樹霜の生け贄
視界は白だった。
雲ひとつ無い青空に、葉や幹まで白く染まった木々。
太陽の光でキラキラと輝いて、人の世界では無いように思えた。
「きれい……」
少女は目の前の景色に涙した。
頬を伝う感涙がすぐに冷えて凍り、長いまつげにも白い雪が乗っている。
神の祟に触れぬようにと、そそくさと立ち去る男たちなんか見向きもしなかった。
目に焼き付けるように、少女は瞬きもせずその場に立ち続けていた。
例年よりずっと早く寒さが来て、凍え死ぬ人が増えた頃だったか。
大人たちが村の祈祷師に頭を下げに行ったその三日後、神のお告げが来たそうだ。
《純潔の少女を一人、寒さの際立つ山に住む神に捧げよ》
それから毎晩夜通し話し続け、父を亡くし、母が身を粉にして育てた私に白羽の矢が立った。
もう少しで成人で、次の冬が明ける頃にはどこかの誰かに嫁ぐ予定だったが、どうやらたった1年私を育てるのも難しいことらしい。
両親に愛情持って育てられた他の子たちより、私を生け贄にする方が都合良かったのだろう。
私がここに連れてこられる前夜、寝たふりをする私の耳にすすり泣く声が聞こえた。
家の隅でこっそり泣くくらいなら、母も一緒に来ればよかったのだ。
命が絶たれても後悔はないくらい、あまりにも美しい、白い世界だったのだから。
「最期にこの景色が見られたのなら、幸せだったな」
重みで雪に埋もれる足を必死に進め、一番綺麗に輝く白い木に触れる。
私の冷えきった体温で木についていた氷がゆっくりと溶け、元の幹の色がうっすら透けた。
ああ、白い仮面をかぶっているだけで、この山は私が育った山なのだ。
「なにをしている?」
聞こえるはずのない声を聞いて、ハッと振り返る。
白い、男が居た。
私と同じ白い服に、見たことがないくらい白い肌に白く長い髪。
まつげまでも真っ白で、この白銀の景色に溶け込みそうだった。ただ、私をジッと見る鋭い目だけは赤く、血のようだ。
存在する筈も無いほど綺麗な見目をしていて、恐怖を覚えるほどだ。
この寒いのに素足で、私と同じ格好をしているのに少しも寒がっていない。
「その木に、触るな」
私の腕を引っ張った彼には体温が無かった。さっきの木程冷たいわけではないが、人の体温ではない。
もののけか神様か。とにかく、生け贄の私を食べに来たのだろう。
抵抗する気は無い。目を瞑って、その時を待った。
彼が腕から手を離し、そろそろか。と身構える。
顔に吐息がかかった。強く目を瞑る。
身構える。
身構え……目を開けると、困ったような顔をしていた。
「取って喰やしないよ」
なぜ。聞きたくなったけれど、人の身である私が話しかけても良いのか分からず、視線を彷徨わせる。
彼の眉間にシワが寄った。
「しゃべれないのか」
喋ってもいいのだろうか。少し悩んで、口を開いた。
「木に触ってしまって、ごめんなさい」
返事をすると思っていなかったのか、彼は少しビックリした顔をして、「気にしていない。もう触れなければ良い」と顔をそむけた。
「ごめんなさい」
それでも触ってしまったから。もう一度謝る。小さくため息をつかれた。
「そんなことより。なぜ、此処へ来たのだ。死ぬぞ」
真剣な眼差しが私を射抜き、一瞬ドキリとする。視線を合わせると、血の海のような赤い瞳に吸い込まれそうになった。
どれほど経っただろうか。
先程よりほんの少し強く腕を掴まれて、催促されていることに気がつく。
「私、生け贄なんです。寒さがずっと続くから……」
そう言って微笑んだ。また、彼は眉をひそめた。
私は生け贄として不十分だったか。
それでは私は何のために来たのか。
母の苦しい決断は何だったのか。
また、別の生け贄が選ばれるのだろうか。
「お前たちは何を考えているんだ……」
額に手を当て、呆れてため息をついた彼に首を傾げると、それに気づいた彼は小さく頭を振る。
「寒いのは必然だよ。神の力とか関係ない。だから、村へお帰り」
指を指した先には、小さくなった村が見えた。
村の祈祷師と、深刻そうな顔をする大人たち、私にバレないように声を殺して泣く母の顔が頭にチラつく。
帰れない。
帰ってはいけないのだ。
私が帰っても、また誰かが選ばれて此処へ来るだろう。あまり好きな村では無かったけれど、誰もが幸せにならないこの苦しみをもう一度味あわせたいとは思わなかった。
「戻ったらとっても怒られる。処刑されてしまうわ」
信じられない、という顔をされた。私もこの決断は信じられない。
「それなら、ここにいればいい。好きに生きろ」
彼の指が頬を撫でる。
その指についた凍った水滴を見て、私は涙を流しているのだと気がついた。
堰を切ったように涙のあふれる私に、彼は無言で頭を撫で続けてくれていた。
「なんだか寒い……」
やっと涙が止まったと思ったら、緊張が溶けたのか、寒さを感じる。
息を吐けば、それは白く宙に漂った。
身震いをして、少しでも温めようと手で体をこする。
「木のそばへおいで。風を避ければ少しは紛れるはずだよ」
差し出された彼の手を握って、木の近くへ行った。
木に触らせてはくれないけれど、触れるか触れないかの距離に座れば、随分と寒さが紛れた。
「ありがとう」
「本当はちゃんと風除けのあるところに連れて行ってあげたいんだけどね」
申し訳無さそうな顔をするものだから、私は口角を上げた。
今度は、私が少しでも彼の気を紛らわせてあげよう。
「これで十分ですよ、本当にありがとう」
彼とは他愛無い話をした。
私が育った村のこと。
父が幼い頃に事故で亡くなったこと。
母が毎晩ろくに寝ずに育ててくれたこと。
それが原因で友達が居なかったこと。
どれも私が話すばかりで、彼は自分のことは一つも話さなかった。それでも、楽しげな反応を示してくれる彼に私はここ最近一番の笑顔をみせていたと思う。
2人で笑っている間はすごく短く感じて、寒さを忘れるくらい心が暖かかった。
それでも話は尽きるもので。
少しずつ減る言葉数に反比例するように、体を突き刺す寒さがじわじわと私を襲い始めた。
それはここに来た時よりずっと寒くて。
太陽が低くなって、風が強まったせいもあるだろう。
「痛いの。手足がピリピリする」
心配させないように微笑んだ。でも、我慢の限界だ。
指を動かすのも大変で、少しでも暖をとろうと彼に擦り寄った。
彼は嫌そうな顔ひとつせず、温めようとくっついてくれる。
それでも彼は相変わらず暖かくなくて。抱きしめてくれているはずなのに、少しもぬくもりを感じない。
「大丈夫だ、私がついている」
ただ、その一言で私の心は暖かかった。
頭が働かなくなってきた。
多分、私はもう生きられない。
それならば、母が私にくれた最初で最後の贈り物を、彼に託そう。
一緒に地に果てるよりは、彼と永遠を過ごしてもらいたい。
「ねえ、これをあげる。昔もらったの」
貝殻を通しただけの質素な首飾りを外し、彼の首へかける。
「お守りなんだって。私にはもう必要ないから」
そう言って笑えば、彼は泣きそうな顔をした。そうさせたい訳じゃなかったんだけど。
「ありがとう、大切にするよ」
私が身につけていても小さかった貝殻は、彼の身にはもっと小さくて、変に不格好に見えた。
思わず小さく笑うと、彼は泣き顔からムッとした顔に変わった。
良かった……。
寒かったのに、痛かったのに。
もう手足の感覚が無い。
動かしたくても思うように動かなくて、ただ木に身を委ねることしか出来なかった。
白い彼が心配そうに私の顔を覗き込んでくる。
その綺麗な姿すら、ぼんやりと霞がかっていた。
「ありがとう、本当にありがとう」
話し相手になってくれて。私の恐怖を取り除いてくれて。
私は力を振り絞って彼の白い手に触れた。
なんだか暖かい。
ぬくもりを求めるように握った手を頬にすり寄せた。