にい3は6に休めず、今日も今日とて追われています ~地獄レース、本戦開幕~
全力で逃げる。節々(ふしぶし)は痛み、疲労は困憊、普段の何割分もスピードは出ていないが、それでも持てる力の限り走る。
それは、獅子蜥蜴も同じだ。遅い。声が遠い。草原で追われていた時のような圧力を感じない。死にはしなかったものの、落下のダメージは思った以上に大きいようだ。それでも必死に追ってくるのはもはや、執念というものなのだろう。
走る。走る。走る。
中枢から外周部に向かって、どんどん追いやられていく。それにしたがって、どんどん行き止まりに追い込まれていく。
だが、それよりも、そんなことよりも、もっと危険な可能性がある。恐ろしい事がある。パージだ。
籠城しても、奥へ逃げても変わらない。
今この瞬間にも、あいつが何らかの拍子にパージボタンに触れてしまえばそれでおしまいだ。
どれだけ作戦を練ろうとも、パージされてしまってはどうにも出来ない。空に放り出されて、さようなら。
俺とあいつで空中散歩の無理心中、なんてごめんだ。
それだけは防がないといけない。
時折壁の裏に入って、獅子蜥蜴から見えなくなるように蛇行しながら走る。
まっすぐ走る方が追いつかれないし、疲労度も少ないのだが、これも作戦のうちだ。あえて、目標が定まらないように動く。
もちろん、パターンを読まれないようにランダムで。片目が潰れているあいつにとって、狙いがはずれるというのはかなりのストレスだ。そしてそれは、徐々に判断力を鈍らせる事に繋がる、はず。
目的は他にもある。挑発したのも判断力を鈍らせているのも、走ることに集中させるためだ。余計なことを考える隙を与えず、ただ一心不乱に追いかけさせる。逃げられるという危機感を強めれば、より必死になって追ってくるはず。
そうして脇目も振らず一直線に追ってくれば、壁にぶつかることもボタンに触れることもない。
下手なことは起こらないはずだ。
そして、もう一つ。これこそが俺の一番の目的。現在の一番の問題の解決。位置関係の入れ替えを行うことだ。
強制排出される可能性、それが俺に取って一番のネックになっているが、裏を返せばあいつを強制排出出来れば、全てが解決されるということでもある。
つまり、俺とあいつの位置関係さえ入れ替えられれば、それがそのまま俺の生存に繋がる。立ち位置の入れ替えこそが、唯一、俺が生き残れる手段なのだ。
だが、それは容易なことではない。単純に立ち位置の入れ替えと言っても、この一本道で入れ替えられる場所はそう多くない。
出入り口は一つだし、部屋だって俺とあいつが入ればいっぱいだ。すれ違おうとした瞬間、顎か前足の一撃を食うだろう。そしてそれは、今の俺にとって致命的なダメージ。
だからこそ、もう一段階作戦を深める。
といっても話は簡単だ。タイミングを見計らって物陰に隠れてやり過ごす。向かって右のドア。通称、東のドア、トイレに続く部屋だ、そこに隠れる。
やつは右目が潰れている。右が死角になっている。自然と注意は低下する、見落としが多くなる。
単眼で見ることで距離感覚も鈍っているはず。見失う可能性は高い。
挑発も、蛇行も全て、このための布石だ。
一度も俺から視線をそらさなかったあいつのことだ。何もせず冷静な状態で脇にそれては、万が一にも隠れた場所が察知される可能性がある。
だが、蛇行して、何度も何度も執拗に出入りを繰り返せば、次第に慣れてきて注意も散漫になる。怒りで我を失っていれば、なおのこと。
そして、そんな怒りと慣れと元からの疲労、それらが組み合わさったタイミングで俺を見失えば、元から片目の獅子蜥蜴にはどこで消えたのか判別が難しいはず。
むしろ、見失った事でさらに速度を上げて追っていく事だろう。そうして、見失った俺を追って走り去った所を狙って、すかさずパージする。
あの巨体だ。例え、俺が後ろにいることに気づいたところで、急には反転出来ないはず。方向転換でもたついている間に隔壁を閉じる。ついでにもう一部屋パージしまえば、例え一つ目を超えられたとして二部屋目は間に合わないはず。
……………不安な点はいっぱいある。
風が吹けば桶屋が儲かるばりのご都合主義ばかりだ。全演目綱渡りのサーカスのようだ。良い方に転がる事に期待しすぎている。
でもこれしかない。これしか、浮かばない。十分の時間じゃ、これだけしか浮かばなかった。これでやるしか、ない。
走る。蛇行して、戻ってきて、また蛇行。そうして繰り返して幾たびか、もうそろそろ良いだろうか。
仕掛けるタイミングを計るために、戻る際に横目で後ろを確認する。
そして、奥歯を噛む。
想定以上に、獅子蜥蜴が遅い。まだ、力を抑えている。
あれではごまかせるかどうかわからない。隠れても、やり過ごせるかわからない。
(どうにか、もっと怒らせないと……………)
何か方法はないかと頭を巡らせていたとき、獅子蜥蜴の体が、揺れた。
ぐらりと、その巨体を右に揺らした。がれきに下敷きにされた傷が深かったのか、崩れるその体を支えることは叶わず、大きくバランスを崩して、倒れかかる。
「なぁっ!」
思わず、立ち止まってしまう。立ち止まって、見守る。獅子蜥蜴の、行く末を。
バランスを崩した獅子蜥蜴は踏みとどまることなく、走っていた勢いそのまま、右側に転倒した。床を擦って大きく転がっていく。
その、転がる先にはパージボタンが――――――。
(ちょ、おい!!!!!!)
「押すなぁぁぁ!!!!」
思わず叫ぶ。めいっぱい手を伸ばして叫ぶ。体に力が入る。
衝突。
ズンッ―――――と、揺れる。
―――――――――――――――。
動かない。動けない。声が、出ない。まるで心臓すら止めてしまえたかのように、全ての音を潜めて。静かに、耳を澄ます。
警報音は―――鳴らない。部屋はまだ、落ちない。
十秒も二十秒も、どのくらいたったかわからないほどの時間をかけて、やっと、ボタンが押されなかったのだと確信した。助かったと安心して、ほうっとため息がでる。
安心して、事の元凶、壁にぶつかりうずくまった獅子蜥蜴に目をやる。獅子蜥蜴は―――ぴくりともしない。
もしかしたら―――とは、思わない。そう思って今まで、何度も裏切られてきた。そんなあっさり済むわけがない。
そんな予感があった。だから、距離はそのままに、遠巻きに見守る。
はずんだ呼吸を整えて、次に備える。―――――と、獅子蜥蜴に動きがあった。
(………………やっぱり、そう簡単に死んじゃあくれないよなぁ)
予想通りと喜べば良いのか、期待外れと悲しめば良いのか。しかし、そんなこと獅子蜥蜴にはお構いなしだった。
ムクリと頭を上げ、虚空を見つめる獅子蜥蜴。まるで、知らない場所に連れてこられた猫のように呆けて、周りを見渡している。右前足を、ぺろりと舐める。
(なんだ? どうしたんだ?)
その不可解な仕草が気になって、様子を確認しようと身を乗り出して、一歩前に出た。
その足音が、聞こえたのだろう。
獅子蜥蜴はゆっくり、ゆっくりとこちらを向き、視線をこちらに向けて、一瞬、こてんっと首をかしげ―――――おぼろげだったまなざしが、うつろだった焦点が、俺と視線が合い―――――赤く充血した瞳をこれでもかと見開き、次の瞬間―――――吼えた。
思い出した。現状を。元凶を。誰のせいでこうなったのかを。
それは、屠るべき宿敵を思い出した事への歓喜の声か、死の現実を突きつけられた事への嘆きの声か。どちらにせよ言えることは、それは俺に向けられた――――まごう事なき殺意の慟哭。
俺は、再びその身を翻し走りだした。
(続)