールを揺らしながらすぐにフジの元へとやってきた。
「うん」
タカミの揺れるポニーテールの後に続いて、騒がしい教室を後にする。
「今日はどうでしたか? なにかありましたか?」
「道を歩いてたら急に猫が飛びかかってきて顔を引っ掻かれた」
フジの顔には絵に描いたような三本の引っかき傷がまだ残っていた。
傷を見せながらもフジの目線はタカミの柔らかそうなふとももに落ちる。
「かわいい猫が見られてよかったですね!」
フジがいつもの不幸エピソードを語るが、タカミの反応は先日と同様、世界のすべての悪を許してしまいそうな返しをしてくる。
「しかも黒猫だよ……どう考えても不幸なできごとだよ」
「黒猫が横切ると不幸になるっていうのは、日本では間違いなんですよ!」
「そうなの?」
「国によって解釈が違うんです。
少なくとも日本では魔除け、商売繁盛などの象徴なんですよ」
「だから、運送会社のマスコットは黒猫なんだ」
「そのとおりです!
これから良いことがあるかもしれませんよ!」
「そうかなぁ……」
フジは不安を感じながらも部室まで一度も転ばずにたどり着いた。
(本当にタカミさんと一緒にいるとなにも起きない……。
僕の不幸とタカミさんの幸せが中和されてるみたいだ)
フジが驚いている間に、タカミがドアを軽快にノックする。
「はぁい」
部室に入ると、先日とは違うりんごのような匂いがした。
椅子に座り、目をつぶって穏やかな表情をしているナスナがいるだけで、そこにはりんごはない。
「この匂いはぁ、フジくんとタカミさんですねぇ~」
目をつぶって入り口の方を見ていないにもかかわらず、ナスナは入ってきたふたりを言い当てた。
「はい! こんにちは、ナスナさん!」
「こ、こんにちは。ぼ、僕達廊下でそんなに大声でしゃべってましたか?」
「いいえ~、匂いで分かるんですよぉ」
目を開いて、ミツバチや蝶に好かれる花のような笑顔をこちらに向けた。
あまりの眩しさにフジは目をそらす。
「さ、フジくんの席はここですよ!」
「う、うん」
タカミの手の先には昨日はなかった木の椅子がある。
リビングなどで緑色の座布団が敷いてあり、腰の着くところには低反発の青いクッションも置いてあった。
改めて見てみると、この部室には学校の備品らしいものがほとんどない。
カーテンもよく見当たら学校で使われてるものではないし、ロッカーや棚などもない。
荷物は部屋の隅にあるバスケットに各自置いている。
そのバスケットも今日見たらひとつ増えていた。
(席とか用意してもらったけど、僕がこの部活ですることってあるのかな)
と部屋を見渡してフジは思った。
タカミの言う『幸せになるための方法』を模索、研究することが、部活の活動になるらしい。
だがフジには未だによく分からず、無意識に顔を固くする。
「フジくん、緊張してます?」
「あ、そんなこと、ない? えっと、でも、してるかも……」
タカミの言葉に最初は気を使って『大丈夫』と答えようとしたが、正直に言ったほうが助けてくれるかもしれないと思って、迷った返事をしてしまった。
他のひとならば『はっきりしろ』と怒られてしまう回答だが、タカミはニッコリと笑った。
「急に知らない空間でリラックスしろというのは難しいです!
でもこの空間は気を使ったりしなくていいんですから、のんびり好きなことをしていいんですよ!」
「好きなこと、と言ってもプラモデルは作れないかな」
それは模型部ですることだし、模型部がないなら立ち上げてそこでプラモデルも作ればいい。
幸福部の活動理念からは離れているとフジは思いながら、気弱な声で口にする。
「いいですよ! 作っても」
「えっ?」
のだが、ダメ元で口にしてしまったことをタカミに肯定されて、フジの口は『え』の形で固まる。
「前にセンさんがぁ、昨日も持っていた御神体をを作ってましたよぉ」
「御神体」
ということはプラモデルを作っていたのだろう。
アロマの匂いを嗅ぐナスナ、誰かの手相を見ているケント、それをニコニコと見ているタカミ、そんな楽しそうな光景の中であの禍々しい形のプラモデルを黙々と作るセン。
そんな光景をフジは想像し、
(なんかシュールな光景だなぁ)
と口には出さずに思う。
「でもぉ、そのときはぁ、接着剤とか使ってなかったですねぇ。
プラモデルの箱や組立説明書の匂いはとても新鮮でしたぁ。
ですが塗装もぉ、ご自宅でしてたようですしぃ……ちょっと残念でしたわぁ」
「最近のロボットのプラモデルは、接着剤使わなくても作れちゃうからね。
設定通りの色なら塗装しなくてもいいし」
「じゃ~あ、フジくんはぁ、接着剤や塗料が必要なプラモデルをぉ、作ってるんですねぇ」
「うん……ロボット以外にも軍艦とか戦車とか」
「どんな接着剤や塗料を使ってるのかぁ、教えてほしいですわぁ。
さっきからフジくんの匂いがぁ、気になって仕方ないんですぅ」
「……そんなに匂いするかな」
フジは自分の手のひらに鼻を当てて匂いを嗅いでみるが、これといって匂いはしない。
「普通のひとは分からないですよぉ。
わたくしだから分かるんですぅ~。
だからどの塗料とか使ってるのか教えてほしいなぁって」
「待っててスマホで調べるから……」
そう言ってフジはスマホを取り出して、塗料を販売しているプラモデルメーカーのホームページを開こうとするが、
「あ、電池が……」
操作の途中で『電池がなくなりました。充電してください』という文字が出て、画面は真っ暗になる。
調べたかった情報の代わりに画面にはフジの顔が写り、気分が暗くなった。
「昨日の夜中停電があったんだよなぁ……それで充電できてなかったのかな」
「あらあら~。調べることはできなくてもぉ、種類は覚えてるんですねぇ~」
「うん」
「じゃ~あ~、今から買いに行きましょう~」
「買うの? わざわざ?」
「うん~、気になっちゃってぇ」
本当に匂いへのこだわりがすごいのだろうと感じながら、フジは首を傾げる。
ナスナの口調はとてもおっとりとしていて、彼女のアロマの効果と合わさると眠気が刺すのではないかとフジは思っている。
そんな言葉からでもナスナの強い興味と熱意を感じ、
「じゃあ、一緒に……行く?」
恐る恐る聞いてみる。
「はい~」
フジは女の子と一緒に出かけるということが恥ずかしく、少しためらう。
だがナスナのこだわりを感じると、それに協力してあげたいという気持ちが恥ずかしさを押しのけた。
「じゃあタカミちゃん~、今日はフジくんとぉ、校外活動して直帰いたしまぅ~」
「じゃあ、わたしも行っていいですか!」
「もちろんですわぁ~」
フジは目を見開いた。