5.うごめく影
―――――デュランダル王国、北西の森。
「あそこだ!」
レンの指差す方向を向くと、どす黒い物体が地面から噴出しているかの様に勢いよく立ち昇り、空を覆いつくしている。
「あれが、影!?」
「なんて姿なの...」
生まれて初めて目にする”影”にルナとユーリは思わず息を呑む。一方、真っ先に影を確認したレンはそんな二人を他所に、大剣を右手にしっかりと握り締め、一切躊躇することなくそのどす黒い塊の中へと突っ込んでいく。剣兵隊がどのような任務を任されてきたのかは公にされてはいないが、「影の討伐」に関するものは国家任務として常に依頼が絶えないと、世間知らずなルナでさえも耳にしたことがあった。恐らく彼にとっては、影は見慣れたものなのであろう。
さすがデュランダル王国一の剣の使い手と言われるだけのことはあり、ルナの身の丈ほどある大剣を軽々と振りまわし、慣れた手付きで次々と影たちをなぎ払ってゆく。
「わ、私も...」
ルナも意を決し父の形見の剣に手をかける。がしかし、足が石のように固まり言うことを聞かない。
(毎日訓練してきたけど...怖い...)
その間にも影は驚くほどの速さで増殖し続け、美しい森を暗黒へと染めていく。噂には聞いていた、これが影の恐ろしさ、なんて不気味でおぞましいのだろう。
「姫さん、ユーリ! こっちに来るなよ、そこで待ってろ!」
遠くの方から、かすかに声が聞こえた。声の主の姿はすっかり影に呑み込まれてしまっているが、どうやらその中で一人戦いを続けているようだ。
「ぐっ...レン!」
「ルナ様、悔しいですがとりあえずこの場はレンに任せましょう。 私たちでは、足手まといです」
勇気を出し一歩踏み出そうとしたルナを、ユーリが制止した。自分たちのあまりの無力さに、悔しさがこみ上げる。
「あーめんどくせぇ、魔法が使えりゃ一掃出来るのに!」
日頃の任務で出くわす奴らに比べれば、個々の力は弱く楽勝なはずなのだが...幾分、数が多すぎる。こんなにも大量の影を剣で一体一体斬り倒していくのは、非常に効率が悪い。国家任務で影の討伐に出征する際は、隣国ドルイドの魔法部隊と合同での任務となることが多く、彼らの魔法が援護射撃となりこのように苦戦することはそうそう無い。さらに、普段は部下のサポートがあるところが今は一人。百戦錬磨のレンも、さすがに苦戦を強いられた。
(斬っても斬っても湧き出すってことは、発生源でもあるのか? 体力が、さすがに持たねぇ...)
何十、何百、いったいどれだけの数の影を斬っただろうか。一日に斬った影の数の自己最高記録を確実に更新している、いや世界新記録を樹立しているに違いない!などとまだそんなことを考える余裕はあるものの、体力は着実に限界に近づきつつあった。いつもは片手で振るう剣も、もはや両手で振るうのがやっとである。
「くっそ~さすがに疲れてきた!! ...ん、あれは!?」
すぐ目の前の地面からほんの一瞬ギラリと鈍い輝きを感じ、目を凝らしてみると何か黒い物体が落ちているようだ。しかもそこから影が湧き出しているようにも見える。レンは残っている力を振り絞って影を掻き分け、その石にさらに接近し正体を確認する。するとそれは、漆黒に輝く宝石であった。石の核がまるで生き物の心臓のようにドクドクと赤い光を放っており、どうやらそれに連動して影が湧き出しているようだ。
「何だかよく分からんが、とりあえずこいつをぶっ潰してみるか! てぇいっ!」
レンは大剣で漆黒の石を突き刺した。
キィィィーーーーーンッ!!!!
「なんだったんだ、今の石...」
石は意外にもあっさりと砕け散ると、その破片はまるで氷が溶けるかのように一瞬で地に浸み込み跡形もなく消えてしまった。残されたのは、地面に黒く広がった大きなシミのような跡だけである。
レンが石を破壊したとほぼ同時に、そこから発生していた影たちは鎖を解かれた獣のように一斉にその場から飛び去って行った。がしかし、それらが向かった先は、仲間二人を待たせている森の入口の方向であった。
「し、しまった! 姫さん、ユーリ、逃げろ!!」
「ん? 今レンの声がしたような…大丈夫かしら」
成す術もなく、森の奥へと消えた仲間の帰りを待ち続けていたユーリは、遠くの方に見える影の塊が少しずつ小さくなっていくのを確認し胸をなでおろしていた。おそらくレンが影をやっつけてくれているのだ、そして影が消えるのも時間の問題だと確信していた。だがほっとしたのも束の間、見つめていた先から何か黒い物体が猛烈な勢いでこちらへ迫ってくるのが見えた。それは間違いなく、影である。
「ルナ様、影がこちらに向かってきます! さがってください!!」
ついに来た、影との初めての戦い。ユーリは両腕のアームグローブをしっかりとはめ直すと、臨戦体制に入った。次第に迫り来る影に怖気づくことなく、地にしっかりと足を踏み込み、じりじりと影との間合いを覗っている。そんな彼女の背が、ルナにはいつにもなく勇ましく見えた。まるで盾になるかのように常に自分の一歩前を歩んでいた彼女。その背中をいつも追い掛け、そして守られてきた。しかし彼女はもう自らの護衛官ではない、旅の仲間なのだ。いつまでも守られているだけではいけない。
「私も戦う!」
勇気を出し、剣を鞘から引き抜いた。足の震えは完全に止まった訳ではないが、先程よりは大分自由が効くようになっている。練習通りにやればきっと大丈夫だ、そう自分を奮い立たせ迫りくる影に向かい一歩を踏み出したその時、
「ダメです!」
ユーリにあっさりと行く手を阻まれる。予想外の言葉を浴びせられ、悲しみに似た怒りが心の奥底から込み上げた。
「なんで!? 私も仲間よ、一緒に戦うわ!」
信じていたものに裏切られたような気分だ。自分が王女だから?それとも、足手まといになるだけだから?自分というものを否定される理由が分からなかった。
「どうしてもダメです...くっ!!」
言い争っているうちに、影の大群がついにルナたちの元へ到達した。レンはまだ戻ってこない。彼によって散々斬り伏せられたはずであったが、今目の前には空を覆い尽くさんばかりの数の影の波が押し寄せている。あまりの威圧感に思わずルナは後ずさりをした。
「レンが戻るまで離れていてください!」
そんな彼女を余所に、ユーリは影の波の中へと突っ込んでいった。
「ユーリ!」
飛び出したユーリを、あっという間に影が取り囲む。
「ルナ様には、指一本触れさせない! はぁっ!」
そう気合を入れると、ユーリは渾身の力で回し蹴りを繰り出した。強烈な蹴りを喰らった影たちが、次々と地面になぎ倒され消えていく。
(...よしっ! 大体、感覚は掴めたわ)
実体が存在しないものを相手に打撃を与えるのは初めての経験である。そもそもそのような相手に打撃が有効なのか半信半疑であったが、この様子を見ると剣や魔法と同じように足や拳での攻撃も効くらしい。だが蹴りつけた時に一瞬足にまとわりついてくるような何とも言えぬ不気味な感触は、この先いくら戦っても慣れる気がしなかった。
デュランダル王国においてレンの統括する剣兵部隊の次に戦闘能力が高いとされるのが武兵部隊。ユーリはその部隊にこそ所属していないものの、武術に関して非常に高い技術を取得している。その腕は武兵部隊長のお墨付きで、デュランダル王妃からの評価も高いことから、女性としては王国史上初めて、単独で王女の護衛官を任せられたのだ。
「なかなか厄介な相手ね...」
通常業務では、まず大人数相手に戦うことなどほぼ皆無である。たいていは王女の護衛で常に傍に仕えているだけで、デュランダルは比較的平和な王国であり、また王女はあまり外出を許されていないことから、そもそもこれまでに武術を披露する場すらなかったかもしれない。それでもすぐに実践出来るということは、日々の地道な訓練の賜物である。
そんなユーリではあるが、あまりの敵の多さに顔には焦りの色が見え始めた。
「このままだと、マズイ! ...きゃぁっ!!」
一瞬の隙を突かれ足を取られると、あっという間に大量の影が身体の上に圧し掛かってきた。その力に耐え切れずユーリはその場に倒れこんでしまった。すると背後からさらに押し寄せていた黒い波の矛先が、一斉にルナへ向けられた。
「ルナ様、逃げてー!!」
「...っ!? ユーリ?」
名前を呼ばれた方向を見ると、黒い影の塊がルナの方へ突き進んでくるのが目に入った。ユーリは無事なのだろうか、そんな状況を確認する余裕など一秒もなく、それらはあっという間に目前にまで迫ってきた。
「私がやらなきゃ!」
ルナは剣を握り締め、影に斬りかかった。
「はぁっ! ...あ、あれっ!?」
剣は確かに影を斬りつけたものの、するりとその体をすり抜けてしまう。もう一度、もう一度。何度斬りつけても結果は同じである。影はそんなルナの様子をあざ笑うかのように、彼女の周りを飄々と飛び回っている。
(レンやユーリの攻撃は効いていたのに...なぜ?)
気を取り直し、更に斬りつける。しかし、やはり刃は宙を斬るだけである。
ついに影の大群はルナに襲いかかった。身動きの取れない彼女の身体の上に次々と影は積み重なると、積乱雲のごとく大きく膨れ上がり、その姿を巨大な人の形に変化させていく。
「姫さん!! ...くそっ、あと少しなのに!!」
必死に二人の元へ向かっていたレンにも、その様子がはっきりと目に映っているのだが、まだルナたちのいる場所には距離がある。このままでは手遅れになる。最悪な結末が、レンの頭を過る。
ニンゲン、ノットル...
カラダ、ホシイ...
この世のものとは思えない不気味な声が、辺りに響き渡る。
ニンゲン、ノットル...
カラダ、ホシイ...
次の瞬間、どす黒い巨人の手がルナの喉元に掴みかかった。そして影は全身を激しく震わせると、そのまま静かに彼女の体内に侵入し始めた。巨人の身体は見る見るうちに小さくなっていく。
ルナは青白い顔をしてただその場に横たわっている。身体の自由を奪われ、抵抗することが出来ない。
(なに、この感覚!? 体が、凍りついていく...)
まるで夜になってしまったかのように、辺りが真っ暗闇に包まれている。視覚、聴覚、嗅覚、様々な感覚が奪われ、今自分の身に起きている事態も把握することが出来ない。次第に呼吸をすることも困難になっていくのを感じたが、しかし全身を影に浸食され思考は既に停止しかかっており、不思議と苦しさを感じることは無かった。意識が遠のいていく。
「ルナ様ぁー!!」
ユーリの悲痛な叫びだけが響き渡った。しかしその声も、もはやルナの耳には届いていなかった。