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親とはぐれてしまったのだろうか。壁際で一人しくしくと泣いている五歳くらいの幼女に気が付いたぼくは、彼女の元に移動してその小さな身体を抱き上げると、壁と床の境目に足をかけてなんとか体勢を保った。
多分幼女を捜していたに違いない。まもなく後、周囲を見渡しながら隣りにやって来た彼女の母親らしき人物──三歳くらいの男の子を抱いている──に、この子はぼくがしっかり抱いておきますので大丈夫です、と伝えた、その、数秒後。
「……ひょっとして、本当に沈没するんじゃないのか?」
遂に口にしてしまった誰かに対し、誰かが怒濤の剣幕で言い返す。
「ふざけるな! これはただのフェリー運航だぞ!? 街で言うとバスみたいなもんだ! 台風でもないのに沈没なんてあってたまるか!」
「……だが、現に数年前にも事故があったじゃないか! あのときだってありえないって言われてたんだぞ!?」
「あれは横転事故だ、沈没じゃない! 死者だってゼロだった! それにこのご時世に助けが来ないわけがないだろ! 電波はどこだって通じてるんだ!」
「そうは言っても携帯だって圏外だし、TVだって映ってないじゃないか!」
「黙れっ!」
子どもたちの泣き声が一段と大きくなる。
場の雰囲気に呑まれてしまったのか、とある者は勢い込んで船員に詰め寄り、とある者は連れの者と言い争いを始め、またとある者は必死になって手帳に文字を綴っている。遺書でも書いているのかもしれない。
しゃくり上げている幼女がぼくを見上げた。
「……お兄ちゃん、このお船、沈んじゃうの? わたしたち、死んじゃうの?」
ぼくはかつてのミロを思わせる、薄ピンク色のスウェットを着た彼女の身体をそっと揺すった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
幼女は涙にまみれた不安げな顔つきで、しゃくり上げつつもじっとぼくを見上げている。
「……ほんとうに?」
「ほんとうだよ」
ぼくは彼女の顔を指先で拭ってやりながら、半ば無意識のうちに言っていた。
「アイラがね……アイラが、きっと助けに来てくれるから」
ふいに幼女の顔がパッと輝いた。
「あの、おっきなお姉ちゃんが!?」
「そうだよ。あの、おーっきなお姉ちゃんがだよ!」
周囲の喧騒に合わせて声を張っていたために聞こえてしまったのだろう。ぼくが言い終えたその瞬間、子どもたちの泣き声がピッタリと収まった。それどころかほとんど全員と言ってもいい数の大人たちまでもがふっと静まったほどだった。
しかもそれは決して恐怖に基づく暴力的な沈黙などではない、あたかも雄大で穏やかな自然を目の前にしたときのような、畏れにも近い希望に満ちている自発的な静けさだった。その様子を目の当たりにし、ぼくはアイラがどれだけ人々の心に浸透しているのかを身を以って知り、こんな状況にもかかわらず、激しい感動に胸を打たれた。