別世界
僕たちは、遠くに見えた竜と目を合わせてしまった。
目が合ってしまった以上仕方なく、観察を深める。しかし、それは無駄だということが思い知らされた。
艶やかな黒い外皮は、金属とも革とも取れぬ不思議な光の反射と質感を見せる。目測50m程の距離からでもすべての部位を確認できる顔には、皮肉にも結晶と同じ色に光る眼窩が光り、笑むように牙を見せる顎は、お前らを食い散らかすぞ、と意志を表明しているように錯覚した。
四本の脚でゆっくりと歩むその姿、翼を広げて歩む姿、尻尾を浮かせて歩む姿。それは、かつて僕が居た世界に居たとされる恐竜を彷彿とさせ、しかしそれよりも恐ろしかった。
大きさはおよそ10mほどだろうか、あんなに大きかった豚人族の体を思い浮かべてみると、それでさえ子供のように思えてしまう。
「あれは・・・黒色竜の中型か・・・。こんな所に居るなんて、ついてねぇな」
「あれで中型? やってられないなぁ」
横を見ると、シンはいつの間にかフードを被っていた。表情を悟られまいとする姿勢だろうか、しかし震えを隠しきれていない。恐怖はにじみ出ているのか。
シンほどの戦士が畏れ慄いているのに、何故僕が震えられないのだろう。さては、僕の体の全てが恐怖に支配されているのか。支配されたから、震えさえも生み出せないのか。
もしくは、僕は本当は恐怖していないのだろうか・・・それはないな。
「シン、黒色竜の特徴は?」
「これと言って無いが、竜種ってだけで脅威なのは間違いない。力、息の攻撃。そして―――」
シンが説明をしている途中だったが、それは叶わなかった。ああ、叶わなかったというのは間違いだ。
体感した。既に竜は僕達の目の前に顔を寄せ、顎を開けて後は僕達を噛み切るだけという姿勢に入っていた。もう一つはきっと敏捷だったのだ。シンの言葉に傾注し、僕が注視を解いた一瞬でこの距離まで近づいたのだ。。顎には、牙が一本一本鋭利に光る。全部の牙が名刀のように煌めいていた。これに噛まれたら人間ごときの骨は紙のように切り裂かれるだろう
咄嗟に、本能的に両手の銃で竜の下顎を押さえつける。僕の全ての膂力を用いて、下顎を上げさせまいと力を込めた。牙の間に銃を差し込み力を込める。銃まで壊れないか心配だったが、銃の頑丈さは僕の想定以上だったらしい。シンは上だ。上の顎を、腕力と脚力を以て押し上げている。だが、力が脅威だけだというのは真実だ。運動は得意と言い切れるものじゃないが、それでも他人と比べ同等・・・もしくはちょっと上だという自負はあった。もっとも、この世界ではどうかしらないが。
その全ての膂力が、押し返されようとしている。銃が壊れそうになるほど押さえつけているのに、力は互角だ。竜種の下顎オンリーと、僕の全力が同等だと感じると、絶望が少し強まった気がした。
シンも決して楽ではないらしく、シンの歯軋りする音がここまで聞こえてくる。一本の短剣を両手で必死に持ち上げている姿を視界の隅に入れるだけでも苦しそうだと見分けがつく。
「このままじゃ押し負ける・・・一旦体を離そう!」
僅かだが確実に押し込まれている下顎を押さえつつ叫んだ。正直、腕も限界であった。
シンは、言葉を出すことすらせず、仕草だけで『了解』と言った。僕の意図は伝わったようだ。
僕たちは、竜の下顎に脚をかける。そして、脚に少し力を込めた。
今まで全霊の力をかけていたのを、脚一本を別のことに使ったことで、より力を増した気がする。実際には、こちらの力を弱めた分押し込まれやすくなっただけだが。
やるなら早めだ。僕は、合図を送った。
「さん、にー、いち、ゼロっ!!」
ゼロ。この言葉で、僕達は下顎に掛けた脚で背後に跳んだ。
つっかえを無くした竜の顎は、轟音のように大きく歯をぶつけ合う音を響かせた。剣戟とはまさにこういう音なのか。
竜の顎から離れ、一瞬脱力しそうになる。たった十数秒間鎬を削っていただけなのに、精魂すべてを持っていかれたように錯覚してしまう。さっきまで全霊を賭けて攻撃を押さえていたのだ、それを急に脱力して、持っていかれないはずではないことは確か。だが、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に抑える。
その理由は目の前にある。竜はあれだけの事をしておいて、全く疲れる素振りを見せていない。竜の疲れる素振りを見たことがあるわけじゃないが、少なくとも僕の目にはそうは見えない。
切れた息をする度に、自分の無力さを思い知って胸を抉られる。疲れ果てた体は、次の攻撃を耐えられるかどうかが分からないほど錆びついていた。
一方のシンと竜は冷静だ。疲れなんて知らないのだろうか?、それとも単に体の作り方が別次元なのか。
シンは、高く飛び、洞窟の天井に脚を翔ける。壁に一旦中継地点を設けていたとは言え、その跳躍は10mを有に超えていた。人間の届かぬ世界ではないのかそこは。
そして、天井からもう一度飛ぶように、ダガーを両手で持ち、ただ“穿つ”だけの攻撃を構える。
シンの次の目標地点は、ドラゴンの脳天。
天井から重力の加護も得て、まるで・・・いや、まさに弾丸のように打ち出されるシンの体は、正確に脳天を貫いた。・・・形式上は。
何故だろう、短剣を持った人間の弾丸を、脳天で軽く受け止めているドラゴンの姿が見える。その様は、野球ボールをミットで受け止めたキャッチャーのように。予見していた球を受け止めていたのか。シンは、通らぬ刃を見て唖然としているのが見て取れた。
次は竜種のターンだ。呆然としているシンを、首を軽く振ることで振り落とす。僕の目からは軽く振ると見えただけだが、その一振りごとに爆風が生み出される。支えるものが無いシンは、たった2振りで振り落とされる。それも、行きと同じ速度で。そんな速度で叩きつけられたシンは、まるで標本のように壁に貼り付けられる。
そこまで行ったら詰み。シンはもう助からない。僕達の冒険はここで終りを迎えた。
――迎えた?
シンは僕よりも遥かに強いのだ。シンが為す術もなく喰われる以上、僕には何も出来ない。
――本当に?
ああ、見ろ。 竜が大口開けてよだれを垂らしてシンに顎を近づける。これから噛み切られて飲み込まれるのに時間はかからないだろう。
――見ているだけなんて、僕らしくないんじゃないのか。
この手に持っている武器は、役に立たない。立たない。立たない。
――いや。立つ。僕は今まで見ていた。あの1人と1匹の戦いを。観察していた。なら、活路は有るんじゃないのか。ほんの一縷の、可能性でも。
・・・僕は、ゆっくりとドラゴンの頭に銃口を向けた。そして、1発放つ。右手の銃から放たれた魔力の弾は、ドラゴンの頭部に当たった。
だが、当たっただけ。響いてすら居ない。だが、竜はこちらを向き、敵意を露わにする。
博打に成功した。コイツは知能が低い。最後に攻撃された奴を攻撃するようにしか動けない。その前に攻撃された人間を覚えていないのだ。
後は、僕が攻撃されるだけ。シンが起きれば、まだ可能性はあるか?おそらくはある。
生物において、どんなに硬い外皮に包まれていようと、光を入れなくてはならない場所がある。その場所はどんな生物であろうと銃程度の攻撃力でダメージを与えられるはずだ。
僕は、針に糸を通すような精緻な手つきで両手の銃を向ける。目標は2つ。なら、両手で同時に一発ずつだ。
ガン、ガン。どこか遠くから響くような錯覚を感じ、引き金を引いた。
――当たった。しかも、苦しんでる。
やはり予想通りだったみたいだ。コイツは、目は弱い。失明までは至らなかったが、苦しませたことには変わりはない。
竜種は、怒りのままに僕を押しつぶそうと鎌首をもたげる。だが、ここで嬉しいお知らせ。
シンが回復した。叩きつけようとした首を、壁から跳躍してこちらに合流するまでの過程で一太刀。いや、ダガーだから太刀は少し変か。
だが、どの道ダメージはあったようだ。ドラゴンは、首から一筋、両目から一筋ずつ。
合計3本の血河を流していた。
「シン、もう良いのか?」
「迷惑かけたな! ここで朗報だ!アイツ、硬いのは最初だけだった。狙う箇所を変えたにしては刃の通りが良すぎたからな。おそらくは、苦しむごとにアイツは硬さが減ってく!
今は表皮一枚だったが、動けなくなるほど苦しませれば首を落とせると思うぞ!」
シンは、グッと親指の腹をこっちに向けた。しっかり上向きで。
「なるほど、それは朗報だな」
苦しんでいるドラゴンをチラ見する。もしかしたら銃でもっと苦しませることが出来るかもしれない。
ドラゴンは、首を後ろに曲げていた。まるでイナバウアー・・・だが、少し変だ。苦しんでいるにしては声を上げないし、少し長い気が。
―――『竜種だというだけで脅威なのは間違いない。力、』
「吹雪息・・・」
シンが不吉なことを呟いた。朗報だったんじゃないのか!
しかし、避ける体勢も整わないまま、ドラゴンは息を吐く。まさに風、僕達に向かって飛ばされたのは、零下の吹雪だ。吹かれた後で避けることは能わない。
僕たちは、完全に吹雪に包まれた。