2.回想
......はあ、はあ...
一体どれくらい歩いたのだろう。時間の感覚も体の感覚も、全てすっかり麻痺している。
唯一残るのは、痛みの感覚。深く刻まれた額の傷が焼けるように熱い。そして未だ溢れ続ける血が目の前を真っ赤に染め上げ視界を奪う。
ふと恐怖心に駆られ、後ろを振り向く。星の瞬きのない漆黒の空の中、月だけが淋しげに光を発し、体を照らしつけてくる。もうあいつは追って来ないだろう。でも、光の無いところへ、一歩でも遠くへ。自分を知る者のいない地へ行かなければならないのに、体が鉄の塊になってしまったかのように重く動かない。
...俺、ここで死ぬのか...
「.........まだ息はあるわね。 神よ、この者に癒しを!」
何処かから感じる人の声と、温かな光。その瞬間から、痛みが一気に和らいでゆく。
...ここは...どこ?
「目が覚めた? ...安心して、ゆっくりおやすみなさい」
―――――デュランダル王妃の部屋。
(なんで急に、あの日のことを思い出したんだろう...)
レンは先刻ユーリに言われた通り、王妃の部屋へ訪ねてきた。考え事をしながら歩いたからだろう、かなり遠回りをしてしまったようだがそのことに本人は全く気付いていない。
「うーん、まいっか。 ...王妃さん、入るぜー」
返答を待たず扉を開けズカズカと中に入り込むと、王妃がいつものように窓辺に置かれたベッドに腰をおろしぼんやりと外の景色を眺めていた。あの時と、同じ微笑みを湛えて。
目が覚めた? ...安心して、ゆっくりおやすみなさい...
「レン」
名前を呼ばれふと我に返ると、先程までベッドに腰を下ろしていたはずの王妃が目の前に立ち尽くしていた。いつもとは違う畏まった表情をしている。
「あぁ、悪い。 ちょっと考え事して、て...」
その異様な雰囲気は、まるで別人のようであった。一国の王としての威厳に満ちた姿がそこにある。彼女は部隊に関する重要な話がある時は決まってこうである。正直、レンは”この”王妃を見るのが苦手だ。それにしても、今日は異様さが度が過ぎている。
「今日はあなたに、重大な使命を与えます...」
それみろ、いつもの重要な話が始まる...と思った通りの展開にレンは思わず呆れた様な表情をしてしまい、慌てて顔を元に戻した。しかし王妃はそこまで言いかけたが、その先を口にする前に再びベッドへ戻り腰を下ろしてしまった。よく見ると顔色が悪い。
「王妃さん、あんまり無理するとまたお姫さんが心配して...」
「レン!」
突然向けられた王妃の強い眼差しに、レンは思わず体を震わした。
「私とあなたが出会った日のことを、覚えていますか?」
そう話す彼女の顔は青白く、額にはうっすらと汗が滲んでおり今にも倒れそうである。しかし先程の異様な雰囲気は急にどこかへ消え、まるで心の奥底に語りかけてくるように深く、温かく、やさしい声は心に安らぎを覚えた。
「ここに来る前、ちょうど思い出してた。 命の恩人を、忘れる訳ないだろ?」
「...最近、部隊の方はどう? 今日の訓練は、もう終わったの?」
王妃の表情がいつものやわらかな笑顔に戻ったように見えた。
「お陰様で、今月は負傷者はゼロ。任務もまぁ大体成功してるかな。 前に話のあった隊長の後任も、良い奴が見つかって引継も終了済み、今日の残りの訓練はその後任のやつに任せてきた...っていつも思ってたんだけど、それくらい王様なら把握しといてほしいね」
一国の王へ対するものとは思えない失礼極まりない口ぶりも、王妃にとっては慣れたもの。くすくすっと可愛らしく笑いながら、はいはいと笑顔で受け止める。
「あなたがこの国に残り、隊長を引き受けてくれて以来、これまで私は本当に多くの使命を与えてきました。 時にそれは命の危険も伴いましたね...でも、あなたはいつも受け入れてくれた」
そう話す王妃の声は、少し震えている。
王国の人間は余所者を煙たがる傾向がある、完全に余所者の自分が受け入れてもらえるはずがないと、レンは傷が癒えたらデュランダルを離れるつもりでいた。しかしそんな彼を引き留め軍事研究所に入所するのを薦めたのは王妃だった。
「いつの間にか、この国の将来を託してしまっていた...レン、私は甘えすぎていたのかもしれません」
部隊長に就任し幾月か経った頃、研究所を揺るがす大事件が発生した。とある一部隊が壊滅したのである。以来デュランダル軍事研究所の兵力は急落、その危機の立て直しを図ったのがレンであった。
世界には四つの王国が存在する。四国はそれぞれに「研究所」と呼ばれる研究開発機関を設け、国ごとに異なる分野の研究を行っている。また各研究所には軍隊を所有しており、日々の訓練の他「任務」と呼ばれる仕事をこなすことを義務付けられている。「任務」には自国内で発生するもの以外に、王国間をまたいで発生する「国家任務」が存在し、世界的な問題を各国が協力して解決を目指すことにより平和維持を図っている。また実質的に、より多く、より危険なものをこなした軍隊が世界的地位を高めることに繋がっている。
先の事件により壊滅した部隊はそれまで世界ナンバーワンの実力を誇り、S級国家任務のほとんどを担当していたという。レンの率いる剣兵隊はその後を引き継ぎ、どの王国の部隊も手を出すことをしなかった危険任務を次々と引き受け成功を収めた。そしてこの彼らの活躍により、デュランダルの世界的地位を保たれたのである。
「...悪いけどさ」
それまで黙って聞いていたレンが、重い口を開いた。
「俺はこの国がどうなろうと興味無いし、それに任務中に死ぬことを恐れたことは一度もない...ただ」
ちらりと王妃の方を見やると、彼女はベッドに腰を下ろしたまま深刻な面持ちでこちらを見つめている。その手は固く握りしめられ、静かに膝の上に置かれている。
そんな姿を見たいんじゃない、自分は、ただ。
「生かしてもらった命だから、こんな自分を受け入れてくれた大切な仲間たちと、あなたの為に命を懸けてきた。 ただそれだけだから...あー、なんか俺らしくないな! 忘れてくれ!」
自分のことを話すことなど滅多にしないのだが、王妃の前では思いがけず言葉を発してしまうことが良くある。それほど気を許しているということなのだろうが、それを認めたくないという気持ちが同時に湧き上がる。そんなもどかしい感情に苛立つレンの姿を見て、王妃は再び温かな微笑みを浮かべた。
「本当にありがとう...レン、今日はあなたに最後の使命を与えます」
「最後...?」