39で~す。どんな時でもそう言って笑える君が羨ましいけど、非常にうざい。 ~気に食わないあいつの腹にドンッ!~
獅子蜥蜴が俺の存在を発見した。
「―――――――ッ」
咆吼。
とっさに個室へ駆け込む。女子トイレだったが、気にしちゃいれない。
次の瞬間、それまで俺がいた場所に獅子蜥蜴の鋭い爪が走った。ドアは吹き飛び、床はえぐれて溝が刻まれる。
間一髪、回避出来たが、事態は収拾していない。いや、むしろ悪化している。
獅子蜥蜴は俺を切り刻もうとさらに飛び込み、ドアの残骸ごと周りの壁を吹き飛ばし、追いすがってくる。
むりやりねじり込んだその体をさらに奥へ、俺のいる個室まで迫る。女子兼男子の対面トイレの中まで頭を押し込めてくる。
「うおぉぉぉぉ!!!」
目の前でガチンと顎が閉じられる。鼻先を牙がかすり、風を残して通り過ぎる。さらに続けて何度も目の前で開き、閉じる。
閉じられるたびに、鋭利な牙がガチガチと硬質な音を鳴らす。生臭い吐息と押し出されるような鼻息が、俺の顔めがけて噴出される。前髪が揺れる。先ほどよりも濃厚な、むせ返るほどに濃厚な生ゴミのような匂い。
ギリギリのところで、俺に届いていない。どうにかまだ、届いていない。
いくら壁を壊したとはいえ、獅子蜥蜴の巨体にトイレ前の廊下は狭い。それでもねじ込み、体を限界まで折り曲げて、個室に頭を突っ込んだのだ。
はまった。
壁に引っかかっている。
後退することも一苦労だろう。
ドア枠に、廊下にはまって、前にも後ろにも動けなくなっている。それでもなお、頭だけでもさらに奥へと、四肢を踏ん張る。
首を伸ばすたびに、壁にひびが走っていく。体を押し込むたびに、細かい破片がぱらぱらと舞い落ちていく。
だが、壁は壊れない。二回も壁を破壊する勢いはない。
少なくとも、しばらくは動けまい。
だが、それは俺も同じだ。
迫る牙をすんでの所でなんとか避けているが、これ以上は後がない。文字通り、後には壁しかない。追い詰められている。
やつが首を伸ばしてくるたびに、部屋の隅にぴったりと張り付いて、便座や配管に乗ってどうにかこうにか避けているけれども、それもそれも時間の問題だろう。
対面トイレの個室の中、片やドアから頭を突っ込む獅子蜥蜴、片や壁にへばりついて閉じる顎の一回一回に恐れおののく俺。
命をかけた対面トイレ。俺と蜥蜴が対面する。トイレの中で対面する。
俺が男性側、獅子蜥蜴が女性側にいる。これでこの獅子蜥蜴が雌だったら、それこそ奇跡のシチュエーションなのだろうがそんなこと言っている場合ではない。
なんだ。命をかけた対面トイレって。訳がわからない。
なんとかしないと。とっさのことで奥に逃げ込んだけど、そのせいで逃げ場を失ってしまった。
目の前にもう一つ、出口はあるにはあるが、それも獅子蜥蜴の猛追のせいで通ることは出来ない。行う隙がない。
(このままじゃ、じり貧だ)
再び首が伸びてきて、再び便座に乗って逃げる。―――――と、突如、足下から水が流れる音が聞こえてきた。
レバーでもひねってしまったかと思ったが、それにしては便器に水が流れていない。
それに、妙に機械っぽい音が……………ああ、これ、音姫だ。避けるときにスイッチを踏んでしまったのか? 音姫の水流音が流れている。
亀と音姫、奇跡の対面。甲羅は砕け散ったけど。
獅子蜥蜴は予期せぬ音に一瞬ひるんで下がるが、それも少しの間だけ。すぐに気にせず、口撃を再開した。
(一瞬下がったけど、ドアを開けれる程の隙はなかったか)
けれども、おかげで一つ、思いついた。獅子蜥蜴の意表を突いて脱出する策。よし、試してみるか。足の先でつまみを回して、出力最大に、っと。あとはタイミングをはかって…………今!
獅子蜥蜴が首を伸ばすタイミングを狙い、足下のスイッチを押す。シャコッという軽い音と共に、便座から一本のノズルが伸びる。そして先端からピュッと勢いよく水が飛ぶ。ウォシュレットだ。
驚かせられれば御の字、そんなぽっと出の思いつきだったが、期待以上の功を奏した。
勢いよく飛び出した水流は、獅子蜥蜴の残った左目に命中。目を閉じて大きく頭を仰け反って離れる獅子蜥蜴。
潰れた右目の影響だろう。失う事への恐怖心からか、過剰とも言える大きな反応を見せる。
その、一瞬だけ拾ったその隙に、目の前のドアを開いて飛び出した。
とっさの事に反応が遅れた獅子蜥蜴の追撃を、勢いよくドアを閉めてかわす。獅子蜥蜴の鼻っ面に、思い切り叩きつける。
想定外の反撃に、悲鳴を上げる獅子蜥蜴。
その隙に、突進によって広げられたドアの残骸をすり抜ける。獅子蜥蜴のすぐ脇を急ぎ、駆け抜けた。
(なんとか隙間から脱出できた。後は、あいつが引っかかって出て来られないうちにパージボタンを押せば)
出口に向かって走る。もう少しで全てが終わる。あと少しで出られる。もうちょっとで―――――そう思った瞬間、急に腹部に衝撃が走り、吹き飛ばされた。
壁に激しく、叩きつけられた。
「―――はっ!!」
背中から壁に叩きつけられ、肺から空気が押し出される。
意識だけは手放さなかったが、背骨を強打した。体の隅々から痛みが伝わってくる。痛さと苦しさとしびれで、動けない。
何が起こったのかわからなかった。
だが、呆けていられる時間はない。悲鳴を上げる体をなだめつつ、獅子蜥蜴を見る。
未だにドアに引っかかっている。体を揺らし、尾を振って、必死に抜け出そうともがいている。
振られている尾が、まるで鞭のようにうなりを上げて壁に、床に、天井に叩きつけられ、暴れ回っている。
俺を吹き飛ばして叩きつけたのも、その尾なのだろう。
「ぐうぅぅぅ」
痛みの原因が判明したことで、まるで痛みが増したように感じて、一瞬だけ、痛みに気を取られてしまう。
その気を取られてしまった一瞬、ほんの一瞬の間が、命取りとなった。
ガラガラと崩れる音が聞こえた。
獅子蜥蜴のはまった壁が崩れていく。ゆっくりと、その縛が解かれつつある。
「まずいっ!!」
急いで立ち上がり出口へ駆け出そうとして、自分がいる場所に気がついた。
行くべきはずの反対側。向かうべき場所から一番遠い、外周部へ続く隔壁。その真下に、俺はいた。
獅子蜥蜴の尾に叩きつけられたとき、はじき飛ばされたのだろう。おそらく、偶々(たまたま)当たっただけ。
本当に偶然、振り回されていた尾に当たって、偶々(たまたま)、目的地の反対に飛ばされた。偶然で、偶々(たまたま)。だからこそなおのこと、自分の運のなさに嫌気がさす。
そして、悪い事は続くものだ。
壁にはまっていた獅子蜥蜴が、ゆっくりとその身を引き抜いていく。
徐々に、行くべき道を塞いでいく。丸太のように太い尾が、うなりを上げて振り回されている。
もう、今から進んだところで、迫る尾を避けながら進んだところで、振り向いた獅子蜥蜴に追いつかれる。逃げられない。
もう、すぐにでも獅子蜥蜴はこちらを向く。完全に、機を逸した。
生き残る可能性がまた少し、遠ざかった。
(続)