おおざっぱよりは、33っちく。こまめに貯蓄、塵も積もれば大和晴れ。 ~追われて慣れぬこの状況~
「――――――――――――――――――ッ」
三度、咆吼。
俺からけして視線を外さず、じっと見ながら体をうごめかす。既に前足は両方とも自由になっている。潰された体を必死に奮い立たせている。
解放させるのも、そう遅くはない。
怖い。
声も出ない。足に力が入らない。身を隠したいのに、うまく動けない。壁に手をつき、立とうとして失敗する。転がり、滑る床を這いずってどうにか壁の裏に体を隠す。
獅子甲羅、否、獅子蜥蜴の咆吼が聞こえる。がれきが崩れる音が聞こえる。床に爪を突き立て、削る音が聞こえる。
(なんだよ。なんだよ。なんだよなんだよなんだよなんだよなんだよなんだよなんだよなんだよなんだよなんだよなんだよ、なんなんだよ!!!!)
半狂乱に陥りながら、天井を見る、壁を見る。
目的なんてない。ただ、すがりつけるものを探す。藁でも、なんでも、なんでもいい。何かないか。何かないか。何か無いか。
床を、左右の壁を、奥に続く部屋を、木製のドアを見つめて……………頭上の壁にボタンがあるのを見つけた。
「これは――――――」
そうだ。これは部屋と部屋を隔てる隔壁の昇降ボタン。
「コレを閉めれば…………」
一縷の希望を見つけ、それに全てを賭ける。力の入らない足を叱咤し、壁に手をつき、立ち上げる。まるで初めて立つ赤ん坊のように、全身全霊を賭けて立ち、踏ん張り、ボタンを、押した。力一杯、殴りつけた。
ゆっくりと、まるで何時間もかかったかのように感じるほどにゆっくりと、隔壁は降りていき、やがて、咆吼は遠く隔たれた。
「はぁっはぁっはぁっはぁっはぁっ…………………はぁぁぁぁ」
浅く荒々しくなっていた呼吸を、ゆっくりと戻す。肺の奥から深く息を吐いて、深く深く吐いて。とりあえず、近々の危険は去った。と、同時に足の力が抜け、壁を背に座り込む。
途端、止まっていた思考が、濁流の様に流れ出す。決壊する。
なんだよ、あれ。なんなんだよ、あれ。亀じゃなかったのかよ。亀って甲羅脱げないはずだろ。脱いだら死ぬはずじゃないか。脱いだら蜥蜴って、ガチムチ蜥蜴ってなんだよそれ。ゴリマッチョって、おかしいだろ。私、脱いだらすごいんですってか、ふざけんな!!
俺、お前のこと亀だって断定しちゃったんだぞ。かっこつけちゃったんだぞ。どうしてくれんだ。死ねよ。亀として責任取って死ねよ!! おい。潔く死ねよ!!
なんで死なないんだよ。あんな高さから落ちて、何で死んでないんだよ。あんだけ体にダメージ負ってんだから素直に死ねよ。頑張るなよ。ちくしょう。落下の衝撃だけだって普通死ぬだろ。どんなに甲羅が硬かったからってその衝撃がなくなるわけじゃあないだろ。なにか? 甲羅の中にエアバックでも仕込んでのか? だったらリコールしてやるから会社名言えよ。くそ。くそっくそっくそっ!!
ちくしょう。あんだけの傷を受けときながら、心は全然折れていないじゃないか。むしろ怒髪天じゃないか。
必殺の・念を隻眼・から放つ・求むは一つ・君の亡骸
もはや、砲戦果の比じゃないぐらいキレてんじゃないか。ブチ切れ、ガチ切れ、その上は? その上はあんのか。若者?! 今のあいつの怒りを一言で表現する言葉はあるのか。あったら教えろ!!
いや、冷静に考えろ。あいつだって無傷じゃない。あんだけ傷だらけになって平気なわけがない。甲羅に包む部分は、基本的に臓器とか大切な部分が詰まってるよな。そんな重要な場所に破片が大量に突き刺さってた。なら、放っておけば力尽きるはず。死ぬはず。だからこそのあの目のはず。不退転。死なば諸共。俺が死んでもお前を殺す。そんな目、そんな殺意。
なら、俺の取るべき手段は―――。
籠城。
今、俺とあいつの間には壁がある。精神的なとかそんなA・Tフィールド的な話じゃなくて、現実的な隔壁が。どれだけの強度があるかは知らないけど、もし破られても隣の部屋に逃げ込めば済む。流石のあいつでも、九十八部屋分も壁を破る体力はないだろう。その前に力尽きるはず。
あいつの体力が持つか、こちらの体力が持つか、根比べ、持久力の勝負だ。臨戦態勢も、不退転も、決死の覚悟も全部、この隔壁で台無しにしてやる。お前は最後の最後まで、憎い俺に対峙することもなく、弱っていく体に絶望しながら、壁を睨んで力尽きるんだ。死んでいくんだ。
そうだ、そうだな。部屋の避難にだけ注意していれば…………勝てる。
「は、はは、ははは、はははははははははは」
自然と、笑いがこみ上げる。
幸いここには水もある。トイレからだけど、そんなこと言ってられない。既に一度実行しているのだから、二度目は躊躇しない。
人間は水だけでも一ヶ月くらいは生きられるはずだ。理論上だが、机上の空論でも、ないよりましだ。俺が実証してやる。そして向こうには水も食料もない。つまり、こちらが圧倒的有利な状況だ。
生き抜いてやる。生き抜いて、年下相手に武勇伝として語ってやる。嘘くさい武勇伝ばっかり話すウザい先輩になってやる。お前を嘘みたいな話のネタにしてやる! お前の存在を嘘話にしてやる!!
希望が見えてきた。気力が、湧いてきた。何度絶望に変わったかわからない希望だが、流石にもう絶望に変わったりはしないはずだ。
遠く、咆吼が聞こえる。次いで地響きも。おそらくまた、がれきをどかして動けるようになったのだろう。
くっくっく。いいぞ。そうやって体力を消耗していれば良いさ。動けば動いただけ、体力は消耗する。お前の死が近づく。俺の勝利が、近づく。俺の希望のためにも、その無駄な努力をせいぜい頑張って貰いたいものだな。
我ながら黒い笑みを浮かべて、天を仰ぐ。仰げる天など見えないが、気分の問題だ。希望が出てきて、心にも余裕が生まれてきた。
「叫びすぎてのどが渇いたな。一度、水を飲むか。トイレにも行っておこう。はあ、それにしても、人としての尊厳は一体どこに行ってしまうのだろ――――――」
人としての尊厳? そんなもん、クソ食らえだ。そんなことよりももっと大切な、重大な事に気づいた。気づいてしまった。人の、いや、俺と言う存在の危機。尊厳よりずっと大切な、生存の危機だった。
(続)