今27っても思いだす美しい思い出。この前同窓会行ったら半分以上、美化妄想。 ~やっと始まる冒険回?いいえ、も一つ最後の精神回~
岩場への道なりは草原地帯をまっすぐ直進、障害物は見当たらない。いや、歩くのに障害となっている物はある。背の高い草が所構わず生えている。胸の高さまで育ち、手でかき分けなければ進めないほどに高い草と、細く高い木が転々と生えている。
木はまるで地面から離れたがっているように、はるか上にしか枝も葉も生えていない。それほど数も多くはないので、進行の邪魔にはなっていないが、視界は遮られる。幹もまっすぐに伸びていて、容易に登ることは出来そうにない。
猛獣ならその鋭い爪で駆け上がることも出来るのかも知れないが、残念ながら三日前に爪を切ったばかりの俺には無理な相談だ。爪があっても無理だが。むしろ剥がれて、百識の方治になってしまう。
ちなみに猛獣が木に登れると言う知識はズッコケ三人組の『ライオンは木に登れないんだぜ(ドヤッ)』『いや、登れるけどね………』オチで覚えた。ははあ、そうなんだ。猛獣怖えぇ、と子供心に思った記憶がある。
うっそうとした草の中を行く。迂回して行ければ楽なのだろうが、下手に蛇行して方向を失うことの方が怖かった。背の高い草原からでは、窪地の位置ははっきりと見えない。まっすぐ進んで、草を踏み固めて道を作るくらいにしか、やりようがなかった。
(太陽も、当てにはならないしな)
両手で左右に押し分けて、少しずつ踏み分けて進む。太陽は今日も元気だ。比例して俺の元気を奪っていくくらいには。うだるような暑さ。絡みつく草。むせ返る緑の匂い。流れる汗。不快指数は更新、更新!
「猛虎開門破!!」
両手を前に突き出し草を左右に開いて、右足または左足を出す。うだる暑さに負けないように、声を出して元気よく。繰り返す。繰り返す。
(歩きにくい)
先は見えないし、足に絡む。よく踏みしめていかないと、踏みしめたはずの草が起き上がってきて、自分がどこから来たのか見失ってしまう。本当にまったく、歩きにくい事この上ない。
と、うっそうと茂る草木の中に一筋、明らかに植物の成長が遅い場所を見つけた。ずっとまっすぐ、どこか遠くへ続いているようだ。どこから来て、どこかへと行く。肩幅よりやや細いそれは、小さな道のようにも見える。
(こういうの、なんていったっけ?)
「ああ、そうだ。獣道だ、獣道。はぁ、これが獣道かぁ」
少し考えて、すぐに思い当たる。歩きやすそうで確かに道だな、と一人納得した。
(獣道って歩いて良いんだっけ?ダメなんだっけ?)
しかし、それが獣道であることはわかったが、果たして通って良いものかどうか、考え込んでしまう。
「テレビの知識ってこういうとき、困るよな……………う~ん。まあ、良いか」
草を分けて歩き続ける事にもう辟易していたので、多少の危険は飲み込んで獣道を歩くことにした。
「まあ、基本的に獣は夜行性って言うし、大丈夫だろ」
まったく根拠のない妙な自信だった。
なんだかんだで、あんまり悲観的にならない自分がいる。こんなよくわからない状況だというのに、全然悲観的にならない。もっと取り乱しても良さそうなのに。思考が追いつかず、部屋の片隅でブルブルと膝を抱えて、心を閉ざしていても良さそうなモノなのに。そう、ならない。
いや、なれないのかな。どこか他人事で、人事のように感じている感覚がある。まるで映画でも見ているような………いや、実際に考えて動いている点を考えると、ゲームか。ネット小説でも人気のVRMMO物とかそんな感じかな。死んでも数分待てば生き返るし、ま、いっか、みたいな感覚。生き返る保証は全然無いのだが。
普通、なんでこんなことになったんだとか、どうして俺がこんな目に遭わなきゃならないんだとか、そういう思いで埋め尽くされるはずなのに。靄がかったみたいにずっと、そんな考えに苛まれるはずなのに、俺も、そうなると思ってたのに、全然ならない。
昨日のアレでさえ、獣の、野生の敵意に晒されながらも、どこか冷静な自分がいた。ドタバタの最中なら、状況にいっぱいいっぱいになってて、そう言う鬱々とした考えも沸いてこないかも知れないけど。落ち着いたあと、ドアに戻ってきてからも、出発するまでも時間はたっぷりあったはずなのに、全然そんな気にならない。むしろ、頭がさえる。霧が晴れたように、さっぱりしている
次に何をやらなければいけないか、何をやったらいいのか、そればかり考える。自分ってこんなに分析癖がついていた方だったか?そんなにいろいろと気にするほうだったか?
普通に暮らしていた自分にとって、いじめの被害者にも、加害者にも、ましてや当事者にも傍観者にもならず。人と争うことなくただただひっそりと、何も知らずに、のうのうと人生を暮らしてきただけの大学生にとって、他者からの悪意、敵意はそれだけで恐怖の閾値が振り切れるほどの衝撃だった。そのはずだ。
電車の中、乗客に絡む酔っ払いを横目に、関わらないように、巻き込まれないように必死になって寝たふり。列に横入りしてきた女子高生の舌打ちにビビり。本屋で本の上に座って立ち読みならぬ座り読みをしている小さな子供を見ても、母親に絡まれたら災難と注意も出来ず。ただ、世も末だ、と誰もいない、聞こえていないところで吐き捨てる。
そんな、まるで世界の全てに恐怖しているかのような臆病者が、この世界に来てから妙に落ち着いている。思考が暴走し、脱線に脱線を重ねてはいるが、それでも不思議と気分は落ち着いている。
いや、恐怖はしている。しているが戻ってくる。恐怖に埋もれることなく、囚われることなく、戻って来れている。どんなに恐ろしいことがあっても、戻ってこれる。なんとかなる。そんな、予感がする。楽観する。
そんな風に、ここに来てからの俺は妙に、楽観的に物事を捉えるようになってきている。
不思議なもんだ。
世間に怯え、自分自身が傷つけられることを嫌い、他者の不正を怒り、それでも何も出来ず、ただ頭の中でのみシミュレーションと言う名の妄想を重ねてきて。将来への、過去への、現在への、生活への、裏切られる事への、自分自身が知られる事への不安に苛まれ、不安に不安を重ねてがんじがらめになって、諦めることで、どうにかやっていた俺が…………こんなにも楽観的に、活動的になっている。
どこから来ているのだろうか。この気持ちは。
思い当たることが、ひとつだけ、ある。正解かどうかなんてわからないし、確かめようもないのだけれど。思いついてみれば、簡単なことだ。
ここには、人がいない。
野生に帰れと言ったのは誰だったか。図らずも俺は今、その言葉を体現したことになっている。とても心安らかだ。単純でわかりやすく、そしてとても大きな違い。
我ながら矛盾していると思う。昨夜あれだけ、人恋しい、文明に関わりたいと言っておきながら、たった一晩挟んでみればコロリと意見を変えている。おかしいだろうと思うだろう。俺も思う。矛盾している。一貫性がない。支離滅裂だ。わかる。俺もそう思う。
いや、変わってはいない、のかもしれない。矛盾も、していないはず。だって、人恋しいと思っているのは本当だ。文明も恋しい。でも、この環境に安らぎを感じているのも、人がいないと言う事が俺を楽観的に、活動的に、のびのびとさせているのもまた、事実だ。
人が、文明が恋しいと思い、同時に人がいないことを好ましくも思う。それはどちらも本当の感情だ。本心なのだ。
ただ、それがいま、この異常な当事者意識のなさの全てを説明しているとは思わない。それだけで、このまるでゲームをしているかのようなこの感覚を説明できてはいない。
対人恐怖による抑圧が取り除かれた事で、一時的な万能感に浸っているだけなのかもしれない。一瞬、気が大きくなった。気の迷い。
それだけだ、とは言えないのだけれど、それ以外のなにかは、残念ながら、よくわからなかった。
「なんて、無い物ねだりだよなぁ」
色々と考えてしまうのは、一人だからなのだろうか。と、思って否定する。そもそもが、日本にいるときから基本的に一人だったのだ。ならこれも生来の性格なのだろう。性質なのだろう。
うっそうとした草原を進む上での暇つぶし。無心でやらなくても、失敗を指摘する人も、指導する人もいない気軽さから、どうでもいい事を考えさせたのだろうか。自分と向き合わせたのだろうか。矛盾だらけで、すじも信念もグニャグニャな、誰にも見せられない恥ずかしい思考を、考えさせられたのだろうか。トラウマや言い訳やあきらめや譲れない物やどうでも良いことを、振り返ってみたのだろうか。
そんなことを考える時間があるというのもまた、贅沢で、無い物ねだりの産物のようだなと、思った。
(続)