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一日前/日本列島南岸沖/午後▷▷▷鹿児島志布志港/夜
家ほども大きい瞳……。
そんなとてつもなく巨大な瞳が突然目の前に出現したとしたら、普通は気絶してしまうかもしれない。泣きわめくかもしれない。発狂するかもしれない。
それなのに、ごくごく小さい子どもたちを含めた船内の誰もがその瞳を目の当たりにしても、取り乱したり、恐れおののくようなことはしなかった。みんなそれがちゃんと人間の瞳だと認識していたと思うのだけど、むしろ彼らの顔は、一見冷静だったり穏やかだったりしながらも、そこはかとない興奮と歓びに満ちているようにぼくには見えた。少なくともぼくはそうだった。
アイラはその、この世で一番巨大に違いない瞳で船内をしばらくの間覗き込んだあと──おそらくは彼女の性格からして、怪我人がいないかどうかを確かめたのだと思う──、ゆっくりゆっくりと身体を起こし、そして黒白のゴスロリ服に覆われた【平野】のようなだだっ広いお腹の前で、ぼくらの乗る総重量9,000トンを超える大型フェリーを両手で包み込むようにして持ったまま、波が起きないようにだろう、慎重に南へ向けて歩き始めた。
どうやらこのまま鹿児島の志布志港まで、ぼくたちを連れて行ってくれるようだった。
ふわふわと船体が宙を漂う中、ぼくは抱いていた幼女を母親の元へ降ろすと、一度船室に戻り、濡れたら壊れてしまう端末類を置いたあとにデッキへ出て、アイラの全体が一番よく見晴らせる場所に立ち、歩き続けるアイラの様子をずっと見上げ続けた。激しくもあたたかい暴風に吹かれ、暴雨に打ち付けられながら、数時間、ずっと。姿勢がきつくなってくると、しまいにはその場に仰向けになって。
ぼくが【他者への批判は自己紹介ではないか?】という考えを意識するようになったのは、そのときからだ。
あまりに遠いために霞がかって見えるアイラのふっくらとした胸元と、その谷間の部分から覗く白い顎の裏とを見上げながら、一切言葉を発しない巨大すぎるアイラのことを、可能な限り理解しようと試み、どうしても理解しきれなかったことを経てその考えに辿り着いた。
つまり人間は、自分の中に【データ】がないものは決して正しく理解できないし、他者へ伝えるべく表現もできないということだ。ぼくがどうしてもアイラをうまく理解することができないように、誰かへアイラのあるがままを表現して伝えることができないように。
例えるならば、誰かが黄色という【記憶とその言葉】を持っていなかったとしたら、目の前の【初めて見る黄色をそのまま理解し、他者へ伝えるべく表現】することは、【絶対に不可能】なのだ。
そう、人間は自分の知っている以外のことは、存在ごと無視することはできても、あるがままを正しく理解することができない。正しい言葉で表現することができない。伝えることができない。
だからそうしようとするとき、何をどう言っても、自分の持っているあり合わせの記憶や思考や感情を、あり合わせの言葉によってさらけ出してしまうだけだ。そしてそれはぼくらがよく知っていると思い込んでいることでも実質は変わらない。そしてそれこそが、人間が自分以外の何かを理解するということの本質であり、限界なのだ。
だから他者への批判は往々にして、言った本人が望まない、無自覚的な【自己紹介】になる可能性が高いのだ。己の無知を告発し、偏狭さを暴露することにつながってしまうのだ。人は結局のところ、持っているものしか発することができないのだから……。
だからそのときのぼくはこう思った。
むろん己の中に込み上げる他者への否定の想いをなくすことはできないけれど、でもせめて、口にしないことはできる。
だからこれからのぼくは、安易に他者を非難するようなことはやめようと思った。自分の意見を簡単に発信できるこんな時代だからこそ、むやみに毒突くことはやめようと。頼まれてもいないのに、自分の悪しき点や弱点を、何も自分から世界に向かってさらけ出す必要なんてひとつもないということだ。
そんなことを考えているうちにいつしかぼくは眠りについていて、ふっと目覚めたときにはもう既に船は鹿児島の志布志港に到着したあとで、人々が下船している最中だった。
時刻で言うと、午後の八時過ぎだ。
そしてアイラはいつの間にか、以前のごとく足をWの形にした女の子座りで桜島の前に腰を下ろしてにこにこと微笑んでいて、空は午後の暴風雨が嘘だったように無数の星と月とでぴかぴかに輝いていて、蝉たちの声が、心地よくうるさかった。